ルカ・モドリッチ:紛争難民から世界最高になるまで
その土地は荒れ果てていて、生命の息吹を感じさせるものなど何一つなかった。
命を育むはずの土は硬く固まっていて、風が吹くたびに塵が舞う。木々は山火事で燃え尽き、単なる“黒ずんだもの”に変わってしまった。
枯れた大地で繁栄するものなど、何もなかった。
かつて、山沿いには家畜の姿が数多く見られた。羊や山羊が生い茂る草を食べ、のんきにあくびをしている場面は決して珍しくなかった。
しかし、それももう過去の話だ。家畜を飼うのは難しい環境になり、売買すら成り立たなくなった。ヴェルビト山脈とダルメチア海岸に近い高速道路沿いは、命の気配を感じすることすら難しい場所になってしまったのだ。
そこにあるとするなら「無」と呼ばれるものだろう。美しさと虚しさが共存した何もない場所――。謎めかしさすら漂うそれを、我々は「無」と呼ぶのだ。
ルカ・モドリッチがかつて住んでいた村を一望できる小道を抜けると、湖のほとりに家が立っている。道から少し外れたところには屋外トイレと小屋がある。その近くには険しい山肌を囲うように、こう注意書きが見えた。
「近づくな。この先一帯には地雷が埋まっている危険がある」
この家もかつては命が宿っていた。三世代に渡る家族の人生に寄り添い、文字通り人々を守り続けてきた。
しかし、今となっては面影を見ることすらできない。
かつて青々と茂っていた芝は枯れ果ててしまった。窓枠にはまっているはずのガラスはすでに割れていて、瓦礫や石ころとともにそこら中に転がっている。
家の正面にあるドアの前には、鎖で固く閉ざされたゲートがある。そこにはA4サイズほどのクロアチア国旗が刺さっている。
命の気配すらしない枯れた大地と不気味なほど静かな廃屋。
そんな場所にあるこの旗だけが、世界最高の司令塔であるルカ・モドリッチが住んでいた証なのだ。
1991年はクロアチア紛争真っ只中で、モドリッチが暮らしていたヤセニッツェという町はセルビア軍に占領されていた。紛争後、命からがら生き延びた少数の老人たちが必死に生きようとしていた場所でもある。
1991年12月18日の朝。午前9時ごろに“オグロヴァッツ・チェトニック”(旧ユーゴスラビアのセルビア系部隊)がヴェルビトに向かって侵攻していた。風が吹き、砂が舞うヴェルビトの道を行進しながら、彼らは歌を歌っていた。偏向的で狂暴とも言えるリズムに溢れた古めかしい曲だった。
そんな中、セルビア部隊は羊と山羊の群れに鉢合わせる。家畜たちに餌を与え、世話をする一人の男が見えた。その男こそ、モドリッチの祖父だった。名前は同じルカ。祖父はクロアチアにあるオブロヴァッツという小さな町よりさらに北に位置するザタン・オブロヴァキという村出身だった。
チェトニック部隊の車両が止まる。兵隊たちは車から降りて気味の悪い歌を口ずさみながら、その羊使いに近づいた。そして「誰だ貴様は! ここで何をしている? ここはセルビアの占領下だぞ!」と言い放った。
彼らは羊使いを突き飛ばし、「こっちへ来い!」と怒鳴り散らした。怯え切った羊使いが何歩か歩み寄った瞬間、恐ろしい銃声が鳴り響く。モドリッチの祖父は崩れ落ちたのだった。
哀れな羊飼いを殺害した後、殺人部隊は汚れ仕事を終えるために目的地へ向けて再び歩み始めた。セルビア人部隊は、その日だけで6人以上の老人の命を奪った。
モドリッチの祖父が殺された事件は『サダルスキ・リスト』紙の新聞記者イヴィカ・マリジャチッチが1995年の春に報じた。警察署の外では、この凄惨な事件がまるで英雄譚のように語られていた。国際司法裁判所でもセルビア当局がこの犯罪に関与していたと明らかにされていたが、それ以上の調査はしないよう命令が下された。
モドリッチの祖父を撃ったのが誰であれ、結局、真犯人が断罪されることはなかった。国外かどこかへ逃げていて、追跡すらできなかった。祖父が殺された当時、モドリッチはまだ6歳だった。片田舎で最愛の祖父と過ごす生活は終わりを告げた。そして家族とともに難民となり、故郷に戻ることはなかった。地雷に囲われた家など、住むに値しなかった。
それがモドリッチの凄惨な少年時代だ。
代わりの家もなく、ザダールの町にある難民キャンプで過ごしていた。だからこそ、プロサッカー選手として手にした初めての給与で、ルカは家を買った。両親にプレゼントするために。その家が、新しい“故郷”になるように。
廃屋になった旧モドリッチ家。その近くでフットボールをしようものなら、ボールは道に沿って転がり落ちていったに違いない。本来、そんな場所でフットボールなどできるはずもないのだ。
「彼は一体、どこでボールを蹴っていたんだ?」
誰もがそう思うに違いない。そう考えるのも当然だ。
だが、彼にはそれが可能だった。後に世界最高のフットボーラーとなった、彼になら。
現在、ホテル・コロヴァーレは四ツ星ホテルに数えられる有数のリゾートだ。アドリア海を背後に望む、絶好のロケーションを誇っている。だが、クロアチア紛争中は難民シェルターとして使われていた。そこには、不幸にまみれた家族が溢れ、帰る故郷もない他国の人間もいた。モドリッチ家はそこに7年間も住み、最後の家族としてそのシェルターを出た。
ホテル・コロヴァーレには広大な駐車場があり、若き日のモドリッチはそこでフットボールに打ち込んでいた。彼は勉学にも励み、ホテルと反対側に住んでいた小学校の先生に難民シェルターに来るよう頼み、宿題を教えてもらっていたという。
幼き日のモドリッチは賢かった。そして運動神経も抜群だった。どんなスポーツをやらせても群を抜いていた。後にクロアチア代表で顔を合わせるダニエル・スバシッチとともにバスケットボールで2on2をしたり、ハンドボールでGKを務めたりと、多方面でその才能を発揮していた。
体育教師がモドリッチのプレーをはじめてみたとき、衝撃を受けたという。それから年上に混ぜてプレーさせ、GKもやらせた。どんなポジション、どんな役割を与えても、ルカはずば抜けていた。
子どもの安全は保証されていなかった。ザダールはまだ紛争地域であり、薬きょうが絶え間なく降り注いでいた。サイレンが鳴ることも珍しくなかった。モドリッチとクラスメートはサイレンが鳴るごとに机の下に潜った。そんな日々だった。そんな状況に慣れすぎて、隠れている時間に笑いながらおしゃべりをすることもあった。
ピッチでも環境は変わらなかった。練習中に警報が鳴るのは日常のありふれたワンシーンだった。モドリッチとチームメートはすぐに避難し、鳴り終わるとピッチに戻ってまた練習する日々を過ごした。
学校に通う子どもたちは紛争から守られてはいたが、何も影響がなかったというわけではない。3年生になったとき、精神的に影響を与えた出来事について書くという授業があった。そこでモドリッチが選んだテーマは“祖父の死”だった。
困難を乗り越えたことのないフットボーラーなどいない。ただ、モドリッチが過ごした境遇は他とは全く異なる。
そもそも、フットボールとは無縁の家庭だった。しかも彼が生まれたとき、家族は生きるのに必死だった。娯楽やスポーツなんてものは、選択肢にさえ含まれていなかった。
体のサイズにも問題があった。モドリッチは常にチーム一番の痩身で、とにかく小さかった。同年代の選手が着る平均的なサイズのシャツに袖を通そうものなら、どうしたってXXLサイズにしか見えなかった。
実際、クロアチアの名門クラブ、ハイデュク・スプリトも「小さすぎる」という理由で入団を断っている。
しかし、モドリッチ本人と彼の周囲の人間はサイズなど気にも留めなかった。彼らのチームが格上の相手と対戦するとき、モドリッチはセンターバックでプレーした。彼をピッチの一番後ろに配置することでゲームをコントロールしようとしたのだ。
彼はピッチ上で誰よりも速く、いかなる困難にも打ち勝っていた。体育教師は「たとえコンクリートのピッチでスライディングを仕掛けても、ケガ一つ負わないだろう」と豪語するほどだった。
モドリッチの重心の低さは、急速な方向転換と柔軟な捻りを可能にする。今ピッチ上で見せているようなパフォーマンスを、プロになる前からやってのけていたのだ。
ディナモ・ザグレブに入団したとき、時折午前3時に帰宅する過酷な日々を送った。家に帰ると、ガールフレンドが決まってステーキを用意してくれていた。モドリッチは疲れた体を椅子に投げ出し、日付が変わる前に終わった試合を思い出しながら肉を頬張るのだった。
ユース時代、アウェーゲームに勝ったときは彼のお気に入りの歌手ムレイデン・グラドビッチの曲、『Nije u soldima sve』を帰りのバスで歌った。
時は流れて2018年。ロシア・ワールドカップでもこの曲は歌われていた。クロアチアが勝利するたびに、みながこの歌を口ずさんだのだ。
そのいずれの中心にもモドリッチがいたことは、言うまでもない。
ザダールには、モドリッチがプロ入り後に苦労した証が残っている。
彼がかつて通っていた学校と隣接したホテルの壁には、W杯で栄光を築くまでの苦い日々を表す落書きが残されている。
「モドリッチとマミッチはクソッたれだ。君は一生この日を憶えているだろう、モドリッチ」
かつての所属クラブ、ディナモ・ザグレブでディレクターを務めていたズドラフコ・マミッチの偽証罪を糾弾したものだ。マミッチ氏は横領や脱税に加え、2008年にディナモ・ザグレブがモドリッチをトッテナムへ売却した際、移籍金を着服した容疑がかけられていた。そこから派生し、モドリッチにも偽証罪の疑いがかけられていた。クロアチアの国民的英雄は、ピッチとは離れた問題で国民と微妙な関係性にある。
もっとも、今夏のワールドカップで流れが変わったことも事実だ。チームを決勝に導く活躍をしたからといって法定から逃れられるわけではないが、クロアチア国民が夢見心地な日々を送れたことを忘れることはない。
モドリッチの物語は一筋縄ではいかないし、一筆書きできるような単純なものではない。
彼は長い年月をかけた壮絶な修練と、目の前に立ちはだかったすべての困難を乗り越えたからこそ、普通のフットボーラーより大きな名声を得ることができた。
いつが一番苦難だったかは分からない。ザグレブに移籍する前が、恐らく一番酷いときだったのではないか。あるいは戦争中、最愛の祖父を亡くしたこと、ローン移籍で出されたことが一番過酷な場であったかもしれない。
レンタルで出されたボスニア・リーグは、世界で最もダーティーなリーグとして知られている。HSKズリニスキでは、ケガとともに試合を終えるような日々を送った。だが埃を払うように水に流し、次のゲームに向かった。すると最終的には、その年のリーグ最優秀選手賞を受賞していた。
ザグレブに戻るまで、そんな過酷な日々を繰り返してきた。スタディオン・マクシミール(ディナモ・ザグレブの本拠地)のほど近くにある安上がりなアパートに住み、試合後のあらゆる誘いを断った。華やかな生活がこの大都市に来た理由ではなかった。あらゆることから学び、勝利を知り、進化するために来たのだ。
想像もつかないようなときを生きてきたモドリッチにとって、唯一と言っていい心休まる場がピッチの上だった。フットボールに生きる道を見つけたときから、彼を止めるものなんてなかった。彼は内戦という閉ざされた世界から自らの手で扉を開き、自らの足で階段を駆け上がり、フットボールの世界で成り上がったのだ。
■冒険は確かにここから…
痩せた大地に佇む焼け焦がれた廃屋。その門に刺さった旗は、今日も風でなびいている。
そしてそこには「ありがとう。我らがキャプテン、ルカ」というメッセージが記されている。
その土地にはある種の宗教的な雰囲気が漂っている。大地と青空と不気味な静寂に直面すると、一体にならなければという思いに駆られる。自然と手が合わさる。そして、祈りを捧げるのだ。
銅像に類するものではないが、崇拝がそこにはある。ただの壊れた家以上の意味がそこにはある。かつて活気や幸福に満ちていた時代の印であり、この土地で重ねられた痛ましい歴史の、破壊の痕でもある。
紛争がなかったら、ルカ・モドリッチはどうなっていただろうか? 学校で意味のあるものを見つけられただろうか? 父親のようにニット製品の生産工場で働いていただろうか? そもそも、フットボールを始めていただろうか?
この廃屋は、一連の悲劇の象徴であるが、可能性の象徴でもある。
困難なときでも一筋の光が見える、そんな場所だ。
この枯れた大地には繁栄したものなど何もない。
しかし、小さな少年の大いなる旅は、確かにここから始まったのだ。