私はADHDかもしれないと思う。ハックルベリー・フィンが学校について語るくだりを読んだ時(「……学校は死ぬほど退屈で,僕はいつも落ち着きなくモゾモゾしていた」),私も机に座って,モゾモゾして過ごした多くの退屈な時間を思い出した。私の通知票にはいつも,「話が多く,人にちょっかいを出す」の欄に印がつけられていた。小学校から高校まで毎学期,たいてい一度は校長先生から「君は自分の力を十分に発揮していない。もっと努力しなさい」と言われた。幸いにも,私はデイヴィッド・ナイランドDavid Nylundが言うようなADHDが全米規模で流行するずっと前に学校を卒業した。
 ハックと私の出会いはずっと昔に遡る。私が最初に彼を知ったのは,4年生の時だった。田舎育ちで,まわりの人はみんなテレビのアナウンサーのようにはしゃべっていなかったので,まわりの友だちのようなしゃべり方をする主人公が出てくるこの本に出会って楽しくて仕方なかった。それまでは,本の登場人物は,みんな都会人のようにしゃべるとばかり思っていた。ハックと出会って,とても開放されて刺激を受けたので,ハックのつづりや言い回しにできるだけ似せて,学校の1ページの作文の宿題を書いたほどだ!
 私の先生が自ら,その宿題を私の机まで返しに来て,反抗的で礼を欠いていたことを長々と大声でお説教したことで,私がどんな影響を受けたか想像していただきたい。その瞬間まで,私は幸せで,とてもうまく書けたと思ったし,先生もそう思うだろうと思っていた。それに,私に『ハックルベリー・フィンの冒険』を読むことをすすめたのは,先生自身だった。それ以来,私は書くことに自信がなくなってしまうと同時に,私に対して権威を持つ人を信じることに関して,用心深くなった。再び書くことが面白いと感じ,自信を取り戻すのにその後何年もかかった。しかも,これはほんの一回の出来事に端を発したことなのだ。もし私が注意欠陥多動性障害というような病気を持つと実際に診断され,私の4年生の先生だけではなく多くの専門家がこのレッテルに賛成したとしたら,私はおそらくこの文を書いてはいなかっただろう。私はこのADHDの流行の影響を受けなかったことを本当に幸運だと思う。
 この本で,著者のデイヴィッド・ナイランドは,親や教師や臨床医やセラピストの子どもへの関わり方について,重要な問いを提示し,論じている。これらの問いは,価値観や美学にかかわり,それらは,ADHDという特定の問題以外にも及ぶものである。すなわち,私たちは学校に,画一的なものを作り出すという予測可能性を期待するのか,それとも,私たちは子どもたちに,驚きの感覚や独創性を重んじることを学んでほしいのか。大人と子どものかかわりのモデルとして,私たちは,専門家が受身の相手を画一的な方法で扱うやり方を求めるのか,それとも,異なった知識を持つ人間同士が特定の問題に対処するやり方を協働して作り上げていくような人間的なやり方を求めるのだろうか。私たちは子どもたちが,何も疑問に思わずに従順に育つことを期待するのか,それとも,勇気と文化に対する反抗心を持って育つことを期待するのだろうか。
 ナイランドは,ADHDの妥当性を手助けするために使われている,いわゆる科学に対する明確な,よく論理の通った,十分に調査された批判を本書の始めに述べている。精神科医として,私はしばしば,最近のこの業界の標準となっているやり方に当惑している。「自然科学」という名を借りた生物学的還元主義は,驚くほど多くの私の同僚の精神科医を虜にしているようだ。それは主だった学術雑誌に影響を及ぼしている。ナイランドがこの本の最初の方で批判しているような研究がたくさん掲載されている。そして,論文の間のページには,インチキ薬を売る大道野師が喜ぶような色刷りの宣伝がある。それらは,向精神薬の宣伝である。
 もう一つ,私の同僚の精神科医たちが行っていることで私が恥ずかしく思うのは,関心を持って会話をする代わりに,チェックリストを用いることである。これが,学校がつまらないと感じている子どもたちや,教師や親やセラピストたちにどれほど有害な影響をもたらしているかをナイランドは示している。この本は,私たちが,子どもや家族の固有の社会文化的状況や,彼らが問題をどう考えているかを尊重して,どのように援助したらいいかについて,多くの示唆や実例を挙げている。
 マネジド・ケア(managed care)は,それ自体が原因ではないにしろ,今日のすべての医者と患者(セラピストとクライエント)のやりとりを特徴づけている性急な診断を助長しているとしばしば批判されているだけに,ナイランドが大規模なマネジド・ケア組織の第一線で何年も働いているということは重要なことである。彼は経験に基づいて語っている。彼がこの本の中で書いている態度や価値や実践は,マネジド・ケアの場で有効である。彼は,「スマート尺度」や「環境チェックリスト」などの「対抗するチェックリスト」が,家族がADHDをどんなふうに理解しているかを,じっくりと,家族を尊重し彼らと協働しながら調べるためにどのように使われるかについて,はっきりと興味深く述べている。
 皆さんがこれから読もうとしているこの本の最も優れた点の一つは,狭量になったり過剰反応になったりせずに,この有害な文化的傾向に対する効果的な抵抗手段をたくさん述べていることである。ナイランドは,これからここで述べる考えや実践をなぜ自分が擁護するのかについて,彼と違った考えを持つ人々を問題視することなく,はっきりと述べている。ADHDの診断を強く支持している人々とどのようにつき合っていったらいいかについての彼の提案は,どれも明確で,公平で,それ以上に役に立つと私は思った。また,薬に対する彼の態度は,バランスが取れていて筋が通っている。
 本の大半は,ADHDと診断された子どもに対するスマート・アプローチの記述に費やされている。ホワイトWhiteとエプストンEpstonのナラティヴ・セラピーに深く関連しているこのポストモダン・アプローチは,5段階に分かれていて,それぞれが独立した章で説明されている。ナイランドは多くの事例を用いて,明確に,かといって規定的にならずに,読者にそれぞれの段階を示している。最後から二番目のスマート・アプローチを用いた教室についての章は,すべての親と教師に読んでいただきたい。
 ハックはこの本を読まないだろうと,私は思う。それよりも彼は,「この先の領域に出かけていく」のを選ぶだろう。しかし,もし彼が道中でデイヴィッド・ナイランドに出会ったとしたら,彼は喜んで,ナイランドを旅の道連れにするだろう。
 この本は,デイヴィッドがすでにその領域を探索していることを表しているので,彼が出かけていることを私は知っている。彼とハックが出会ったときの会話を,私は聞いてみたいものである。

イリノイ州 エヴァンズ 2000年3月
エヴァンストン家族療法センター 医学博士 
ジーン・コムズ