業界では東映を「ハラワント映画」―「パラマウント映画」のもじり―と呼んだ。
「大東急」にとって、あるまじき失態だ。
五島は、大川博を呼んだ。
大川は中央大学法学部から鉄道院(鉄道省の前身)に入り、五島の知遇を得て、東急に入社し、五島の腹心になった人物である。
「この苦境を凌ぐには、君の手腕をもってしかない。東映の社長をやってくれ」
大川は固辞したが、五島は許さなかった。
「寝小便をした子供が布団をしょわされて、こういう羽目になりました」
逢う人ごとに大川は語った。
五島は撮影所のスタッフを前に演説した。
「このぐらいの赤字は、船一艘を沈めたと思えばたいしたことはない。みなさんは、一生懸命に働いてほしい。この撮影所が天下一になるまでは、五島慶太、再びこの門をくぐらないであろう」(『東急外史』)
撮影所の海千山千の古強者が、どよめいた。
マキノ光雄―マキノ省三の次男―が立った。
「いまは親会社からの借金で生きているが、やがてガッポリ稼いで、最後の借金を返す時には、私が使者に立つ。いまに二頭立ての馬車で金を東急本社に届けてやる」(同上)
五島は住友銀行に融資を申し込んだ。
はじめて息子の昇を交渉の場に帯同した。
住友銀行頭取、鈴木剛は、昇の顔を見ながら云ったという。
「東映がうまくいかなければ、この借金は孫子の代まで残りますよ・・・・・・」
住友銀行は、東映に対する個人保証を要求したのである。