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八月十五日、私は 漫画家 松本零士さん ~父が教えてくれた“命”の重さ~

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戦争を伝える
語り継ぐ
2015年8月9日

漫画家 松本零士さん (77歳、終戦当時7歳)

『銀河鉄道999』などの人気作品を手掛けてきた漫画家、松本零士さん。松本さんにとっての戦争は、陸軍のパイロットだった父の記憶と結びついています。その後の作品を貫くテーマにも影響を与えた父からの教え、そして今につながる平和への思いを聞きました。

■疎開先で見た“戦争”

愛媛県に疎開していた松本さん

「私、もともと久留米で生まれているんですね、福岡の。なぜかというと飛行第四戦隊が太刀洗(飛行場)にあって、そこに父親が勤務してた時に生まれたんですね」

「(その後は兵庫県の)明石にいたんですね。だから明石でアニメーションなんかを見て。『くもとちゅうりっぷ』というアニメーション、昭和18年に1週間だけ明石で上映されたんです、明石で。その日曜日に私は5歳、姉に連れていってもらって見たんですね。そしたらなんと(漫画家の)手塚(治虫)さんが(兵庫県)宝塚から来て見てたんです。『くもとちゅうりっぷ』というミュージカルアニメーションですね。(戦後)手塚さんが『どうして「くもとちゅうりっぷ」みたいな漫画を描くんだ』と初対面の時に聞かれたので『明石で見た』と言ったら、彼は畳の上にでんぐり返りましてね、『俺もそこで見た』。畳の上をでんぐり返って。で、二人ともアニメーションに目覚めてたわけですよね、漫画映画に。不思議なえにしで出会いを果たしてるわけです」

「それから今度は昭和19年、父親が南方戦線の方へ行って、四国の両親の実家ですね。(愛媛県)大洲市の五郎というところと新谷というところ、母親の実家の方にいて。爆撃隊を目撃しているわけです。うちが高台にあったために、なんかごうごう音がするんですが分からないんですね。そしたら木の下から(アメリカ軍の戦闘機)グラマンが飛び出してきましてね。木の下からですよ、自分の目線より低いわけです。そしたら真っ白い服を着たパイロットがにやって笑って飛んで行ったんですね。そういう変な体験もあるわけです。ですから二度とああいう体験はあってはならないんですが、奇妙な体験も現実にしているわけですね。それから機銃掃射を浴びて、五郎駅から出てきた列車がですね、機関車が白煙をふき上げているんです、水蒸気を。それでみんな折り重なって伏せて、列車の下に。そしたらいちばん下に伏せてた人が死んだりね。いろんなことを体験して」

「目の前に神南山という山があって、その向こう側が宇和島なんですね。その向こうは太平洋です。で、松山、広島へ爆撃に行くB29の大編隊とそれの護衛戦闘機の大群が毎日毎日、頭上を夜も昼も通っていってたんです。それから上空で空中戦が起こるんです。で、撃ち合いになったり、黒煙をひいて落ちるのが見えたり。それから爆撃に来る途中は頭上を越えて、松山から広島の方に行って、帰っていくときに余った弾ですね、それをなんと、その肱川の所がちょうど高知の方から来た川と出会った所なんですね。そこに五郎駅というのがあったんです。これは父親の実家があるそばなんですけどね。そのちょうど(川の)分岐点ですから、そこを目指して適当に爆弾を落としていくんです。それから黒煙をふいてね、爆弾が落ちてくるのも見てますし。それからそういうのを眺めてたら今度はうわっとなんか音がして、そしたら大人たちが『危ない』って言うから、そしたら母親に押さえ込まれて伏せたら、タタタンタタタンっていう音がして、機銃掃射ですね。あのグラマンF6Fという艦上戦闘機から撃たれました。で、そのあとみんなでその弾をほじくり出して山分けして。子ども心というのは怖ろしいもので、それね、花火ぐらいにしか感じないんですよ。不発弾ですよ、皆。それを石にぶつけたりね、石でたたいたり、金づちでたたいたり、ついには脱穀用の米つきのきねに石を結び付けて、下に弾を立ててガチンガチンやってみたり。ついに破裂してくれませんでした。だから私は生きてるんです。それで腕を飛ばされた子は日本全国いたるところにいますよね。よく破裂してくれなかったと思って」

「あの食糧難で腹が減るということがどんなものか。もう本当に1年に米のご飯というのは2回ぐらいしか食べないんですよ。あとはいも飯と言っていもと一緒に、おかゆみたいになってんですよ。だから姉に『いもはいも、米は米、一口でいいから米は米で炊き分けてくれ』と言ったら『それはだめだ』と言われて、だからいも飯って。だから今でもいもというとなんとなく反発を感じましてね。魚は自分で取って来たんだからそれを家族が食べてくれるのがとてもうれしかったですね。それもやすといって、要するに三つ叉のやりを自分で作ってですね、それを持って飛び込んで泳いでいくわけですね。私は絶対におぼれません。爆撃の最中だって四国の新谷村で、学校に集団登下校なんですね。で、学校の方に近ければ学校に逃げ込めと、家に近ければ家に帰れって。で、空襲警報が鳴ると、校門の前まで行ってても逃げ帰るわけですよね。で、山へ入ってなんとスズメバチの巣を襲ったり、アシナガバチの巣を襲ったりしてそのハチの子を取って食べてたんですね。そういうむちゃくちゃことをやってたわけです。ハチに刺されると顔が真ん丸く膨らんで目が細くなってとんでもないことになる、じゃがいもみたいな顔になるんですね。で、逃げ切れずに追っかけられたことがあります。スズメバチ、クマンバチですね。で、1回は座ったら頭上をズズズっと旋回して帰っていって。2回目はもう逃げ切れないというので石をぶつけて。あんなハチに小石をぶつけて落とせるというのは珍しいことなんですね。だから私はクマンバチに刺された経験はありません。アシナガバチにはやられました。ま、そういうことで自然と存分に触れ合いながら空爆という戦争の体験の中で生きて、食糧難の中で生きてきたんです」

「でもその不思議な物語で、あの戦争中というのに父親は趣味があって映写機を家に置いといてくれたんですね。手塚さんところもそうだったらしいんです。で、南方で米軍とおやじ、戦ってるのに、私と兄貴でミッキーマウスやポパイのアニメーションフィルムを壁に映して喜んでたんで、ふすまや壁に映して。だからその世界には敵とか味方という思いはないんですね。不思議な体験です。しかし今の若い人たちにはああいう思いはさせたくないですね」

■疎開先で迎えた八月十五日

「(終戦を知った時)誰も口をきかなかったですね。(遊んでいた)川から上がって帰る時。みんなあぜ道やいろんなところに座って、田んぼの中に座っている人もいて、じっと下を見て動かなかった。それはもう何世紀かに一度起こるか起こらない出来事でしょう。その時ちびだから正確に理解できないけど異様な静けさですね。それがもう不思議な不思議な記憶ですよね。抜けるような青空で、ものすごく静かな日だったですね」

「子どもにはピンとこないから『あ、敵が来たらやるのか』ぐらいなんですよ。ただその日から爆撃機が一機も来なくなった」

「あの玉音放送はだから川の中ですから私は聞いてないんです。そのあくる日かそのあくる日ですね。宇和島に練習飛行隊があったんですよ。で、それがですね、ちょうど大洲城があって、そこに夕日が沈む時にその前を編隊を組んでゆっくりと本土の方にですね、四国から海峡を越えていくわけです。向かって北へ飛ぶその夕日のオレンジ色の雲やいろんなものをほんと低空を飛んでいく大編隊の黒いシルエットっていうのはまるで本当に映画の終わりですよ。これが自分にとっても太平洋戦争の、第二次世界大戦の終わりなんですよ。鮮明に記憶してます」

「父親が2年後に南方から生きて帰ってきましてね。かじ屋のおじさんが『松本さん、もう大丈夫ですよ、お父さん帰りなさったよ』って。して見たらおやじのリュックサックをそのかじ屋のおじさんが背負ってくれて、で、おやじが小さいかばんぶらさげてゆっくり歩いて帰って来たんです。それで戦争が終わったんです」

■貧しい生活を送った戦後

「そして戦後、文字どおり亡国の民と化して、北九州へ一族がいたものですからそこへ行ったら、今度は占領軍のるつぼで、負けるということがどういうことかっていうのをいやというほど味わいました、体験しました。ただ、あの後でですね、漫画とはいえ、ものを描く立場の人間としては、それはものすごい歴史上の現実の体験ですから、どんな参考資料よりも自分の実体験として大参考資料のるつぼの中にいたんですね。ですからちょうど大変革、変遷する時代の変わり目にいたというのは物書きとしてはとても貴重な体験です。二度と味わいたくはないけど、その時はいやでもそれを体験したんですね。ですからなんていうんでしょう、われわれの世代というのは鮮明の戦いと、要するに敗戦になるまでの戦い、空爆、そういう実戦の体験と、その音だけでも分かるわけですよね。無残なものです。もう本当にはらぺこでもう腹が減る。だから私は関門海峡で魚取るために泳いだ。で、撃沈された貨物船が沈んでいるんですね、半分。それが魚礁になってるんで、その魚礁まで泳いでいって、魚を取って。貨物船が通っても腹くぐりをしながら戻るわけですね。それは要するに、おぼれない男になりました。それは漁師のせがれだった私の同級生が『飛び込め』と言ったから関門海峡を飛び込んだ、それから始まったことなんですよ。しかし貨物船の腹くぐり、今考えてもぞっとしますよね。船員さんが船尾に立って『こらっ』と『スクリューとかじに気をつけろ』ってどなってくれるわけですよね。それから『これやる』って言って、なんか食べ物の入った袋を放り込んでくれたりね。いろいろ優しかったですね」

「そしてしかも関門海峡の底がですね、武器弾薬だらけなんです。日本がもう負けたから投棄したんですね。その投棄された手りゅう弾から迫撃砲、小銃、機関銃、何もかもあったんですよ。ピストルまでね。で、私らは泳いでは潜ってはそれを持ってきて岸壁に並べて置いて遊んでたわけですよね。しかしよくあの手りゅう弾なんか破裂しなかった」

「そういうわけで体験としては今の子どもたちにはさせたくはないけど、異様な体験の中に自分自身がはまりこんでしまった。その時代を生きたということは本当に参考資料としては現実の体験をしてますから。文章で書かれたものとは違うわけですよ。この目で見て体感としてそれを覚えているわけですね。貴重な参考資料です。どんな精神状態にみんななるかというのもよく分かってますし」

「だけど戦後の悲惨なこと。もう悲惨この上もない、元軍人の家族というのはもう徹底的にもうばかにされましてね」

「もう激変しましてね。本当に『お前たちは成り上がったんじゃなくて成り下がったんじゃ』なんて言われたりね。もう軍人の一族としては、それはもう無残なものでしてね。結局、父親、北九州へ行ってからですね、公職追放で、要するに路上の八百屋をやってたわけですよ。だもんですから、もう本当に無残なもので。母親に向かってね、お客さんの方が『あんたらも前はよかったろうに大変じゃね』って言うわけですよ。そしたら母親が『いやいや、大丈夫です』って向こう向いて言っているんですが、こっち振り向いた時にね、目に涙が浮かんでて歯を食いしばっているわけですよ。その時にね、がきとは言え、まだ小学生か中学生だったんですけどね、泣くな母ちゃん俺がおるというね、気合いが入るわけですね、逆にね。俺がおるぞと、だから大丈夫だと」

「それから本人は生きて帰って来たのに家族が全滅してる帰還兵がいたんです、(福岡県の)小倉にいた時ですね。そしてベルトをね、こうやって手あてて『バンドあげますから、何か食べさせてください』と言うのね。で『一家はもう誰もいません』と言うので『いやいや、それ抜かなくてもいい』ってみんなで(食べ物を)集めて、ぼろ長屋ですけどそれなりに住人がみんな集めて、食べて。またしたら『やっぱり置いてきます』と言うから『いや、いい』と『稼げるようになったら』と。そういうのが何人もいたんですよ。自分が生きて帰ったのに家族が全滅してるんですね。で、それで絶望したんでしょ。鉄道自殺した、うちの前を鹿児島本線が走ってましたからね、そこで腹ばいになって自殺した死体、であのなんていうか、枕木に足をふんばってる、靴を脱いで並べて置いてね、自分だけ腹ばいになって二つに割れてるわけ、体が。その足のふんばっている足の青白さなんていうのはもう胸に痛いほど子ども心に感じまして、気の毒になって。それから同級生のおやじさんは広島の原爆の落ちたあくる日に救援隊として入ったんですね。そして爆心地へ行っているわけですよ。そしたら放射能障害で死んでしまってるんです。そういう被害者というか、遺族をいっぱい見てるわけですよね。それはもうつらいものですよ。ですから普段では起こり得ない現象がたくさん起こる。だからそういう文字通り体験の中でも異様な時代にわれわれ世代は生きてたわけですよ」

「そういうわけで、いろいろな激変の中を生きてきて。でも私の一族はまだおじさんも帰ってきましたしね、みんな生きて帰って来たので幸せな方ですよ。家族を、両親から兄弟、兄貴を失った同級生なんか見ると本当にかわいそうですよ。で『兄貴がフィリピンで戦死したのでお前にこれやる』と言ってベートーベンの1番から9番までのレコードですね、箱に入ったのをくれたり。だから特に3番第2楽章なんていうの聞くともう本当に胸が痛むんですね。友人たちのことを思い出すわけですよ。ですからそういうね、思いがずっとあるので。で、今はもう戦っている場合ではないと」

「惨めさというのはね、文字通り亡国の民ですよね。あれはもう二度とごめんだと思いますね。それとあの空腹感ね。食べ物が全くないんですから。学校へ行ってもですね、学校給食というのはあったんですよ。でも粉ミルクだけですよね。コップ半分ぐらいお湯に溶かして飲むの、これが給食です。でもね、そのころは映画館は占領軍もいたからたくさんあったんですよ、小倉というところは。それで学校から引率されて見に行くわけですよね。その中で『風と共に去りぬ』なんて見てるわけですよ。したらインターミッションのところで(主人公の)スカーレットが何か引き抜いてかじって”I’ll never be hungry again.” って言うでしょ。それを自分でも自分の標語みたいになってる。俺は二度と飢えない。”I’ll never be hungry again.”ってあの場面はね、(アメリカの南北戦争の)南軍の敗北でしょ。同じような心境ですよ。俺は二度と飢えないというね。あれもね、なんとも言えない。たくさん見ましたよ、映画は」

「占領軍のアメリカ兵一人ひとりに対してはなんの憎しみもないんですね。というのは、彼らにも死ねば悲しむ家族がいるわけですね、国へ帰れば。ですからこれは人間同士は別に問題ないわけです。で、優しさもあって、キャンデーなんか投げてくれるんですよね。でも受け取るわけにはいかないんです。皆、げたで踏みつぶしてね。施しは受けんと、絶対に受け取らなかったですね。どなられても、受け取らなかったです。そういう少年の日々を送ったわけですよ」

「進駐軍が漫画の本を持ってきてくれたんですよ。アメリカンコミック、10セントコミックなんですけどね。そういうものもいっぱい町に捨ててるんですよ。それを拾って売ってるおばちゃんがいるわけですよね。で、占領軍の物を売ってはならないっていう。だからタイトルのところちぎるんです。それは5円なんですね。だから、がきもよく知ってるわけですよ。『おばちゃん、10円のはないんね?』って聞くとやおら自分が座っている箱の下から完全なものが出てくる。だから私、アメリカンコミックいっぱい見てますよ」

「もう国境はないんですよ。お互いに、この漫画の世界というのは、全世界。それはよく分かるんですよ。私だってミッキーマウスやポパイやそういったものやら全部見て育ちましたからね。お互いに昔から国境のないジャンルですよね、これはね。映画や小説にもないでしょ、国境はね。翻訳はされて全部見てますよね。だからおもしろいもんですよ」

■作品に影響した父の戦争体験

松本さんの父・強さん、陸軍のパイロットだった

「父親は最初は松山の連隊に入ったんですよね。で、野原をはい回っている時に上を複葉機とはいえ飛行機が飛んでいるのを見て、空を飛びたいというので独学でですよ、勉強して陸軍士官学校を出て。さらに(埼玉県)入間にフランスから飛行教導隊というのも来てましてね。それで一緒に飛んで飛行士になったわけですよね。ですから空との縁が非常に近いんですよ。で、ずっと戦闘機乗りになったわけです」

「戦争が始まった時に『この戦いは途中で休戦になるか負けるしかない』と。というのは工業力の差をよく知ってたわけですよね。その生産性、製造能力からそれから精密度の問題までも全部知ってた。『だからこれは勝てないと、絶対に。それでも志として飛行機に乗った以上、行けと言われれば行かねばならん』と」

「終戦の時は東南アジアのどっかの上空でイギリス軍と空中戦をしてて、基地に戻ったらなんか様子が変なんで『どうした』って言ったら『負けました』っていうことで。それで1年半か2年(インドネシアの)レンバン島という所に幽閉されてて、それで戻ってきたんであってね」

「部下を失っているでしょ。そしたら(戦後)そのおばさんが訪ねてきて『あなたは生きて帰られて、なぜせがれを連れて帰ってくれなかったんですか』って言われた時に、父親が頭を下げて『すまん』と言っているのを見たことがあるわけですよ。どんなにつらい思いかですよね。しかし父親も子ども、われわれがいるわけですから、生きて帰らなきゃいけない、死にもの狂いで戦ったわけですよね。ですからあのつらさというのはね。その訪ねてきたおばさんも状況を聞きに来たわけです、最期のね、息子の最期の状況」

「公職追放され、極貧に落ちて、もう揺れでつぶれていくような長屋に住んでね、リアカーを引いて歩いて(行商をして)、米軍から『荷車は車道をひいてはだめだ』なんてジープで追い詰められたりね、いろいろな嫌がらせをされたりいろんなことがあった」

「私が一度『じゃあもう1回(戦争を)やってやっつけんといかん』とうっかり言ったことがあるんですが、ちびの時に。そしたら『ばかもの』って。『そんなことを言うからこれだけ大勢の人の命と血が流れたんだ』と怒られました。部下の大半を失って帰ってきているわけですよ。それはもう生涯、父親の胸の中にあったらしいんですよね。しかし家族がいるから必死の思いで生きて帰ったわけですよね。それから相手を撃墜する時もボタンを押す前に『あいつにも家族がいる』というのが頭をよぎると。『しかし戦いなので心を鬼にして撃たねばならぬ』と。そういう思いというのがあったというのを聞いたりいろいろしてますのでね」

「(父の言葉で)『人は生きるために生まれてきたのだ』と、『死ぬために生まれてきたのではない』というのと、戦いの中でね、同じ戦ってても相手にも家族があると。それから(戦闘機の)風防(ガラス)を開けてね、後ろを向いて拝んだ相手もいるんですよ。しかし撃たねばならないわけですよね、その腕前を見てると。このまま放っておくと今度はこっちでやられるやつが出てくるというので、心を鬼にして撃たなければならないというそのつらさ、どんなものか。『だから二度と戦ってはならん』というのがおやじの言い方だったですね」

■平和への思い

「戦いの現実を目の当たりに見て、実際に機銃掃射を受けて、その音から、弾丸まで拾ってきて、また負けた後の占領軍との接触ですね。それも身近でいろいろ見ているわけですよね。こういう体験はその現場にいないと分からないですよね。だから気楽に言う人がいるけど、そんななまやさしいものじゃなくて、もっと痛ましくすさまじいものなんですね」

「特攻隊にしろ原爆の犠牲者にしろ、それから相手の国の兵隊にしろ、どっちにしろ命というのは生きるために生まれてくるわけでしょ。死ぬために生まれてくる命はないわけですよね。それが思いもよらずまだ死ぬはずのない時に死んでしまう。どんなにつらいことか、不幸なことかというのがあるんですね。だから『人は生きるために生まれてくるんだ』という、その思いがあるわけです。『死ぬために生まれてくるものはいない』と。全生命体に言えることですよね」

「本当に歴史上全てそうですけど、人は生きるために生まれてきている。で、その考え方自体が衝突して戦争が起こって殺し合いをやるわけですよね。から、西部劇の決闘でもそうですし、あの武蔵と小次郎の決闘でもそうですし、殺し合いという問題になるわけですね。そうじゃなくて、もう戦っている場合ではないと。それぞれの意思があると、お互いの意思を大切にしながらお互い認め合ってもう争い事はやめてほしいと、殺し合いはやめてほしいと。それでそれがどんなに悲惨なものかというのは、私は家族を失った人たち、それは悲惨な現実を見ているわけです。それがどれほどすさまじいものか。もうとても常識では考えられないような悲惨な状況をこの目で見てるわけですよ。だから勝っても負けてもどっちかにその問題が生じるわけですよね。もう勝ち負けの問題とも違うわけです。ですからもう人が争うのはやめてほしいと。なんとか平和というかお互いが生きるために手を貸せるものがいれば手を貸してでも止めて仲よくしてほしいと思うんです。お互いに個人的に憎しみがあるわけでもなんでもないでしょ。それが撃ち合いをやったりね、爆撃をしたり、手りゅう弾投げたり。もう本当に争ってる場合ではないと。それは地球という家の中にわれわれは全員住んでいるわけです。もう家族のけんかをしている場合じゃないんですよね。だから同じ生命体として今度はほかの地球上に生きる全生命体と自然環境を守るために人間は努力すべきで、争いは人間同志がやって地球を破壊している場合ではないと、そう思ってるんです。実際に空爆を受けて機銃掃射を浴びて、敗戦の中での苦しい生活ですね。そういうものをもうこれからの人に味わせたくないと。お互いにこの地球のために生きていこうよと言いたい。それが私の願いなんですね」

「(作品も)皆生きるためのものばっかり描いているわけです。死ぬためのお話は描く気もしないですね。生きるためにその主人公が存在している、そういうものを描きたいわけですよ。『命とは生きるために生まれてくるもの』、それが命なんですよ。『死ぬために生まれてくる命はない、生きるために生まれてくる』。『人は生きるために生まれてくるんで、死ぬために生まれてくるのではない』というのを前提に、お互いにかばい合って生きるべきだと思いますね、助け合ってね」

「今の温暖化とかいろんな問題あるでしょ。この激変に耐えて地球環境を守り、全生命体の生存のためにはもうけんかしている場合じゃないんですよね、人間同士が、という思いもあるわけです」

「地球人なんですね、私たちはね。何何国人じゃなくって地球人なんですよね。全人類は巨大な一族なんですよね。で、これ力を合わせないと地球の将来は危ないですよ、このままでいくと。ものすごい加速度的に今、変化が進んでますからね」

「だから本当に争いが早く消えてくれるといいですよね。本当にね、地球の危機を感じているんですよ。このままでいくと地球全体が危ないぞと。勝ち負けの問題とは違いますよ、生命体としての存在が危なくなるというね。ですから今から手を打っておかないと、少しでも長く生存したいんなら今のうちに手を打っておかないと短くなってしまうよという、そういう思いがあるわけですよね」

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