河鍋暁斎とは

 河鍋暁斎ほど「浮世絵師」か「狩野派絵師」か、評価の分かれる絵描きはいない、とよくいわれます。
 後述のように浮世絵、狩野派双方の素地を持つ暁斎は、幕末の混沌、明治維新、文明開化と大きく揺れ動いた時代にあっても、縦横に作品を生み出していった、生来の「絵師」でした。注文とあれば来るもの拒まず、真面目な仏画から顔を背けるような残酷場面、笑いをさそう風刺画まで、あらゆるジャンルを描き尽したのです。
 それは、狩野派、浮世絵に限らず、伝統的な土佐・住吉派、円山四条派、琳派、文人画、中国画、西洋人体図等々、学べるもの全てを嚢中にした暁斎だからこその画業であったといえるでしょう。
 暁斎は、1831年(天保2)、現在の茨城県古河市に藩士・河鍋記右衛門の次男として誕生し、数え年2歳で家族ともども江戸へ出て以後、1889年(明治22)に亡くなるまで、江戸・東京で活躍しました。 3歳で初めてカエルを描き、7歳で浮世絵師・国芳に入門した暁斎は、10歳で駿河台狩野派の前村洞和、ついでその当主・狩野洞白陳信に学び、19歳の若さで「洞郁陳之」(とういく のりゆき)の画号をいただいて修業を終えたのです。 しかし修業を終えたのは幕末の頃で、狩野派絵師として生きることは難しかったことから、「狂斎」等の画号で浮世絵、戯画、行灯絵などを描いて糊口をしのいだといわれます。
 特に風刺精神が旺盛だった暁斎の戯画は喜ばれましたが、1870年(明治3)10月には筆禍事件を起こし、大番屋に捕らえられてしまいました。翌年正月に放免後、号を「暁斎」と改め、絵師としての活動を再開します。 
 その後は、1876年(明治9)のフィラデルフィア万国博覧会に肉筆作品を出品し、また同年来日したフランス人実業家エミール・ギメや同伴の画家フェリックス・レガメと交流するなど、広く活躍が知られるようになりますが、1881年(明治14)には、第2回内国勧業博覧会へ「枯木寒鴉図」を出品し、日本画の最高賞妙技二等賞牌を受賞し、公的にも評価されることとなります。 さらに英国人建築家ジョサイア・コンデルが入門したのもこの頃です。 そして暁斎は、最晩年、ドイツ人医師エルヴィン・ベルツが「日本最大の画家」と評すほどの人気絵師となっていったのです。
 暁斎は、1889年(明治22)4月26日、多くの人々に惜しまれながら胃がんで亡くなり、現在、谷中瑞輪寺の蝦墓型の墓石の下に眠っています(菩提寺は、瑞輪寺塔中・正行院)。  暁斎の弟子には、実子の暁雲(明治41年頃没)、暁翠のほか、絵描きとして昭和まで活躍した真野暁亭、女子の美術教育に携わった島田友春、暁斎・暁翠二代の弟子となった綾部暁月、錦絵も描いた早川松山、起立工商会社の下絵描きなどをした荒木白雲らがいました。
(暁斎の娘・暁翠についてはこちら)
 河鍋暁斎記念美術館では、数多くの下絵・画稿類を所蔵していますが、それらのほとんどは完成作品が発見されていません。しかし、中には完成度の極めて高いものも少なくなく、今後の発見が期待されるところです。
暁斎筆新富座妖怪引幕







暁斎筆「新富座妖怪引幕」(401.0×1704.0㎝)
早稲田大学坪内博士記念演劇博物館所蔵

 こちらの絵は、河鍋暁斎肉筆の「新富座妖怪引幕」の一部分です。この幕は仮名垣魯文が新富座に贈ったもので、魯文の依頼で暁斎が僅か4時間で描き上げたといわれます。実物は早稲田大学坪内博士記念演劇博物館に所蔵されており、同博物館のご好意で使用させていただきました。

暁斎とは


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