日本の治安は、最近悪くなったとはいえ世界でも有数の良さがしられています。
外国から日本にやってきた人たちは、その事実を知って驚きます。
夜中に女性が独り歩きすることができる(外国では、襲われる可能性が高い)
小学生の子どもが、一人で電車通学している(外国では誘拐される可能性が高い)
財布を落としても、中のお金が1円も減らずに戻ってくる事が多い(外国では、戻ってくることはほとんどない)
東日本大震災の時、略奪暴行騒ぎがほとんど起きなかった(外国なら略奪暴行が頻発する)
(だが、不良外国人、ヤクザ、半グレが組織的窃盗団を作って、大規模な窃盗を行っていた)
等々、日本の治安の良さを聞く機会は多いと思います。
では、江戸時代はどうだったのでしょうか。
今から200年以上前の、修行僧の旅行記に次のような記載がありました。
「お伊勢参りから、安芸の宮島に参詣し、さらに出雲大社に向かう途中の女性3人組と一緒の宿に泊まった」というものです。
江戸時代も女性だけの旅が可能なほど、治安は良かったようです。
しかし、古代や中世の日本の治安はあまり良くなく、強盗や空き巣もたくさんいました。
もちろん海賊や山賊もたくさんいました。
戦国時代までは、日本でも奴隷市場が開かれ人身売買が行われていたことは、人々の記憶から消えてしまいました。
戦国時代と江戸時代の治安のギャップの大きさに、驚く人が多いでしょう。
「平和ボケ」と言われるほど、日本の治安が良くなったのは、いつ頃なのか知らない人は意外に多いと思います。
その、治安が良くなるきっかけを作ったのは、歴史の教科書でもおなじみの、織田信長なのです。
織田信長の家系は、尾張守護代家の戦奉行の家柄(弾正忠家)でした。
飛躍のきっかけになったのは、信長の祖父に当たる織田信定が、津島の掌握に成功したことでした。
当時の津島は、日本有数の貿易港として知られており、そこには裕福な商人(津島衆)が多数いました。信定は彼らの利権を擁護する代わりに矢銭(献金)を受け取り、その資金を元に勢力を拡大しました。
津島衆にしても、信定の勢力が拡大すればするほど商売が拡大することができるので、信定の後押しをしました。
このように、弾正忠家は商業権益を基盤に勢力を伸ばした家でした。
では、なぜ津島衆は織田信定(弾正忠家)に矢銭を納めたのか。
その理由は、当時の商売のリスクヘッジのためでした。
さて、当時商売をする上で邪魔になる存在は何かというと、山賊や海賊でした。彼らに街道や航路を封鎖されると、高い通行税を払わされ、逆らえば積荷だけでなく命まで奪われかねない、危険な存在でした。
織田信定は、津島衆の保護のために、これらの盗賊を討伐して商人の利権を守ったのです。
その結果、弾正忠信定は商人たちの信頼を勝ち取り、さらに勢力を伸ばしました。
信長の父、織田信秀の時代に津島衆だけでなく熱田衆(名古屋の熱田神宮門前の商人衆)の支配に成功して、勢力をさらに拡大しました。
信長は、勢力拡大のために、祖父や父が行ってきた方法をさらに徹底しました。
それが、有名な「一銭切り」です。足軽、小物も含むすべての家臣に「一銭でも盗みを働けば死罪」という、当時としてあり得ない軍律でした。
当時の戦国大名は合戦で勝った場合、付近の村を襲って略奪暴行を行うのは常識だったからです。
当時の足軽や下級家臣は、略奪で得られる利益のために、出陣するようなものでした。
(現在の感覚でいえば、出稼ぎのようなもの)
合戦が終わった後は、捕らえた人たちを対象に、人身売買の市が立つのが普通でした。
(あの上杉謙信も、家臣の略奪暴行を黙認していた)
それを、織田信長は否定したのです。部下の軍勢に対しては略奪暴行を一切禁じ、物資は対価を払って購入していました。
さらに、交易の邪魔になる盗賊に対しても、厳しい態度で望みました。
その結果、信長が尾張を統一した後は、商人が道ばたで昼寝ができるほど、治安がよくなりました。
さらに、信長の上洛後、軍律の厳しさが知れ渡る事件が起きました。
京都御所の造営の際、ある雑兵が女性の笠をめくって、顔をのぞこうとしました。それを見つけた信長は雑兵へ駆け寄り、一刀のもとに首をはねたのです。
たかが、笠をめくっただ程度で首をはねるとはひどいという方もおられるかもしれませんが、この行為は、現在でいえば、公衆の場で痴漢行為を行うくらいの狼藉なのです。
今まで、上洛してきたあまたの軍勢は、京の町で略奪暴行を行うのがふつうだったのに、信長はそれを行わず、さらに狼藉を働いた雑兵の首をはねたので、京の民衆は「織田信長は、理由なく略奪暴行はしない」ということが知れ渡ったのです。
これらの行動により、信長は民衆の支持を得ることができ、天下統一に向かうことができたのです。
「一銭切り」の軍律は、民衆の支持を得るための重要な要素であることを知った豊臣秀吉にその政策は受け継がれ、さらに徳川家康が開いた江戸幕府に受け継がれました。
江戸時代の法では、「十両盗めば死罪」など、犯罪者に対して厳しい処分を下すようになっていました。
その結果、民衆に「犯罪をすることはよくない」という意識が植え付けられ、江戸時代は、家に鍵をかける必要もないほど、治安のよい社会ができました。
その意識が、現代まで受け継がれているのです。
最近は、「油断する方が悪い」という、外国人窃盗団の暗躍により、よき文化が廃れつつあることが残念です。
治安回復の道は、遠くなったようです。