ありきたりな「自己正当化」と「責任逃れ」だからタチが悪い

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例の財務省事務次官、国税庁長官(そして、彼らを任命した政権)、日大アメフト部――。最大の問題は彼らが極めて「凡庸」であることにある。事実に対して問題をすり替えて否定を続けるか、悪意はないとシラを切るか、あるいはその両方か。様々な手法を駆使して事実を否定する。

彼らは「嘘をつくことを何とも思わない根っからの悪人」というより、ただ「自己正当化し、責任から逃れる言い訳を繰り返す人」にしか見えない。こう思う人は多いのではないだろうか?「これって『あるある』じゃないですか」と。

まさに「あるある」ネタなのだ。より本質的な問いは彼らが悪人であるか否かではない。ありがちな問題=凡庸であること、つまり、この社会にありふれているから厄介なのだ。

私が活動しているニュースメディアの業界も例外ではない。本来なら事実を何より大事にして、言論に責任を持たなければならないメディア業界でも「責任逃れ」や「事実を認めない人」はありふれているのが現状で、一皮むけば、さすがに人間がやっていることなので、いろいろある。

学生時代に学んだ政治思想史ゼミの指導教官はフェミニストだった。彼女から教わったことに「個人的なことは政治的なこと」という言葉がある。これにならって、自分が経験した、あるいは裏が取れる範囲で業界内で見聞した個人的な話を書いておこう。

ある報道機関を退職した記者は、元上司の問題発言についての録音を持っていた。自分が受けたハラスメントを証明するために必要だと判断したからだ。

会社側は録音があるとわかると、記者に対して「退職後も有効な機密保持を定めた合意書がある。それによると録音を保持することは認められていない」「合意書によると(この会社の)関係者の名誉を毀損する可能性のある情報の伝達は禁止されている」という通告を複数回、送った。

ハラスメントから身を守り、証明にするためには当然ながら問題発言を記録する必要がある。自分の身を守るために退職後も録音を持っているのは当然のことだが、会社側の主張通り通告を厳密に守れば、録音は消去せざるを得ず、第三者への相談すら合意書違反ということになってしまう。

合意書違反をちらつかせれば、結果として元上司の発言はうやむやになり、辞めていった記者の「口止め」も成功し、問題はなかったことになる。会社側は「事実」を書いただけだと主張するだろうが、圧力をかけて「口止め」を図ろうとする意図は大いに読み取れる。

自分にとって「不都合」な発言を徹底的に否定し続けたメディアのトップがいる。トップは不必要な発言を部下に繰り返した明確な証拠があるにもかかわらず「そのようなことは言っていない」と事実を何度も否定した。その根拠は、「自分はそんな趣旨では言っていない」というものだった。

まるで日大アメフト部の監督のような言い訳だが、彼らのようなタイプには主観的とはいえ真実なのだろう。「そのような趣旨では言っていない」という発言に含意されている主張は2つしかない。

第一に「自分の発言意図を汲み取らない受け取り側、そしてコミュニケーションの問題」という論点のすり替え。第二に彼ら自身にとって大事なのは「事実」よりも「趣旨」という信念の吐露である。

結局、そのトップは証拠を突きつけられ、裏では苦し紛れに発言の事実を認めるのだが、謝罪については被害を訴えた部下側が秘密保持を約束しない限りしないという対応をとった。謝罪をしてほしいのなら、黙れという要求だ。ニュースを扱うメディアとして言論に圧力をかけるというのは驚くばかりだが、トップを守るためか会社もこの対応を支持している。

いずれにしても、この手の報道機関の頭にあるのは「美しく前向きな言論を世の中に出す」自分たちのイメージを悪化させないため、いかにして被害を訴える側を黙らせるかということに尽きる。

こうした報道機関がセクハラ告発を賞賛して「声をあげよう」と呼びかける記事であったり、ファクトチェックの重要さを説いた記事であったりを掲載しているのを読むにつけ、何をか言わんやとなるのだが……。

さて、重要なのは、勇気を出して告発をしても「不正や嘘」をつき続ける凡庸な人たちが1回で認めるなんてことはまずないということだ。

彼らが「自己正当化」を始めると、場の空気を読み、組織や自分の置かれた社会的立場を守るために、同調する人が出てくる。ハラスメントを告発しても「ついていった人が悪い」「言われた人も〜〜な問題があり、言われるのは当然」「告発するなんてXさんはなんかやばい人だね」「私は我慢しているのに」といった声があがるのがその証左である。

あげく「告発された◯◯さんと、告発したXさんはもめていたからね」と人間関係の問題に矮小化する人たちまで登場する。加害者側の発言や行為の問題から、「いじめられる側にも問題がある」という話にすり替わっていくのだ。

こうなると、よほどの精神的な体力がない限り、人は戦わずして沈黙を選ぶ。人間はそこまで強くない。カミュの不条理小説『ペスト』の主人公、医師のリウーが「絶望より悪い」と語る「絶望に慣れる」という心理状態に陥るのだ。

被害を訴える側は理不尽な反論に対し、「自分にこそ問題があったのだ」と自身に絶望し、過去の行動を責め、やがて声をあげる気力と言葉そのものを奪われ、沈黙に慣らされていく。

こうして凡庸な彼らの目論見通り問題は「なかった」ことになり、彼らと社会は変わらずに、問題だけが温存される。

あるあるな「凡庸」と戦うための方法は一つだけある。黙らずに言い続けることだ。これはニュースメディアや記者の、本来の役割である。メディア自身が沈黙を強いる側に回ることがあるという事実も紹介したが、記者自身が率先して黙ってはいけないだろう。

「いつまでも問題を蒸し返して」という空気に抗って、身も蓋もない事実を出し続ける。「不正や嘘」に事実をもとに立ち向かう姿勢を示すことが、沈黙を選んだ人たちに向けてのメッセージになる。

もっとも、事実を言い続けるのは、私を含めてプロであっても難しい。シラを切ったり、質問をしてもまともな回答を拒んだりする相手に呼びかけたところで、まともな議論にならない。言い続ける方が徒労感を覚え、何度も口にすること自体が馬鹿らしくなり、やがて周囲の関心も次の話題へと移っていくのが現実だ。

不条理な現実や社内の空気を前にして、それでもなお「私」の言論、ーーリウーのようにーープロとして職業倫理に忠実でいられるか、空気に言葉そのものを奪われた人を放置していないか、言うこととやっていることが違っていないか——。

絶え間なく自身に問いかけ、言論の自己検証を続けながら、事実を言葉にして積み上げていくしかないだろう。

最後に、少し前にコム デ ギャルソン社が外壁に掲げた詩人E・ E・カミングズの言葉を紹介して、原稿を閉じたい。沈黙を選びそうになるとき、私はいつもカミングズの言葉を思い出す。

そこにはこうある。

「常にあなたを他の誰かのようにしようとする世の中で他の誰でもない自分でいること。それは人間にとって最も過酷な戦いに挑むことを意味する。戦いを諦めてはならない」、と。

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