五島昇は、こう述懐している。
「東映再建が失敗すれば当然、五島家は破産する。私は借金の大きさに身震いしたが、父はその話を淡々と聞くだけだった。全く動じない父の背中に、『事業家のオニ』を見た思いだった」(『私の履歴書』)
東映は、時代劇で息を吹き返した。占領中、時代劇は「封建思想を肯定している」として、制作は事実上禁じられていた。
昭和二十六年、講和条約が締結されて、時代劇が制作されるようになった。
東映にとって幸だったのは、大映の永田社長が「活劇よりも芸術映画を撮る」という方針を打ち出したことである。
大映では、溝口健二監督が、『西鶴一代女』、『雨月物語』などでベネツィア映画祭などでの国際的な賞を次々と受賞した。
永田は興奮したが、長い間、大映を支えてきたスターたち―片岡千恵蔵、市川右太衛門、大友柳太郎―は、待遇を不満として、東映に移籍したのである。
昭和二十七年には市川右太衛門の『江戸恋双六』がヒットし、以降、月一本のぺースで制作されるようになった。
京都撮影所制作課長の岡田茂は、述懐した。
「苦しい状況の時に一致団結するのが活動屋魂。とにかく皆、よく働いた。早撮りの名人といわれた監督の渡辺邦男にも来てもらってね。彼は十日で千恵蔵の映画を一本撮ってくれる。これは助かったな」(『映画百年』)
渡辺は「天皇」と仇名されていた。
昭和二十八年一月に、『ひめゆりの塔』が封切られた。
今井正監督、津島恵子、香川京子ら若手女優を起用して、日本映画はじまって以来の配給収入が得られたのである。
『ひめゆり』のおかげで、借入金を返却し、全国に百七十の専属館、千七百の上映館を持つ、業界トップに躍り出たのだった。
「大川によって東映は救われた。同様の意味で、彼は東急の大恩人である」
と、五島としては、最大の賛辞をもって、大川に報いた。
『週刊現代』2013年7月13日号より