本名=天野 忠(あまの・ただし) 明治42年6月18日—平成5年10月28日 享年84歳(忠恕大心居士) 京都府京都市北区寺町鞍馬口下ル天寧寺門前町301 天寧寺(曹洞宗) 詩人。京都府生。京都第一商業学校(現・西京高等学校)卒。京都大丸のほか職を転々としつつ詩を書き、昭和29年「重たい手」で注目される。『天野忠詩集』で無限賞、『私有地』で読売文学賞を受賞。『石と豹の傍にて』『春の帽子』などがある。  無とは何だろうか あるものが無いことだと 辞書には書いてあるのだが 今日 F君の座蒲団が届いた 書斎でうつ伏したまま死んだF君の これはかたみである この座蒲団の上でひねもす ものを思い詩や文章を書き絵を画き ときには うたた寝の枕ともし 役者が舞台の上で死ぬことを名誉とした如く F君は座蒲団の上でもの思いながら (ものを思うようなかたちで) 死んだ この座蒲団の上に 私の親しい友F君は 在ったのだ 確かに。 しかし いまは無いのである。 だから ちょっと手をのばして 私は座蒲団の上のF君の無に触ってみる 在るものが無い (F君の無) 黒田三郎はいう。〈今の世に詩人らしい詩人というのは、ひっそりと京都に暮らしている天野忠ひとりではないか〉と。天野の散歩道、京都・下鴨神社糺の森の紅葉はことのほか美しいが、まだまだ見頃にはほど遠かった。その森の北方、「下鴨北園町九十三番地」、草木の植えられた細長い路地の奥にたたずむ質素な平屋建て、五十数年を経た借家で暮らし、平成5年10月28日夜7時23分、京都市北区の病院で多臓器不全のため天野忠は死んだ。 こんな詩がある。〈最後に あーあというて人は死ぬ(中略)わたしも死ぬときは あーあというであろう あんまりなんにもしなかったので はずかしそうに あーあというであろう。〉——ただし、最期に「あーあ」と言ったかどうかはだれも知らない。 粉雪がちらつく路を河原町からずっと歩いてきた。御所もそのまま突っ切ってきた。御所の中だけでもかなりの道のりだったが、御所のなお北、天野の住んだ下鴨北園町との中ほどに曹洞宗天寧寺はある。賀茂川の流れはすぐ傍だ。江戸時代の茶人金森宗和の墓もあるこの寺に詩人天野忠の墓があった。2日続きの雨できれいに洗い出された「天野家之墓」。「木漏れ日拾い」の中にあるように、かつての半分潰えかかった二つの墓を始末して建てられたポルトガル産の墓石なのかどうかは判然としないのだが、側面には「昭和五十九年五月建之 天野 忠」とある。カラスが一声「カァー」と鳴いて、大きく開けた宙天の陽に晒され、青みがかったツルツルの碑面がのんびりと大きなあくびをした。 |