どれも五年以上前に作ったものだ。それぞれに繋がりはなく、名前も違うしツイートの毛色も違う。趣味で切り分けた独立のアカウント。そしてそれぞれによく話す仲の良いフォロワーがいる。
半年前、仕事や生活上の様々な不安、小学生の頃から持っていた希死念慮がぐちゃぐちゃに混ざって、その中の一つのアカウントで死亡宣告をした。
遺族になりきって、「〇〇の親族です。〇〇は先日逝去いたしました。生前〇〇と親しくお付き合いいただいた皆様、どうもありがとうございました」
というふうに。亡くなった芸能人のツイートを参考にしてそれっぽい文面にして、葬式など様々なドタバタを暗に臭わせるために死亡設定日より期間を開けたりなんかもして巧妙に。
ツイートした直後、後悔した。なんでこんなことしたんだろう、意味がわからない、でももう呟いてしまったから消すわけにはいかない。
でも、そのアカウントで仲良くしていたフォロワーの一人がそれを拾った途端、後悔がぞくぞくとした快感に変わっていった。
「〇〇さん!? 嘘だ......」「そんな......よく話していたのに亡くなるなんて......」
私のために悲しんでいる。リツイートが増え、私の名前を見たことがある程度の人までご冥福をお祈りしている。彼ら彼女らにとって、私は死者になったんだ。
すごく気持ちが良かった。私が死んだだけなのに、こんなに多くの人がその死を悼んでいるのだという快感。
私の冥福を祈っている人たちのツイートを見ながら、私はにやにや笑っていた。
以来、私は一定の間隔をあけながら、私自身を死なせている。何度も死なせていたら当然アカウントが足りなくなってくるから、新しくアカウントをつくってまた別の関係を構築し直す。タグをつけているツイートを探してその人の作品や趣味に共感してあげたり、まめにいいねやリツイートをしてあげたり、「おもてなし」をしてあげさえすれば、ツイッターで人と仲良くなるのは簡単だ。もちろん、悼んでくれるような人を作るまでは時間がかかるから、簡単といっても短期間ですぐに作り上げられるというわけでもないけれど。
ともかくそうやってコミュニティに参入したら、頃合いを見計らって私は死ぬ。死因は様々だ。事故死、病死。自殺はうまくやると本当に気持ち良い反応が返ってくる。
何で気づいてあげられなかったんだろうとか、そういえばあの時のツイートは、とか、まだ若いのに、とか色々好き勝手に私の自殺の要因を想像している。愉快でたまらない。そういうツイートを見ているときがたぶん私にとって一番幸せな時間なんだろうと思う。
この前もまた私は死んだ。平成が終わるまでに、あと何回死ねるか。次はどんな死因にしようか。どんな訃報の文面を作ろうか。今日もそんなことを考えてわくわくしながら、私は呟いている。
一種のライトなストックホルム症候群では。 あんまりいい結末を辿りそうには見えない。
代理ミュンヒハウゼンやろそりゃ
その醜いにやにや、顔に張り付いてないといいね。
デジタル自傷。立派な病気です
ある意味自傷。ただしホントは痛くなくて快楽を得ている。 淋しい人なんじゃないかな。情報砂漠、人間砂漠で辛いんだろね。
自分が育てた匿名アカウントを殺して愉悦に浸る、ということで「デジタル自傷」って言葉を当てはめるには違和感ある。顕名・実名でやってるアカウントならともかく。 これはデジ...
増田で擬似的なツイッターの擬似的な死を楽しんでいるんですね、わかります
遺族からのツイート見るたび 「遺族にアカ教えてたんか…」って気持ちにかられる
家族への遺言?みたいなのがあったのでは???