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「劣等感」も「コンプレックス」も、日常の会話のなかで、よく聞く言葉です。 でも、その意味については、ハッキリとはわからないという人が多いのではないでしょうか。 今回のコラムでは、「劣等感」と「コンプレックス」について、お話しさせていただきたいと思います。 「劣等感」というのは、実際にどうなのかとは関係なく、自分が劣っているとか、無価値だとか、生きていけるか自身がない、というような感情のことです。英語では、inferiority feeling と書きます。 無意識の「葛藤」に苦しむ神経症者の、一般的な傾向とほぼ同じですね。 「劣等感」のことを、「コンプレックス」と言い換えて表現する人も多いですが、この場合の「劣等感」は、 inferiority complex のことです。 complex とは、直訳すれば「複合観念」であり、 inferiority complex は、劣等の複合観念となります。先ほどの「劣等感( inferiority feeling )」と分けるために、「劣等コンプレックス」という場合もあります。 「コンプレックス」というのは、怒りや悲しみなどの強い感情や体験、思考が、無意識的に結びついている状態です。 その意味で inferiority complex を考えてみると、ただ単に人より劣っているという感情ではないことがわかります。その劣っているということに、怒りや悲しみなどの強い感情が、無意識的に結びついているわけですね。 さて、ここまでの説明で、「劣等感」と「コンプレックス」の意味がおわかりいただけたでしょうか。 たぶん、「なんだかよくわからない」と感じられた方が多いのではないでしょうか。私自身もそう思います。 結局、日常会話に出てくる「劣等感」というのは、 1.ただ単に劣っているという感情 2.神経症者の持つ自己否定的な無価値感のような感情 3.劣等コンプレックスとしての無意識的な強い感情との結びつき この3つのものを、ごちゃ混ぜにして使っているのでしょう。だから、ハッキリとわからなくなってしまうのです。 しかも、そのごちゃ混ぜの「劣等感」を、「コンプレックス」という言葉で代用したりもします。これでは、何がなんだかわからなくなってしまいますね。 「劣等感」も「コンプレックス」も、たぶん最初は、心理学者や精神科医といった専門家が使った言葉だと思います。 その言葉を、専門家でない人が引用したり、会話で使ったりしているうちに、ごちゃごちゃになってしまったと思われます。 そして、ごちゃごちゃになった「劣等感」や「コンプレックス」の意味をいちいち説明すると大変な作業になるため、専門家たちもあいまいなまま使い続けている、というのが現状ではないでしょうか。 私自身も、いろいろな本を読んでいて、「劣等感」という言葉に対して、何度も混乱したことがあります。 そんななかで、これこそまさにピッタリだという説明がありました。 それをご紹介しましょう。 新フロイト学派(ネオフロイディアン)の代表者のひとりで、精神医学者のカレン・ホーナイは、「劣等感」を「所属感の欠如」という言葉で説明しています。 たとえば、自分以外の家族全員が、それぞれ楽器の演奏ができるとします。ところが自分は、楽器の演奏ができません。楽譜さえ、まともに読めません。 こんな場合、自分は家族の一員ではないと感じてしまうでしょう。これが「所属感の欠如」です。孤独への恐怖と言い換えてもいいと思います。 このような家族環境のなかで、楽器の演奏ということに対して感じる、悲しさやつらさ、怒り、自己嫌悪などが「劣等感」だというわけです。 もう一つ例をあげましょう。 たとえば、小学校のクラスで、ほかの全員が解ける算数の問題を、自分ひとりだけが解けなかった場合、とても悲しくつらい思いを味わうでしょう。 このとき感じる悲しさやつらさが「劣等感」なのです。 どうですか。とてもわかりやすいでしょう。 私自身、この説明を読んで、初めて「劣等感」というものがわかったような気がしました。 しかし、「所属感の欠如」だけで、すべての「劣等感」が説明できるわけではありません。 たとえば、「学歴に対する劣等感」について、考えてみましょう。 自分以外の家族全員が大学卒以上の学歴を持っていて、自分だけが高卒だったとしたら、「所属感の欠如」で「劣等感」の説明ができます。 また、自分が勤めている会社のなかで、ほかの全員が自分より高学歴だったとしたら、やはり「所属感の欠如」で、説明できるでしょう。 しかし、この二つのようなケースは、そんなにあるとは思えません。もしあったとしても、ごくごくまれなケースだと思います。 それなのに、「学歴に対する劣等感」は、かなり多くの人が持っているのではないでしょうか。 こんな場合には、「劣等感」の背後に、「学歴」とは関係のない、「神経症的なメカニズム」が働いていると思われます。 要するに、現在の生活に対する不満や不平を、「もっといい学歴があればもっといい生活ができたのに」と「学歴」のせいにして、神経症的な不安から逃れようとしているわけですね。 これは少し考えてみれば、おかしいことに気づくはずです。 なぜなら、大した学歴を持っていなくても、社会で活躍している人がたくさんいるからです。せっかく高学歴を持っていても、大した生活ができない人も、たくさんいます。 結局は、自分自身の努力の程度が、現在の生活に反映していると言っていいでしょう。 それが満足できないのは、「私はどうしようもなく無能だ」とか「私のような人間が幸せになれるはずがない」といった「自己嫌悪」や「自己否定」の感情を「抑圧」しているからです。 さて、「コンプレックス」ですが、こちらの方は、もう少しお話しなければならないと思います。 フロイトとユング、この二人の名前は、非常に多くの人がご存じのことと思います。 この二人の残した業績は、精神分析や心理学、精神医学、心理療法、哲学、思想などの世界で、いまだに大きな影響力を持ち続けています。 二人とも「コンプレックス」という言葉を使っているのですが、実は、その使い方や意味づけが違っています。 フロイトは「コンプレックス」を、無意識の世界の神話的要素としてとらえていました。 たとえば、一番有名な「エディプス・コンプレックス」は、ギリシャ神話の「オイディブス」の物語から命名しています(ただし、「コンプレックス」という言葉を最初に使ったのは、ユングの方ですが)。 その内容は、簡単に言ってしまえば、男の子が母親に対して感じる性愛と、父の禁止です。 その逆で、娘が父親に対して感じる性愛と、母親とのライバル関係は、「エレクトラ・コンプレックス」となります。エレクトラも、ギリシャ神話のなかに登場してきます。 そのほかにも、オレステス・コンプレックス、ディアナ・コンプレックス、ダフネ・コンプレックス、カイン・コンプレックスなどが有名です。 フロイトは、神話の存在意義を深く考察し、人間の心、特に無意識の世界とのつながりを見つけだそうとしたと言えるでしょう。そして、そのつながりを、さまざまな「コンプレックス」として、表現しようと試みたわけです。 フロイトはその著作のなかで、精神分析家などの心の専門家が、神話の研究をする必要性を強調しています。 ユングの「コンプレックス」は、人生のなかで起こるさまざまな事件を、人間の心がどうとらえるかと言うことから、定義づけられています。 心理的に大きな負担がかかるような事件が起きたとき、その事件に関係する思考や感情、さまざまな情景などが、心の中で複合的に一つのまとまりとなります。そのまとまりの総体を「コンプレックス」と名づけたのです。 ユングの場合は、神話と無意識の関係を「集合無意識(普遍的無意識)」という形でとらえました。 「集合無意識」は、誰にでもあり、心の根底を築いているものです。 ユングの場合、ギリシャ神話などの西洋の神話だけでなく、東洋の神話についても詳しく研究しました。 そして、「集合無意識」が神話として表現される場合、さまざまな神話について、類型化できるいくつかのイメージがあることを発見しました。 これが有名な「アーキ・タイプ(元型)」と呼ばれているものです。 「アーキ・タイプ」には、アニマ(男性のなかの女性性)、アニムス(女性のなかの男性性)、シャドウ(影)、グレート・マザー(大母)、オールド・ワイズ・マン(老賢者)などがあります。とても有名なので、聞いたことがあるという人も多いでしょう。 あの有名な映画「スター・ウォーズ」では、アーキ・タイプのイメージが、ふんだんに使われています。作者ジョージ・ルーカスのインタビューでも、そのことは明らかにされています。 フロイトやユングについて書き出すと止まらなくなるので、別の機会にゆずって、このへんで止めておきましょう。 つまり、専門家の言う「コンプレックス」という言葉にも、いろいろな意味づけがあるということです。 |
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