弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
ドイツ
2008年12月 5日
ユダヤ人財産はだれのものか
著者:武井 彩佳、 発行:白水社
ホロコーストは史上最大の強盗殺人であった。
うむむ、な、なるほど、そういうことなんですね。
ナチス・ドイツにとって、移住とは、無産化したユダヤ人の輸出であった。ヒトラー政権の成立時にドイツに暮らしていた52万5000人のユダヤ人のうち、移住した者は30万人、殺害された者は14万人とされる。その残りは不明ということでしょうか……。
1933年当時のドイツの民間銀行1060行のうち、ユダヤ系のものが490行もあった。つまり、地方の民間銀行は、著しくユダヤ的な業種だった。大手銀行が、ユダヤ系の銀行を買収していくのがアーリア化の実態だった。
ドイツにおけるユダヤ人収奪の最大の収益者は、明らかにドイツという国であった。
1938年、ドイツの国家財政は破たん寸前だった。赤字は20億マルクにまで膨らんでいた。戦争に向けて大幅な増税は避けられないが、ヒトラーはこれを拒否した。
ユダヤ人社会に10億マルクの弁済額が課せられ、特別税収は国家の収入を一気に6%も押し上げた。また、ユダヤ人の大脱出による出国税の税収増も加わった。戦争が始まる前は、国家予算の9%がアーリア化による収入であった。
ユダヤ人から奪った物品を無償で分配することは原則としてなかった。収奪品を軍に引き渡すときにも支払いが要求された。盗品にも値札がつけられていた。
ヨーロッパのユダヤ人から奪われた財産は、ドイツの戦争経費へ転化された。
そして収奪されたユダヤ人の財産を戦後、どのように被害者へ還付するかというのが問題になったとき、肝心の遺族がいなかったのです。皆殺しにされたのですから、当然といえば、当然の現象ではあります。
そこで、ユダヤ民族という集合体が、ヨーロッパに残された財産の相続人であるという国際法の常識を覆す主張が登場した。
しかし、ユダヤ民族とは法的に定義可能なのか。民族というものに個々のユダヤ人の財産の相続権があるのか。つまり、集団全体は、集団の構成者の財産に対して権利を主張しうるのか。いずれにしても、殺して奪ったものによって富むことは許されない。このことは言える。
では、誰が、相続人不在のユダヤ人財産に対する権利を有するのか。
戦後ドイツのユダヤ人は2万人ほどでしかない。戦前の52万人ものユダヤ人には、とても匹敵しない。
ナチス・ドイツが占領国の中央銀行から略奪した金塊を、スイスの中央銀行を含めた銀行が購入していた。
ナチスに追われた難民がスイス国民で追い返された件数が2万4500件あり、少なくとも1万4500件の入国ビザ申請が領事館で却下された。
IBMは、ナチ収容所の囚人管理のためのデータ管理システムを提供していた。
ひえーっ、これには驚きました。あの天下のIBMって、ナチスのユダヤ人殺害に協力していたなんて、まったく知りませんでした。
島根の同期の弁護士から、太くて長い立派な長芋をたくさん送ってもらいました。実に見事な山芋で、トロロ汁を美味しくいただきます。でも、ちょっと食べきれませんので、知人にも少しだけ、おすそわけしました。
トロロ汁もいいのですが、山芋ステーキも腹もちして、いい案配です。そして、梅肉を混ぜ込むと、これまた絶品です。思い出すだけで、口中によだれがたまってきてしまいました。
(2008年75月刊。2600円+税)
2008年10月16日
ベルリン終戦日記
著者:アントニー・ビーヴァー、 発行:白水社
1945年4月、ドイツの首都ベルリンにいた34歳の女性ジャーナリストの書いた日記です。ニセモノ説もあったようですが、ホンモノだと判定されています。この本を読むと、ニセモノ説があったなんてとても信じられません。きわめて具体的でまさに迫真そのものです。ジューコフ元帥の率いるベロルシア方面軍150万の赤軍兵団がベルリンを占領し、至るところでドイツ女性を強姦するのです。その状況が被害者として生々しく語られます。
日記は、1945年4月20日から6月22日までの2ヶ月分です。この間に、米英の空軍機による空襲、ソ連赤軍による地上砲撃、市街戦、ヒトラーの自殺(4月30日)、ドイツ軍の降伏(5月2日)、連合軍のベルリン占領があった。
1945年にレイプ被害にあったドイツ人女性は、200万人と見られている。ベルリンでは10万人から13万人とされている。
第一段階はソ連兵士による復讐と憎悪によるもの。多くの兵士は戦争の4年間に自国の将校や政治委員たちによってひどい屈辱を受けていたので、この屈辱を何としても埋め合わせねばと感じていた。ドイツの女たちは、そのもっとも簡単なターゲットだった。
第2段階では、赤軍兵士はその犠牲者を選ぶにあたってより慎重になり、防空壕や地下室の女たちの顔に懐中電灯の灯を当て、一番魅力的な女を選ぼうとした。
第3段階では、ドイツの女たちが特別な兵士あるいは将校と非公式の合意を結び、男たちは別の強姦者から彼女たちの身を守り、性的服従の見返りに食料をもたらした。
ソ連軍が占領する前、ある夫人が叫んだ。
頭上のアメ公より、腹の上の露助のほうが、まだましだわ。
赤軍兵士は、まず問いかける。「結婚しているのか?」 もし、そうだと答えれば、次には夫はどこにいるのか、と問う。もし、いいえと答えれば、ロシア人と「結婚する」つもりはないかと問う。それに続いて妙になれなれしい態度をとる。
彼らは太った女を捜していた。おデブちゃん、すなわち美人。その方が女らしいのだ。男の身体とは全然違っているから。
(強姦されているとき)私の自我は身体を慰みものにされた哀れな体をあっさり見捨てようとしている。それから、遊離して、漂いながら白い彼方へと無垢なまま向かおうとしている。こんな目にあったのが私の「自我」であってはならない。嫌なことは何もかも追っ払ってしまわなければ。頭がおかしくなっているのだろうか。
強い狼を連れてきて、他の狼どもが私に近づけないようにするしかない。将校、階級は高ければ高いほどいい。司令官、将軍、手の届くものであれば、なんでもいい。
シュナップス(アルコール)は、男を興奮させ、性的衝動をひどく亢進させる。赤軍兵士が見つけた大量のアルコールがなければ、強姦事件だって半分ですんだはずだ。兵士たちはカサノヴァではない。自分で景気をつけないと大胆な行動には出られない。酒で洗い流さなければならないのだ。だからこそ、連中は必死に飲むのだ。
それなのに、ナチス・ドイツはアルコールを貯めていた。それを飲んだら行動が鈍るだろうと、間違った予測を立てていた。
著者の生理も乱れてしまったようです。医者に診てもらうと、「食事のせいです。体が出血をおさえようとしているのです。あなたの体がまた太ってくれば、周期にも問題がなくなりますよ」といわれたとのこと。
『ベルリン陥落』(白水社)に描かれていた状況を、一女性の立場で生々しく告発しています。
(2008年6月刊。2600円+税)
2008年10月13日
タンクバトル
著者:斎木 伸生、 発行:光人社
第二次世界大戦のとき、ナチス・ドイツ軍とソ連軍とのあいだで戦われたクルスク大戦車戦というものに関心があったので読みました。この本のオビには、「独ソ戦車戦のクライマックス」と書かれています。ドイツのティーガー戦車が「活躍」するわけですが、実際には戦局を転換するほどのものではなかったようです。ソ連のT34戦車が次々に撃破されてしまうのが哀れです。祖国を守るため死を恐れず勇敢にドイツ大型戦車に突撃していくソ連軍戦車の勇士を褒め称えたくなります。
図と絵と写真入りで、要領よく個々の戦闘経過がまとめられています。深い分析はなされていませんが、非情な戦車戦の実情が伝わってくる本です。
10月初めに富山で行われた人権擁護大会で、米田さんという新聞記者が、防衛白書に「脅威」という言葉はなくなっていると指摘していたのにハッとさせられました。それに代わる言葉として、「不安定要因」と書かれているそうです。軍隊は「敵」の存在を不可欠とするものです。「敵の脅威」があるからこそ、軍備を強化する必要があるということになるわけですが、なんとそれがないというわけです。
では一体、防衛省そして自衛隊は何のために存在しているのでしょうか。米田さんは、自衛隊を海外にも派遣できる災害救助隊とすること、そして、現在、国内各地にある基地を整理統合し、5兆円にのぼる軍事費を削減して他に回したら良いという趣旨の提起もされ、なるほどと思ったことです。
さらに、「脅威」がないという点で、日本に「攻め込む」可能性がある国として、ロシア、中国、北朝鮮がよくあげられるけれど、ロシアと中国については、その能力はあるけれど、意思が全く認められない。北朝鮮には能力も意思もないとキッパリ断言されたことがとても印象的でした。
むしろ、アメリカは、中国を潜在的脅威と見ていること、また、台湾を手放すつもりがないことから来る紛争の可能性がないわけではなく、そのとき、日本がアメリカと一体となると中国が見ていること、つまり、中国にとって日本こそ脅威になっていると見られていることの重大性の指摘もあり、考えさせられたことでした。
イラクのサマワに派遣された自衛隊の旭川師団が、イラクから帰還したあと、旭川の町で集団暴行事件を起こしたそうです。それまでは市民を守るべき存在として教育が徹底してなされてきた。ところが、イラクに行ってそのタガが外れてしまったようだ、というのです。
イラクでオレたちは生命をかけて国を守るために苦労してきた。それなのにおまえらは平和な日本でぬくぬく、のほほんとして、許せない…。血がたぎったまま平和な日本に帰国してきた隊員の、そんな鬱憤が集団暴行事件に繋がったようです。怖い話です。
(2008年9月刊。2300円+税)
2008年8月29日
ユダヤ人 最後の楽園
著者:大澤武男、出版社:講談社現代新書
ワイマール共和国について、具体的なイメージをもつことができる本でした。ユダヤ人とされる当の本人は、非常にしばしば、あるいはほとんど、自分がユダヤ人だという意識をもっていなかった。ところが、常に周囲からユダヤ人として見られていることを意識することによって、自分がユダヤ人であることを意識するようになっていく。
うへーっ、そうなんですか・・・。はじめからユダヤ人意識がギラギラしているというのではないのですね。
ゲットーに閉じこめられていたユダヤ人を次々に解放していったのは、ナポレオンだった。帝位についたナポレオンは征服した各地のユダヤ人を解放し、後の近代市民法に多大の影響をもたらした。ところが、ナポレオンの失脚とともに、ナポレオン法典によってユダヤ人に付与された居住・結婚の自由などが再び制限されていった。
早くから人権思想に目ざめていたユダヤ人エリートは、いち早くキリスト教社会に同化し、一日も早くドイツ市民になりきろうとした。詩人ハインリッヒ・ハイネも、その一人だった。メンデルスゾーンも、洗礼を受けてキリスト教徒としての体裁をととのえて、ドイツ社会に溶けこもうとした。
19世紀ドイツで、進取的ユダヤ人3万人が洗礼を受けた。しかし、結局は改宗ユダヤ人だ。ユダヤ人には変わりないと見なされた。19世紀後半の金融都市フランクフルトの銀行業の85%がユダヤ人の経営によるもので、ナチスが政権をとった1933年時点で、全ドイツのデパートの80%がユダヤ人の所有だった。1900年ころのドイツの都市のユダヤ人は、平均してキリスト教市民の4〜7倍の納税者となっていた。
経済的に独立したユダヤ人は過去の劣等意識を克服しようと、子弟の教育に多大の投資をした。その結果、若い世代から次々にエリートが育っていった。ただし、ユダヤ人は国家の政治・官僚・軍事機構には入りこめなかったため、一匹狼として立身出世でき、しかも社会で高く評価される経営者、医師、弁護士、芸術家、ジャーナリストの分野にすさまじい進出をみせた。な、なーるほど、そういうことだったのですね。
第一次大戦のとき、ドイツのユダヤ人はその2割、10万人が祖国ドイツのために戦った。このころドイツ最大の経営者になったワァルター・ラーテナウは、AEGグループ 130社の経営者であった。
ベルサイユ条約の下でドイツ国民の不満と怒りが充満していたとき、ドイツ史上かつてないほどユダヤ人の進出が目立った。そして、きわめて保守的なバイエルンの首相に、ユダヤ人社会主義者クルト・アイスナーが就任した。ところが、1919年に右翼軍人に暗殺された。
ロシア革命も、ユダヤ人トロツキーのやったことという受けとめ方がなされた。つまり、革命すなわちユダヤ人と理解されたわけだ。
ワイマール共和国の憲法を起案したのもユダヤ人のプロイスだった。その結果、「ドイツの実情にあわないワイマール憲法」がユダヤ人によってつくられた。そんな批判が高まった。このように、ユダヤ人は、いつも集団的、団体的な責任を問われてきた。
ワイマール期のドイツで学問・文化をリードしたのは、ユダヤ人エリートだった。アインシュタインもワイマール共和国時代にノーベル賞を受けた(1921年)。
ドイツの人口のわずか1%にすぎないユダヤ人が大活躍していた時代はワイマール時代をおいてほかにない。
毒ガス兵器やマイクを開発した主要な人物もまた、みなユダヤ人だった。
そして、ジャーナリストの多くがユダヤ人だった。反ユダヤ傾向の高まりのなかでユダヤ人が右翼に属するのは不可能だった。そして、そのことが右翼や国粋主義者をさらに怒らせた。
カフカもフロイトも、この時代のドイツ・ユダヤ人である。ノーベル賞を受賞したドイツ人の3割はユダヤ人だった。
ユダヤ人はもともと人並みでしかない。しかし、エリート層は認められるために精進し、自己顕示欲のたえざる継続が、結果としてノーベル賞受賞につながった。ふむふむ、なーるほど、そういうことなんですね。ユダヤ人について少し理解を深めました。
(2008年4月刊。700円+税)
2008年8月 4日
第三帝国の中枢にて
著者:ゲルハルト・エンゲル、出版社:バジリコ
総統付き陸軍副官の日記というサブタイトルがついている本です。総統とは、もちろんヒトラーのことです。本のオビに、「1938年から1943年にわたり、ヒトラーの副官をつとめた若手将校の日記が伝えるナチス・ドイツ深奥の作戦中枢における生々しい人間模様」と書かれています。たしかに、ナチス・ヒトラーとドイツ陸軍との水面下のドロドロとした対立状況が伝わってくる第一級の資料です。先に紹介しましたヒトラー暗殺計画の動きも、この本とあわせて読むと、かなり理解できるところがあります。つまり、ドイツ陸軍内部が必ずしもヒトラー一辺倒だったわけではないことがよく分かります。
ドイツ国防軍最高司令部のヴィルヘルム・カイテル長官は、ヒトラーに歯向かうことはほとんどなく、周辺から「おべっか使い」と揶揄(やゆ)されていた。
ブラウヒッチュ陸軍総司令官も、妻と離婚に際して多額の慰謝料を支払うために引き受けたことから、ヒトラーに借りがあった。さらに新しい妻の素性が怪しかったため、ヒトラーにおもねるしかなかった。
ヒトラーが任命した軍務大臣フォン・ブロムベルク陸軍元帥は、いかがわしい噂のある女性と結婚したことが原因で失脚した。結婚したすぐあとのことだったので、結婚立会人をつとめたヒトラーは非常にまずい立場に立たされた。保守的な将軍らの抵抗にもめげずに自分の政治的路線を支持してくれた信用できる男、ブロムベルクを犠牲にせざるをえなかったヒトラーは、その後、保守勢力による権力掌握阻止に動いた。陸軍と国家指導層との関係を改善できなかったことから、ヒトラーは常に不安にさいなまれていた。
イギリス軍がダンケルクから脱出できた裏話も興味深いところです。要するに、ヒトラーが政権を握ったあとに創設されたドイツ空軍に決定的な役割を果たさせる点で、ヒトラーはゲーリングと意見が一致したのだった。ヒトラーが5月24日に停止命令を出したのは、ゲーリングの発言を信頼したから。ヒトラーは、伝統的に保守的傾向の強い陸軍より、空軍には国家社会主義(つまりナチス)の精神がよく浸透していると考えていた。
ヒトラーは、世界観戦争の観点からも、また国内の士気を高めるためにも、スターリングラードの攻略は欠かせないと考えていた。したがって、ヒトラーは、突撃はやめるべきだという提言には、一切、耳を貸さなかった。
スターリングラードで、ついにパウルス将軍が降伏したとき、ヒトラーは自分の非を認めようとせず、むしろほかの誰かに失敗の責任を転嫁しようとした。そして、その態度が戦線指揮官らの怒りを買うことになった。
この日記は危機に直面したときのヒトラーの優柔不断ぶりを伝えている。その一方、ヒトラーには、細かい知識や情報を吸収して記憶する並はずれた才能があった。
エンゲルが副官になったのは32歳のとき。エンゲルは1943年4月に実戦の指揮官に転出し、最終的には中将にまで昇給し、1944年12月のアルデンヌの森の反撃で負傷した。以下、少し紹介します。
(1938年6月25日)
ゲーリングは元帥の地位にありながら、次々に陸軍を批判し、偏見にみちた参謀本部攻撃を行い、西部要塞監督局について無礼きわまりない意見をのべた。ヒトラーもこれに同調した。
(1940年12月18日)
バルバロッサ作戦の指示が出た。陸軍総司令官から、ヒトラーが本当に戦闘を望んでいるのか、それともこけおどしにすぎないのか探るように命じられた。ヒトラー自身も分かっていないと確信している。ヒトラーは、ロシアは弱い、イギリスの譲歩を期待し、アメリカの参戦はないと信じている。ドイツの空軍力に対する信頼は驚くほど高い。
(1941年1月17日)
ヒトラーは、ソ連赤軍の戦闘能力に関して、非常に楽観的だ。武器や設備は時代遅れで、とくに飛行機は少なく、戦車も旧式だ。
(1941年7月28日)
レニングラードとモスクワという2つの大きな腫瘍を除去しなければならない。それはロシア国民にとっても、共産党にとっても、大きな打撃となる。ゲーリングは空軍だけでやれると断言するが、ダンケルク以降、余(ヒトラー)は少々懐疑的になっている。
(1943年2月1日)
スターリングラードは、もう終わりだ。ヒトラーは深く落ちこんで、ミスや命令不履行がなかったかどうか、くまなく探している。
軍事戦略の「天才」ヒトラーは、同じ「天才」スターリンとまったく同様の俗物そのものだったことがよく分かります。
(2008年4月刊。2600円+税)
2008年7月 4日
ティーガー戦車・戦場写真集
著者:広田厚司、出版社:光人社
第二次世界大戦中、ドイツのティーガー戦車と呼ばれる重戦車は連合軍を次々に撃破し、鋼鉄の虎と呼ばれ、恐れられました。その実像に迫った写真集です。
いやあ、ともかくでかいです。これぞまさしく重戦車と呼ぶのにぴったりです。
1949年7月のクルスク大会戦は史上最大の戦車戦(チタデル戦)でした。ソ連赤軍とドイツ国防軍の双方で1000両以上の装甲戦闘車両が10数キロの幅で激突したのです。このとき、ティーガー戦車は115両も参加しました。400両もの赤軍戦車を撃破したとされています。
ティーガー戦車は1943年から45年にかけて1800両ほど生産された。
ティーガー戦車の時速は実際には20〜25キロ。
ティーガー戦車は1943年夏には履帯の故障が続出した。
昼間は時速10キロで走り、最初の5キロ地点に第1の修理所があり、次いで10〜 15キロごとに修理班が待機し、メンテナンスを行いつつ集結地に向かった。
大戦後半のティーガー戦車の稼働率は68〜70%だった。パンター戦車(62%)よりは良かった。40〜45両のティーガー戦車を運用するのに、実に1000人ほどの大隊要員を必要とした。
ティーガー戦車は、赤軍のT34戦車を距離1400〜1500メートルで撃破するのを最適距離とした。重量56トン。全長8.45メートル、前面装甲は100ミリ厚。そして強力な8.8センチ戦車砲を装備していた。ただし、非常に高価で、多くの製造工程を必要としたので、大量生産が難しかった。
訓練不足の要員と悪い保守管理が重なると、長所を生かすことができなかった。とくに履帯の交換方式は実用的でなく、燃費も1.6キロ走行あたり12.5リットルを必要とし、航続距離は140〜150キロと短かった。砲手と車長が操作する油圧と主導のいずれも砲塔回転速度が遅く、戦闘時、目標を捕捉するのに影響を与えた。
エンジンの短命さと変速機の信頼性も不足していた。
生産テンポが遅かったため、当初考えられていた戦車師団に重戦車大隊を配備する計画を実行することはできなかった。広大な戦線にばらまかれたティーガー戦車は少ないままだった。
1944年12月から始まったドイツの最後の反撃戦(バルジの戦い)に、ティーガー戦車123両が参加した。作戦稼動数は64%の79両だった。しかし、決定的な燃料の枯渇により、多くの戦車が放棄され、アルデンヌ攻勢はついに失敗した。
赤軍の重戦車であるスターリン戦車は、近距離ではティーガー戦車との交戦を避けようとしたが、距離2000メートル以上だと砲力優勢により積極的となった。
ティーガー戦車は、遠距離砲撃では、スターリン戦車の前面装甲を貫通できなかった。
史上最強という伝説のあるティーガー戦車なるものの実体を、写真とともに知ることができました。
(2008年4月刊。1900円+税)
2008年5月28日
ヒトラー暗殺計画
著者:グイド・クノップ、出版社:原書房
小説ではありません。歴史ドキュメントです。本文とあわせて、関係者の証言がエピソード的に紹介されていて、ヒトラー暗殺計画の周辺状況を多角的に知る事実ができます。初めて知ることがたくさんありました。
もちろん、私は暗殺とかテロを支持しているわけでもなく、賛美したりなど決してしません。しかし、ヒトラーに限っては(実は、スターリンについても同じですが)、早いとこ暗殺されてしまったら、ヨーロッパ戦線で数百万人の兵士が死ぬ必要はなかったろうし、数十万人のユダヤ人が死ぬこともなかっただろう。著者の、この指摘には同感せざるをえません。
ヒトラー暗殺の第一弾は、1939年11月8日のこと。ミュンヘンでヒトラーが演説し、いつもより早く1時間半ほどで切り上げて会場のホールから立ち去ったあと、その13分後に10キロの爆薬が爆発した。演壇そばのホールの支柱が爆発したのだった。8人が死に、数十人がケガをした。
犯人は、一人の工芸家具職人であり、単独犯で、黒幕はいなかった。彼はドイツ共産党に投票していたが、党員ではなかった。ヒトラーは戦争だ、ヒトラーがいなくなれば平和になる。このように考えての行動だった。
この暗殺者は、実行する1年前に会場の下見をした。そして、爆弾を購入するために、少しずつ家財道具を売り払って、材料を買いととのえた。会場の店には夜のうちに入っていて物置部屋に忍びこみ、ホールの支柱に工作した。大変な苦労をしたのですね。ヒトラーが、この日、天候を気にして早めに演説を切り上げたのは、まったくの偶然でした。まったく悪運の強い男です。
「犯人」はザクセンハウゼン強制収容所に入れられましたが、ずっと他の囚人から隔離されていました。独房3室があてがわれ、1室で寝起きし、1室に作業台を置いて木材加工し、最後の1室にSS監視兵が1人つめていた。食事も衣料も好待遇だった。暗殺に失敗したあと、5年半も生きていて、1945年4月9日夜、SS兵にうしろから撃たれ、翌日、ダッハウ強制収容所の焼却炉で灰になった。
ヒトラーは、ドイツ帝国の東部国境を、バクー、スターリングラード、モスクワ、レニングラードのラインまでずらす。この線から東をウラル山脈まで焼きはらい、その地域の生あるものすべてを抹殺する。そこに住むロシア人3000万人は餓死させる。レニングラードとモスクワは跡形もなく消し去る。このような戦慄のシナリオを知ったヒトラーの犯罪的所業を阻止する必要があると考えたドイツ国防軍の将校群が生まれた。
ユダヤ人、捕虜、コミッサールの射殺は総じてドイツ国防軍の将校団から拒絶された。このような射殺はドイツ将校団の名誉を毀損すると見なされた。そして、前線にいるドイツ国防軍の将校は我々の想像以上にこれを問題にしていた。
1943年3月7日、ドイツ国防軍防諜部(アプヴェーア)長官カナリス提督が幕僚を率いてスモレンスクへ飛んだ。オスター少将、ラホウゼン大佐、ドホナーニ特別班長が同行した。表向きの会談は前線司令部における情報将校の大会議。実は、ヒトラー暗殺のあと、ベルリンでどのように政権を引き継ぐか、そのときの措置、そして意思疎通のための暗号が取り決められた。
1943年3月、成功できたはずのヒトラー暗殺計画が、2件、たて続けに失敗してしまい、クーデター将校は仕切りなおしを強いられた。
ブライデンブーフ大尉がヒトラーを自分の拳銃で射殺することになった。しかし、なぜか、その日、ブライデンブーフ大尉はヒトラーの参加する作戦会議の開かれた会議室に入ることを拒まれた。
「ああいうことは、一度きりだ」とブライデンブーフは語った。神経の緊張はあまりにも大きく、2度もそれに耐えるとは思えなかった。
シュタウフェンベルクは、1943年4月、アフリカのチュニジアで敵機の機銃掃射を受け、命は助かったが右手を手首の上方で切断され、左手の小指と薬指を失い、さらに左目も喪った。やがてシュタウフェンベルクは、快復したあと1943年、本国へ異動した。そして、市民レジスタンスグループと連絡をとることができた。
1943年9月にベルリンへ来てから、シュタウフェベルクは短期間のうちにクーデター計画のリーダー格になった。レジスタンスの最重要人物と連絡をとり、意見の相違はあっても、共通の目標に対する支持をとりつけた。
1944年6月、連合軍がノルマンディー上陸作戦に成功したとき、シュタウフェンベルクはクーデターに意義があるのか疑問を感じた。そのとき、トレスコウはこう言った。
「いかなる犠牲をはらおうと、ヒトラー暗殺はなしとげなければならない。失敗するにしても、クーデターは起こさなければならない。もはや、重要なのは、現実の目標ではない。世界と歴史の前に、ドイツのレジスタンスが命を賭して決定的な一石を投じた、ということが重要なのだ。その事実に比べれば、ほかのことはどうでもよい」
いやあ、すごい言葉ですね。しびれます。まったく、そのとおりです。私は、今は亡き、この2人の先人に対して心からの敬意を表します。
いよいよ、ヒトラー暗殺を実行できるのはシュタウフェンベルク1人にしぼられていきました。日頃、口先で大きなことを言っていても、いざとなれば臆病風が吹いてしまうものです(なんだか、私のことを言われているようで・・・)。
1944年7月15日に至る経過で明らかになったのは、ベルリンでクーデターを指揮できるだけの精神力と行動力をふりしぼることのできるのは、シュタウフェンベルクだけだった。彼は、刺客兼クーデター指揮者という2つの役を兼ねなければならなかった。
しかし、片手の男が暗殺を決行するのは正気の沙汰ではなかった。ところが、ほかには誰もいなかった。シュタウフェンベルクと副官ヘフテンは書類カバンのなかに、それぞれ1キロのドイツ製プラスチック爆弾を隠していた。爆弾の組立は、きわめて複雑な作業である。確実に爆発させるためには1個だけでなく、2個か3個の信管を起動させる必要があった。ところが、2個目の爆弾をセットしようとする寸前にシュタウフェンベルクは謀議仲間から電話が入り、2個目の爆弾をカバンに入れることなく、ヒトラーの入る会議室に入ってセットせざるをえなかった。いやあ、これって、まさに運命のイタズラですね、仲間によって邪魔されたというのですから。
シュタウフェンベルクがヒトラーをなぜ会議室で射殺しなかったのかというと、彼は暗殺が成功したときのことにまで責任をもっていたからだ。
ああ、またもや悪運強し、です。ヒトラーは間一髪、爆死を免れました。ちょうどやってきていたイタリアのムッソリーニを無事に送り出し、ラジオで自分が元気でいることをドイツ国民に知らせることができた。
ロンメル将軍は、ヒトラー暗殺計画に積極的に加担してはいませんでしたが、軍部レジスタンスの味方をしていました。ところが、7月20日の直前の7月17日にフランス国内でイギリス軍の機銃掃射にあい、予期せぬ重傷を負ってしまったのです。これまた、なんという皮肉な運命でしょうか。
7月20日のヒトラー暗殺の失敗のあと、数週間のうちに800人ほどの人が逮捕され、200人が殺害された。ドイツ国民の大多数はヒトラーの暗殺未遂の知らせに驚愕し、激怒した。
シュタウフェンベルクは1944年7月21日未明、直ちに銃殺された。8月7日、クーデター将校に対する裁判が始まったが、非公開で行われた。裁判を公開したら、被告人にしゃべらせなければいけない。それは危険だ。こういう判断でした。
ゲッベルスはこの裁判の記録映画をドイツの映画館で公開するつもりだったが、むしろドイツ国民はフライスラー裁判長に対して嫌悪し、被告人たちに同情と尊敬を覚えるだろう。こう心配して、とりやめにした。
8月8日、被告人たちに死刑が宣告され、ヒトラーの命令どおり、家畜のように絞首刑が執行された。その様子をカメラが記録していて、ヒトラーは、何度となく観賞してあきることがなかった。ヒトラーは、やはりサディストそのものです。
死刑囚は、みな、嘆きの言葉一つも言わずに、背筋を伸ばして絞首台へ向かった。
ずっしり重たい本です。東京からの帰りの飛行機で一心に読みふけり、時間のたつのを忘れましてしまいました。
(2008年3月刊。2800円+税)
2008年5月 8日
ヒトラーを支持したドイツ国民
著者:ロバート・ジェラテリー、出版社:みすず書房
ヒトラー独裁といっても、それは多くのドイツ国民の最後までの支持なしにはありえなかったし、ドイツ国民は強制収容所の存在、そして、そこでの囚人虐待を知っていたという本です。ドイツ国民は何も知らなかったという従来の通説とは異なりますが、当時のマスコミ報道をふくめて資料を丹念に掘り起こしていますから、説得力があります。目を背けてはいけない事実です。
いま日本で、75歳の人が後期高齢者として保険料の年金からの天引きそして医療費の大幅な制限が始まり、多くの人が怒っています。でも、それを決めたのは小泉元首相でした。小泉フィーバーに乗っていた人々が、いま手痛いシッペ返しをくらっているとも言える事態です。スケールは断然違いますが、事の大小はともかくとして、ドイツでも日本でも、本質的には似たようなものだと私は思いますが、いかがでしょうか。
ヒトラーが1933年1月30日にドイツ(ワイマール共和国)の宰相に任命されたのは、43歳のとき。そのころのドイツには絶望感がみなぎっていた。それは自殺率に反映された。1932年には、イギリスの4倍、アメリカの2倍だった。そして、ヒトラーの任命前の3回の選挙において共産党は毎回3位を占め、得票は増えていた。
ヒトラーが宰相に任命された直後の国会解散のとき、ヒトラーの選挙スローガンは、「マルクス主義を攻撃せよ」だった。これは、善良な市民と資産家に訴える効果を狙っていた。
ヒトラーの1935年の徴兵制度の再導入は、労働市場から大量の就労年齢の男性を吸い上げ、失業者数を減らした。雇用と収入が突然戻ってきて、ドイツ国民に希望がよみがえった。それは、ことに青年男女にとって顕著だった。そこで、多くのドイツ国民が競ってナチ運動に参加しようとした。ナチ党員は、1930年に 13万人、1933年に85万人、その後、数年で500万人となった。ナチ党突撃隊 (SA)には1931年に8万人、1932年に50万人、1934年に300万人いた。女性も同じ。ナチの女性組織(NSF)は1932年に11万人、1933年に85万人、1934年に150万人、そして1938年には400万人だった。
警察官はナチに簡単に順応した。98%の制服警察官、90%の幹部が引き続き勤務でした。いやあ、こんな数字をあげられると、大衆操作の怖さをつくづく実感します。
ナチによる逮捕者は、裁判なしに強制収容所に送られたが、それは広く報道され、隠されてはいない。囚人の多くが共産党員であり、普通の監獄が満員なので、一時的に収容所に送られたと報道された。法なきところに罪なしという原則が、罰なき罪なしの原則に変えられたと市民に告知された。このスローガンは、犯罪者にあまりに権利を与えすぎて社会負担を無視する法制度にうんざりしていた人たちの心をつかむものだった。
ヒトラーの新警察は、時間のかかる法手続を無視して迅速な措置がとれるうま味をいったん覚えると、もう二度と後戻りできなかった。
1933年に非合法で逮捕され、強制収容所に収容された人は10万人をこえる。それらの人々は、なんらかの形で共産党に関係していた。ベルリンには、共産党員と社民党員の多い労働者居住区に100以上の拷問部屋があった。
世論懐柔のため、強制収容所は、もっぱら共産党員用だと宣伝された。ドイツのほとんどの町にあるといってもよい強制収容所について、新聞が一斉に報道したのだから、収容所の存在は秘密でもなんでもなかった。しばらくとはいえ、むしろ町民たちは、町に強制収容所があることを誇りに思っていた。ええーっ、そうだったんですか・・・。
警察は、ユダヤ人が共産主義者のような裏切り活動と結託していることを示す努力を払った。ユダヤ人憎悪を広めるもう一つのやり方は、ユダヤ人を犯罪と結びつけること。横領、詐欺、密輸、性犯罪、金銭、麻薬、どんな罪でも、ユダヤ人がかかわるものを新聞は記事にした。うむむ、まさに権力によるデッチ上げの犯罪行為ですね。
ヒトラーは激烈な死刑論者だった。だから、ナチ党が権力につくと、死刑判決の数が増え、死刑執行も増えた。死刑判決を受けた者の80%が執行された。1933年から45年までのあいだにドイツ国内の法廷で1万6500人に死刑を宣告し、その4分の3は執行された。その大多数はユダヤ人ではない。また、軍事裁判は、1万5000人に近い人々に死刑を宣告し、その85%が執行された。
ヒトラー独裁制は当初から反ユダヤ主義を培ってきた。けれども最初の2年半は、一般に想像されているよりも用心深くおこなわれた。ユダヤ人を狙った行動は、1935年5月から勢いを増し、7月半ばになると、ベルリン中心部の高級店を乱暴者が襲うようになった。それでも、地下に潜った社会民主党員は総じて楽天的でありつづけた。彼らは人々がナチの嘘を見破るのを期待し、多くのドイツ人がナチの仕業を支持するはずがないと信じこんでいた。しかし、ナチは、反ユダヤ主義を広めるバネとして、ユダヤ人の逮捕とは、共産主義者を逮捕することと同じなんだと請合った。これで、多くの善良な市民が騙されたわけです。
ヒトラーは、1939年9月、ドイツ国民が外国放送を聴くことを禁止した。ナチ警察は、こんな法律を守らせるのはきわめて難しいという理由から態度を保留した。たしかに、ドイツ人は、禁止されたイギリスのBBC放送をしっかり聴いていたし、それは公然の秘密だった。外国放送を聴いているという密告が数多くなされたが、その75%は、ナチへの支持とは無縁の、利己的な目的によってなされた。ドイツ全土が密告の雰囲気に包まれた。普通のドイツ人は、ゲシュタポを心配して四六時中ビクビクするどころか、自分たちの利益になるように制度を操作するように、この制度に順応した。
ドイツ人は、囚人服を着て木靴をはいた囚人を色眼鏡をとおして見た。よくて無関心か恐怖心、悪くて看守と一緒になって侮蔑、敵意、憎悪をむき出しにして囚人を見ていた。
一般市民も囚人を自分たちのために強制して働かせることをなんとも思っていなかった。囚人は、人間以下の人間として、国家の敵、犯罪者としての烙印が押されていたから。そして、ドイツの民間企業こそが、強制収容所囚人の最大の搾取者だった。IGファルベン、ジーメンス、ダイムラー、ベンツ、フォルクスワーゲン、BMW、などなど。
1941年にダッハウ収容所には、8つの衛星収容所があった。それは120ヶ所にまで増えた。衛星収容所の多くは市町村のまんなかに置かれたから、住民としては見ないわけにはいかなかった。ベルリンには30ほどの衛星収容所があって、そのうち半数は女性だった。そのほか、700の外国人労働者用のさまざまな収容所があった。このように囚人を住民の目と心から切り離すことは不可能だった。
住民は、囚人を犯罪者か共産党員だと信じこんでいたし、無反応であり無関心だった。
300頁ほどの本ですが、大変重たく感じる本です。いまの日本は、小泉元首相への熱狂によって悪い方向に大きく切り換えられてしまいました。このことは、今では明確だと思うのですが、まだまだ多くの日本人はそのことを自覚しないまま、景気回復の幻想にひたっているような気がしてなりません。残念です。
連休は熊本以外、どこにも出かけず、モノカキと庭仕事に精を出しました。ウグイスの鳴き声を聞きながら、庭を掘り下げて、野菜と木を植えました。まずアスパラガスです。今年は例年とちがって、なかなか芽が出てきません。植えてから、もう10年にはなりますので、寿命が来てしまったのかもしれない。そう思って、新しい苗を買ってきたのです。そして、少し離れたところに沈丁花の木を植えました。毎年、早春に咲いてくれていたのですが、近くのアンデスの乙女にでも負けてしまったのか、枯れてしまいました。最後にツルバラです。フェンスにからんで咲いてくれていたのですが、これも枯れたので、前と同じ紅い花のツルバラを植えました。
サクランボの実が、ぎっしりなっています。ヒヨドリが早速食べにやってきました。ヒマワリが庭のあちこちでぐんぐん伸びています。連休が終わると、もうすぐホタルも見れるようになります。初夏はもうすぐです。
(2008年2月刊。5200円+税)
2008年4月16日
ヒトラーとは何者だったのか?
著者:阿部良男、出版社:学研M文庫
文庫本なのに、700頁もあります。ナチス・ヒトラーについて書かれた本を3000冊以上も読んだ人が、そのうちの220冊を厳選して要旨を紹介した本です。なんと、学者ではありません。銀行に勤めながら、長いあいだ、ヒトラー関連の文献を集めたというのです。私も、この220冊のうち、かなりの本は読んでいますが、負けました。といっても、私も、ナチス・ヒトラーに関連する本は300冊は読んでいると思います。
ある分野について一応読んだと言えるためには最低300冊は読了することが必要だという説を読んだことがあるからです。ですから、私の書庫も、同じテーマのものは、集中しておくようにしています。そのテーマで書くときに必要な文献を、すぐに取り出せるようにするためです。私は、ヒトラーと同じように、ソ連とスターリンについても多くの本を読んでいます。
ヒトラーは臆病で、総統などという柄じゃない。優柔不断で、考えがぐらつき、人の意見に左右される。いま誰かと話すと、そのたびにころっと意見が変わる。だが、抜け目がなく、立ち回りはうまいし、気の弱い人間に限ってそうなのだが、残忍なところがある。
これはヒトラーと同時代の人の評価です。なるほど、と思います。ヒトラーは単純な精神異常者ではありませんでした。
ヒトラーは、暴力行為がもっとも効果的な政治の手段であることはよく理解して実行していた。その効果は噂と恐怖の拡大現象で増殖し、次第に民衆の独立的な抵抗意識を奪っていった。
アメリカのフォードは、ユダヤ人嫌いで、ドイツに輸出した自動車の売り上げから、ヒトラーに資金援助した。
ナチス突撃隊(SA)のレームは、資本家と決別することをヒトラーに要求した。それは旧体制との妥協を考えているヒトラーには同意できないことだった。
ヒトラーが1934年6月にSA隊長レームなど89人を粛清したことからナチ党の腐敗に対する断固たる処置としてヒトラーを高く評価し、神話が生まれた。
ナチス・ヒトラーは、生きるに値しない障害者を計画的に抹殺した。精神障害者、結核患者、知的障害者など20万人がドイツ内の6施設で薬物やガスで殺された。
この本で私が初めて知ったのは、アメリカ軍が200万人のドイツ兵を捕虜としたのに、通常の捕虜(POW)として扱わず、扶養する義務のない「新しい身分の捕虜」(DEF)と扱ったことから、100万人ものドイツ人が消えて(死んで)いったということです。アイゼンハワー元帥の考えによるものでした。
「水晶の夜」の真相は、ゲッペルス宣伝大臣がチェコ人女優と恋に落ちて結婚を望み、宣伝大臣の辞任と日本大使を希望したのに対してヒトラーが怒ったことから、ゲッペルスが名誉挽回を図ったものだというのです。ひどーい話です。
ホロコーストは、並の人間の想像力をはるかに超えていた。だからこそ、ホロコーストを否定する人々は、現在に至るまで、そんなことはウソだと言いはることができた。ナチ犯罪はあまりにも特異で、容易には理解しがたいものであるからこそ、これを否定しようとする、よどんだうねりは絶えることがなかった。
それでも、ウソはウソなのです。日本軍が南京で大虐殺をしたことが事実であるのに、あたかもウソであるかのようにいいつのる日本人が絶えないのが悲しい日本の現実です。 1944年7月のヒトラー暗殺計画に直接加担したのは200人近い。21人の将軍、33人の将校、2人の大使、7人の外交官が含まれていた。処刑されたのは年内に5764人、年が明けてさらに5684人だった。ヒトラー最大の危機だったのですね。
ヒトラーは、人種的観点からはむしろ問題の多い日本人との同盟を拒否はしなかったが、日本との対決を遠い将来に覚悟していた。ヒトラーは、日本が話題になるたびに、いわゆる黄色人種と手を握ったことを残念がる口ぶりを示した。
ヒトラーは黄色人種、つまり日本人も蔑視していました。ヒトラーの言葉が紹介されています。
白色人種の国々が結束していれば、極東を手に入れて、日本がこれほどのさばることもなかったはずだ。
ヒトラーと妻エヴァの遺体は、埋葬場所を転々と変え、1970年4月、ソ連のアンドロポフKGB議長が最終処分を指示した。遺体は火葬され、灰はエルベ川支流に捨てられた。
ヒトラーについて、その全体像を知る手がかりを与えてくれる本です。
昨日は絶好の春うららかな日和でした。車で山間部の支部まで出かけました。桜の花がハラハラと散っています。ナシの白い花が満開です。民家の庭先に咲くハナズオウの赤紫色の花があでやかに輝いていました。レンゲ畑となっていた田んぼにトラクターが入って、すきおこしをしています。
わが家のチューリップは今400本咲いています。いまが真っ盛りで、写真でお見せできないのが残念です。
(2008年1月刊。1300円+税)
2007年12月 4日
魅惑する帝国
著者:田野大輔、出版社:名古屋大学出版会
いやあ実に面白い本でした。知的好奇心をしっかり満足させてくれました。多読していると、こんな素晴らしい本にめぐりあることができます。著者はまだ30代後半の若手学者ですが、その問題関心と背景説明には、何度も、なるほど、なるほど、そうだったのかと、うなずいてしまいました。えっ、たとえばどんなことに魅かれたのか、ですか。
ヒトラーは、スターリンや後世代の毛沢東と違って、その第三帝国が存在した12年のあいだ、彫像がまったくなかったというのです。あれほど絶対的に崇拝され、ほとんど救世主の地位にまで高められたドイツの独裁者の彫像が存在しなかったのはなぜか?
著者はこのように問題を設定し、さまざまな角度からアプローチしていきます。
写真集においては、「総統も笑うことがある」というように、制服を着用していないヒトラーが表情もなごやかで、民衆や子どもたちと気さくに談笑している。
しかし、こうした親密な雰囲気は体制が安定期を迎えた1930年代中頃から次第に後退していき、やがてきまりきった儀礼的賛美へ転化する。とくに戦争がはじまると、ヒトラーは総統本営にひきこもって国民の前に姿をあらわさなくなったため、ますます遠い存在となった。
ヒトラー自身、民衆との結びつきが何よりも重要なことを自覚し、独裁者のような印象を与えないよう十分に注意していた。ヒトラーは、民衆の感情に配慮して、ヒトラー自身も質素な服装を着用し、粗末な食事をとり、酒もタバコものまず、妻もめとらなかった。ヒトラーの趣味は、専制君主の権力誇示とは対象的に、謙虚さや質朴さを美徳として強調するものだった。
ヒトラーは、みずからの生を公開し、親密さという価値を政治の中心にすえることで国民の信頼をかちとった。それは、疎遠でない政治、指導者と大衆が同じ目線に立つ政治であり、見とおしのきかない現代社会にあって、人々に政治参加の感覚を与える一種の「民主的」な政治形態だった。
ヒトラーによる「親密さの専制」は、第三帝国においても市民的価値観が連続性を保っていたこと、それどころか、この価値観こそナチズムの基盤にほかならなかった。むしろ、スターリンのほうが例外的だった。
ヒトラーが生前に描かせた肖像画は、つねに無表情で直立し、表情やポーズの硬さは、彼が総統として象徴的な意味を担っていることを示している。
多くの人々は実物のヒトラーを見てぱっとしない印象しか受けず、公式のイメージとの落差に驚きととまどいを覚えた。ヒトラーの目つきには、どこか生気のないところがあり、それが強い印象を与えた。
ヒトラーによって粛清された突撃隊のリーダーであるレームについても、鋭い指摘があり、目を開かされました。この突撃隊には、かつての共産党支持者が大量に鞍がえして入っていたというのです。あの有名なナチ・デマゴーグのゲッペルスは、闘争期には、共産主義への明かな共感を表明し、「私はプロレタリアートの社会主義を信じる」とさえ述べている。
国民の圧倒的多数を占めながら、長らく政治的公益性、公共性から排除されつづけていた労働者に対して、ナチズムは門戸開放を約束することで、大きな原動力を手にした。
しかし、ナチ党が権力を握ったとき、党指導部の統制に従わず、なおも第二革命を要求する突撃隊の急進主義は、国民全体を総合する「民族共同体」の建設にとっても、もはや障害でしかなかった。
このようにしてレームの粛清は必然だったのです。
さらに、ニュルンベルグで開かれていたナチ党全国大会についての実情紹介と、その分析もまた興味深いものがあります。参加者が50万人に達し、一糸乱れぬ統制とれた行進を写真でみると、いかに当時のドイツ国民がナチス・ヒトラーに心酔し、熱狂していたか、よく分かります。ところが、その内情はびっくりするものがありました。
党大会は会場もプログラムも、それぞれの組織ごとに異なり、全体が一同に会することはなかった。独立王国の寄せ集めだった。 第三帝国は決して一枚岩ではなかった。むしろ、激しい権力闘争にひき裂かれた機構的アナーキーというべきものであった。左翼政党や労働組合は破壊されたが、それ以外の大部分の既成集団、とくに官僚機構、軍部、企業などはナチ党の侵入はほとんどなく、自由裁量を維持しており、圧力集団として機能していた。
人々は概してナチ党全国大会に無関心だった。ニュルンベルグ観光ができるということで参加していた。汽車賃も食事も無料で、こずかいまでもらえた。
行進や演説といった公式行事よりも、いろいろの催し・娯楽が人々を惹きつけていた。
泥酔した党員が乱闘騒ぎをおこしたり、制服姿のまま売春宿に殺到したりする事態があり、主催者を悩ましていた。参加者は楽しいお祭りと受けとめていたのだ。
(2007年6月刊。5600円+税)