【日本コピペ紀】百田尚樹『日本国紀』に、一頁近い新聞記事からのコピペ編集が発見される。

日本コピペ紀

昨日より、百田尚樹『日本国紀』(幻冬舎, 2018)において、ウェブサイトやWikipediaなどからのコピペ編集であり、著者である百田尚樹氏の独自性が極めて薄いと考えざるを得ない箇所が多数報告されています。本記事ではそのような報告の中でも、まさに特筆すべき次の報告を検討します。

異同の対比

百聞は一見に如かず。対応箇所を比較し、逐語的に一致している箇所を赤字にします。

『日本国紀』p. 53 真木嘉裕「聖帝・仁徳天皇 民のかまどは賑いにけり」大阪新聞(1999.12)
仁徳天皇四年、仁徳天皇が難波高津宮から遠くを見てこう言った。 仁徳天皇四年、天皇が難波高津宮から遠くをご覧になられて
「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないのではないか。都がこうら、地方は一層ひどいことろう」 「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないのではないか。都がこうだから、地方はなおひどいことあろう」
そして「向こう三年、税を免ず」いう詔をした。それ以降、仁徳天皇は衣を新調ず、宮垣が崩れ、茅葦屋根が破れても修理しなかった と仰せられ「向こう三年、税を免ず」(みことのり)されました。それからというものは、天皇は衣を新調されず、宮垣が崩れ、茅葦屋根が破れても修理も遊ばされず、星の光が破れた隙間から見えるという有様にも堪え忍び給いました
三年が経ち、ある日、天皇高台に出と、炊煙が盛んに立つのを見て、かたわらの皇后にこう言った 三年がたって、天皇高台に出られて、炊煙が盛んに立つのをご覧になり、かたわらの皇后に申されました
「朕はすでに富んだ。ばしいことだ」
「朕はすでに富んだ。ばしいことだ」
すると皇后は言った。
「宮垣が崩れ、屋根が破れているのに、どうして富んだ、といえるのですか」
変なことを仰言いますね。宮垣が崩れ、屋根が破れているのに、どうして富んだ、といえるのですか」
これに対して天皇はにっこりて、こう答えた 天皇はニッコリされて、こう申されました。
「よく聞け。政事は民を本としなければならない。その民が富んでいるのだから、朕も富んだことになるのだ」 「よく聞け。政事は民を本としなければならない。その民が富んでいるのだから、朕も富んだことになるのだ」
その、諸国の人々から、「宮殿は破れているのに、民は富み、道にものを置き忘れても拾っていく者もない。この時に、税を献じ、宮殿を修理させていただかないと、かえって天罰を蒙ります」との申し出が次々とあた。 そのころ、諸国より
「宮殿は破れているのに、民は富み、道にものを置き忘れても拾っていく者もありませんもしこの時に、税を献じ、宮殿を修理させていただかないと、かえって天罰を蒙ります」
 との申し出が頻頻とあるようになりました。
しかし天皇は引き続きさらに三年間、税を免除した。そして六年の歳月が過ぎ、やっと税を課し、宮殿の修理した。 それでも、天皇は引き続きさらに三年間、税を献ずることをお聞き届けになりませんでした。六年の歳月がすぎ、やっと税を課し、宮殿の修理をお許しになりました。
『日本国紀』p. 53 真木嘉裕「聖帝・仁徳天皇 民のかまどは賑いにけり」大阪新聞(1999.12)

口語と敬語などの編集を考慮すれば、殆ど一致しており、百田尚樹氏の独自性は殆どない箇所であると指摘できるでしょう。なお両資料に共に「天皇は、ニッコリされて、こう申されました」「天皇はにっこりして、こう答えた」 という類似記述が確認されますが、この「ニッコリ」「にっこり」に当たる箇所が『日本書紀』中に確認されません(単に原文には「天皇曰」、また岩波文庫版訳には「天皇がいわれる」)。まさにこのことこそが百田尚樹氏によるコピペ編集であることを物語っているように思えます。つまり、百田氏は原典に当たらずこの箇所を編集したため、本来消されるべき箇所を残してしまったのです。

まさにアームズ魂氏の革命的発見であり、氏の偉業は永く語り継がれるでしょう。

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