米国のUCI裁判において、簡易判決が出たことを聞いておられる方も多いと思います。もちろん上訴も可能ですし、最終決定というわけではありません。また、イエス様に対する裁判や文先生に対する裁判を想起してもわかるように、天の目からは善と義を貫いている人が、この世の裁判で有罪とみなされることがある事はあります。つまり、この世の裁判の判決から、天の目からの善と義を判断する事はできず、文顕進会長の歩みはこれからも変わらないことを確信しています。
裁判所が今回の判決で、UCIの本来の目的に対する義務への違反を文顕進会長が犯したとした根拠には、会社の目的に対する取り決めが書かれている定款の中で、「統一教会」を「統一運動」に、そして、「原理講論」を「統一運動の神学と原理」と変更したことがあります。UCIが「統一運動」を支援することがどうして悪く、「統一運動の神学と原理」を教えていくことがどうして義務違反なのでしょうか?文先生は統一教会と統一運動を同義語として使い、原理講論は8大教典の一つとして宣言されたではないでしょうか?つまり焦点なのは、統一教会とは何で、統一原理とは何なのかということであり、これは裁判所が扱うことができない、信仰の自由に関わることです。これは、プロテスタントが正しいか、カトリックが正しいかを裁判所が判断できないのと同じことです。
本来、父母は子に対して裁判を起こすような事はするべきでないのは、世の中を見ても明らかな事です。ところがこのような状況が展開してしまったのは、文先生が他界した後で統一教会を乗っ取ろうとする人たちが出てきてしまったことにあります。多くの統一教会の人たちは、このことから目を背け、「母は父と一体である」と、韓鶴子総裁を絶対視しています。文先生は生前、御自身の責任について語り、“真の父“としての責任分担を全うしようとしていることを語られる時がありました。では、父に責任があるとしたら、母に責任分担はないでしょうか?
“真の母”になるべき人の責任分担は、娘、姉妹、妻、母の理想を完成した姿になることであり、“真の父“は、堕落したアダムの血統から、その“真の母”を復帰しなければならず、“真の母”になるべき人は、“真の父“に対する絶対服従をしなければなりません。自分というものを持ち出してはいけない立場にあります。それは”第一のお母様”と呼ばれる人でも同じでしたし、第二でも第三でも変わりません。
ところが、文先生他界後の韓鶴子総裁の言動を見れば、まず、文先生が遺言として「変えてはいけない」と言ったことを無視し、8大教典の天聖教変更をして、「お父様には原罪があった」と語り、無原罪の独生女として母を父の上に立てるようになりました。これは父の血統の否定であり、文先生により神様の家庭が築かれたことの否定です。
こうしたことを書くと、「お母様を批判している」と日本統一教会の人たちは言います。また、日本統一教会においては、一生懸命に独生女論を正当化しようとするのを見ますけれども、1960年代から2012年までに入教した人たちの中で、独生女という言葉を聞いて入教した人が何人いるでしょうか?ほとんどゼロのはずです。独生女ではなくて、独生子という言葉とその意味を聞いたはずです。ところが、独生子が独生女に、文先生の他界の後に取って代わられました。これは簡単に表現するのなら、乗っ取りです。このような表現に抵抗を覚える方もおられるとは思いますけれども、ハイジャックという言葉がもっとも適切な表現になる状況です。
真の母になるべき人が真の父と絶対的に一つになる道は容易い道ではありません。文先生は真の母になるべき人を否定するかのような言葉を語りました。それは、蕩減として避けられないことでした。しかし、独生女論で語られている事は、真の父が語ったこと一つ一つに対する否定と反論なのです。これは「一体化している」と信じている人にとって、考えるのも難しい事であるのを知っています。でも、私たちには真実を見つめる勇気が必要なので書いています。
真実は、統一教会の腐敗したリーダーたちと、文顕進会長の位置を狙う兄弟姉妹の援助の中で、年老いて能力の低下した夫の状況を利用して、韓鶴子総裁が統一教会をハイジャックすることを意図し、正当な後継者であった文顕進会長を追い出したのです。つまり、文顕進会長は犠牲者です。
こうした異様な姿は、文先生が他界する前から、近くで見ることができる人にはわかっていました。故神山会長もそのお一人です。文先生の生前、2008年頃のはすでに私たちのような文顕進会長のもとにいる人たちにも、文先生の他界の後に韓鶴子総裁を頂点とした体制にするように文顕進会長に圧力が加わった事は伝わってきましたし、裁判が起きてからも、韓鶴子総裁の要求が、韓鶴子総裁の下で文顕進会長が働くことで一貫しているのを知っています。
母の下に入れば良いではないか、と思う方もおられるかもしれませんけれども、原理は儒教とは違います。原理においては、男性と女性には明確な役割の違いがあります。血統を持っているのは男性です。男性の血統によって、神様の主権というのもはこの地に現れます。堕落は、サタンと一つになったエバがアダムを主管して、血統を転換してしまったことにあり、そこから神様が主権を失うことになったことが原理講論に書いてあります。すでに父に対する主管性転倒をした母に服従し、同じことを文先生の家庭の中で繰り返せば、“真の父母”も“真の家庭”も、消え去ることになります。ですから、独生女と独生女論に服従する事は出来ません。これは、信仰を持った人が命をかけて守るべき事です。
今回の判決は、独生女信仰を私に押し付けました。でも私はどんなに独生女論が押し付けられても、それを受け入れる事はありません。この世の法律で裁ける事ではありません。それは皆さんにとっても同じ事です。裁判が右に行った、左に行った、で信仰の判断をするのは間違いです。
裁判所で公開される文書はずっと追いかけてきましたが、これからも裁判沙汰になった事は裁判所に任せるゆえに、このブログでは基本的に扱わないでおきます。私たちの霊的命は、この世の裁判所の出来事で左右される事ではありません。
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