小さな黒い手帳を発見して、 そこに書かれている太い鉛筆の文字の 「雨ニモマケズ」を、 草野心平や、賢治の弟の宮沢清六らと 回し読みをしている場に、 52歳の 高村光太郎もいた! あー、面白い。 これ、1934年だから、 智恵子の精神分裂症が悪化して、 九十九里浜へ引越しし、 高村光雲が死んだ年だ。 で、さっきから賢治や高村光太郎をめぐる 私の蔵書を再読してんだけど、 どこにも永瀬が出てこない(がくっ)。 |  |
しかし、吉本隆明の処女作が評論『高村光太郎』(1957年)であるのは偶然では無いような気がする私だ。
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この
宮沢賢治が1933年に37 歳で死んだ翌年のトランクが開かれた席で、
28歳の永瀬清子は、
52歳の高村光太郎から
「あなたの詩にはあなたのよさがまだほんとうに出切っていないようですね。もっとお書きなさい。」と、助言される。
その6年後、
1940年に永瀬は次の詩集『諸国の天女』を発表する。
この詩集の序を高村光太郎が書いているのだから、助言は大きなメッセージであったのだろう。
この詩集『諸国の天女』は、今でも吉本隆明が愛読する彼女の最高傑作となった。
この詩集の成功を永瀬は先に引用したエッセイで次のように回想している。
「私にもしよさがあるとすれば、その頃の他の詩 人よりも早く、 宮沢賢治のすぐれた性格が身にしみて感じられたと 云う事その事にあるので、 高村さんもそこをみて云って下さったのだろう。 この一夜はたのしいつどいであり、 かの厭世青年と同じく、私に多くのことがわかり はじめたのだ。」 そして、もうその1940年、34歳の永瀬は日本を代表する詩人となっていた。
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▲1940 年2月 神保光太郎詩集『鳥』出版記念会にて。 中列左、保田與重郎。 前列左より、亀井勝一郎、永瀬清子、照井瓔三、大木惇夫、神保光太 郎、萩原朔太郎、北川冬彦、丸山薫。 萩原朔太郎は永瀬にむかって、
「今、詩を書いている人達には叙情があっても Thought がないのです。あなたにはそれがある」と、
評したという。
この朔太郎の発言は、上記に引用した2008年の吉本隆明のインタビューでの永瀬評と同じ指摘だと私は想う。
詩人は時代のカナリアだと言う。
才能のピークを迎えた永瀬をはじめ、写真に並ぶこれだけの知性が日本にあっても、
翌年の1941年、日本は大東亜共栄圏の建設を唱えて、太平洋戦争を始める。