伏見稲荷大社の歴史を簡単に説明しています。
そして、有名な千本鳥居の由来や本数、
奉納の仕方をご案内します。
お山めぐりについても
まとめてみました。
もくじ [hide]
伏見稲荷大社の歴史を簡単に読み解くと・・・
伏見稲荷大社の起源
伏見稲荷大社の創建は和銅四年(711年)とされ、
全国に三万を超える稲荷神社の総本宮なのです。
主祭神は『宇迦之御魂大神』で、穀物の神様です。
重要文化財に指定されている本殿には、下社・中社・上社
ならびに摂社である田中社・四大神の五社が一宇相殿に奉祀されています。
これら五柱のご祭神名は、稲荷大神の広大なるご神徳の神名化されたものです。
五穀豊穣のご利益で信仰されてきましたが、
江戸時代の頃からは商売繁盛の神様として人気を集め、全国に広がりました。
江戸では「伊勢屋(伊勢の商人)稲荷(お稲荷さん)に、犬の糞」というフレーズが、
流行ったというくらい、
稲荷神社は”どこにでもあるありふれたもの”のひとつになっていたのです。
伏見稲荷大社の歴史
「稲荷神社」の「稲荷」というの言葉の意味や由来と起源を探ってみると、
「山城国風土記(やましろこくふうどき)」という書物に、由来が記載されてあります。
山城国風土記とは、山城(現在の京都府)の風土記で、
奈良時代、主に天皇に献上するために用いられたの地域の調査報告書に位置します。
奈良時代初期である713年(和銅6年)5月に、
当時の天皇である「元明天皇」が、諸国の風土記の編成を命じました。
中国や朝鮮から日本へ移り住んだとされる、
「秦伊呂具(はたいろぐ)」という人物がいました。
秦氏は5世紀ごろに、山城の国、現在の京都・桂川流域と鴨川流域に移住してきた、
渡来人(帰化朝鮮人)の巨大氏族のことで、
大陸の進んだ文明・文化を日本に持ち込んだ人たちです。
優れた先進的土木技術で葛野一帯を田園地域に変えたり、
葉酸や機織りの技術を発達させ、うずたかく絹を積んで朝廷に献上したことから、
その地域が『太秦』と呼ばれるようになったと伝わっています。
秦氏一族は富を得ていました。
ある時、秦伊呂具が戯れに餅を狙って弓矢を放った所、
なんと!餅が白鳥に変化して山の向こうへ飛んで行ったそうです。
その時、的を外した弓矢が落ちた小高いところに稲が生えました。
「稲が生えた」という言葉の発音から「稲生(いなせ)」へと変化して、
瞬く間にそこら一面に稲が生え、
稲が荷となるくらいの重量(=豊作)になったことから、
最終的に「稲荷(いなり)」と呼ぶようになったといいます。
その場所が神聖な場所だと悟った秦伊呂具によって、
稲が生った場所に、社が建てられたのが、伏見稲荷大社の起源だと由来されています。
伏見稲荷大社は、奈良時代の711年(和銅4年)2月の「初牛の日(7日)」に、
「伊侶巨秦公(いろこのはたのきみ)」が、勅命を受けて、
稲荷山にある3つの山の頂上に稲荷大神をお祀りしたことが始まりとされています。
この伏見稲荷大社は、当初、「五穀豊穣の神様」として崇められ、お祀されてきました。
しかし、現在は、「五穀豊穣の神様」以外にも、
商売繁昌や家内安全といったことにもご利益があると云われており、
これらのご利益がある神様としても、全国で広く信仰されています。
伏見稲荷大社が「商売繁昌」や「家内安全」のご利益を得た本当の理由には、
弘法大師・空海にまつわるお話があります。
弘法大師・空海(こうほうたいし くうかい)が唐の国へ、
最澄らと共に日本を出国した話は有名です。
後に、高野山へ入り今の壇上伽藍や金剛峯寺を創建するに至りますが、
唐から日本へ帰国した後、すぐに高野山を開創したのではなく、
幾年かの間、天皇や朝廷から依頼された仕事に従事することとなります。
その一環として、国内の治水工事や寺院の造営担う仕事もありました。
これらの仕事を順調にこなす空海を天皇や朝廷は頼もしく思い、
特に嵯峨天皇からは絶大な信任を得ることになります。
その後の827年の、空海が50歳の時に、
嵯峨天皇は自らで(朝廷)管理していた東寺を、独断で空海に与えることになります。
嵯峨天皇から譲り受けた「東寺(とうじ)」を、空海は再建・修善することとなりますが、
伏見稲荷大社でお祀りされている稲荷大神に、
自らの所有する「東寺」の鎮守の神となってもらうようにお願いに来たのです。
東寺という寺を所有して、自らが学んだ密教を広く布教するべく、
まずは自らの存在を示す証となる東寺を、空海自らの発願によって、
伽藍の創設や再建・修繕を行っていました。
しかし、伽藍を創建するに際して、どうしても木材が必要となります。
そこで、天皇の許可を得た空海は、稲荷山に生息していた巨木を切り倒して、
その巨木を伽藍創建の材料としました。
ところが、
稲荷山の神である「稲荷大神」は、そんな空海の様を見て、激怒することとなります。
天長4年(827)「淳和天皇(じゅんなてんのう)」の体調が悪くなり、
原因を占ったところ、
造営中である東寺の五重塔に稲荷神社の神木が使われたことによる、
稲荷神の祟りと判明します。
その怒りを悟った空海は、
急ぎ、稲荷大神が鎮座する伏見稲荷大社へ赴くことになるワケです。
空海が超が付くほど有名にした「京都・伏見稲荷大社」
当時の空海は、国民に大変な人気がありました。
そんな国民的人気を誇る空海が伏見稲荷大社に鎮座する「稲荷大神」を、
自らの伽藍の鎮守の神としたことは、大変なスクープとなりました。
このことは、天皇の耳に入り、そして次第に国民へと広まって行きました。
その後、天皇が直々に空海を加護する稲荷大神へ参拝するために、
伏見稲荷大社へと足を運ぶことになりました。
その噂は民衆へも広がり、
「天皇もお参りするほどの崇高な社である」とされ、
国民にも稲荷大神の名前が知れ渡っていきました。
当時の民衆は、空海に大変な感謝をしており、国の様々な改革してくれたことから、
「国家安泰」「商売繁盛」そして「家内安全」「諸願成就」といったご利益が、
空海自体にあると信じていました。
つまり、空海の信仰そのものが上述のご利益があるとされていたために、
稲荷大神の五穀豊穣の信仰とが融合して、現在のご利益になった云われております。
朝廷は祟りを鎮めるため、稲荷神社へ使者を遣わし、
病気平癒の祈願と稲荷神に従五位下の神階を贈ります。
延喜8年(908年)には藤原時平の寄進により社殿が造営され、
朱雀天皇の御代の天慶5年(942)に稲荷神社は、正一位になりました。
963年(応和3年)
都の巽(京都の東南の方角)を鎮守する神社として定められる。
時代は下って1468年(応仁2年)
応仁の乱により、山上、山下の社殿の大半が崩壊しました。
再興の費用を捻出するため、境内には本願所が設けられ、諸国勧進が行われ、
本殿と内拝殿本殿本殿は明応元年(1492)の造営で、
明応8年(1499)より、三ヶ峰の神々に田中神と四大神を加えた、
五柱の神が本殿で祀られるようになりました。
楼門は、天正17年(1589年)豊臣秀吉の造営とされてきました。
秀吉の母大政所殿の「病悩平癒祈願が成就すれば一万石奉加する」と記した、
いわゆる“命乞いの願文”が伝来しています。
しかし造営伝承と伝来文書との整合性については多少の疑問がありました。
ところが昭和48年に楼門の解体修理が行われたところ、
願文の年次と同じ「天正17年」の墨書が発見され、
伝承の正しかったことが確認されました。
神社の楼門の規模としては最も大きいものに属します。
元禄7年(1694)には、江戸幕府の寄進によって、
本殿正面に「向拝大唐破風」が付けられました。
手前の内拝殿は、昭和36年(1961)に造営されたもので、
その際、本殿に付けられていた「向拝大唐破風」を内拝殿に移しています。
社殿建築としては大型に属し、装飾、特に“懸魚”の金覆輪や“垂木鼻”の飾金具、
それと前拝に付けられた“蟇股”等の意匠に安土桃山時代へ向かう気風がみなぎり、
豪放にして優華な趣をただよわしていて、重要文化財に指定されています。
1868年(慶応4年)廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)が命じられ、
社内の仏殿、仏像が廃されました。
明治政府は稲荷社から領地をすべて召し上げ、境内地も4分の1に減らされたのです。
※廃仏棄釈・・・仏教 寺院・仏像・経巻を破毀して、
僧侶や尼僧など出家した人や寺院が受けていた特権を廃止すること。
1871年(明治4年)官幣大社に列される。
1946年(昭和21年)宗教法人・伏見稲荷大社に改称。
伏見稲荷大社 おもかる石
千本鳥居を抜けた奥社の近くにある『おもかる石』は、
一対の石灯籠の前で祈願し、吊り下げてある空輪を持ち上げてみると、
思ったよりも軽ければ願いが叶い、重ければ叶うのは難しいと言われています。
伏見稲荷大社商売繁盛以外のご利益
さて、まるまるお山一つが伏見稲荷の境内なのですから、
見どころは数え切れないほどあります。
その中から、『商売繁盛』にご利益があるものを紹介すると、
千本鳥居を抜けたところにある「根上の松」です。
これは松の根が二股になっているものですが、
株価や給料の値上がりを祈願して、この松に手を合わせる人が大勢います。
ちなみに、この松は膝にも見えることから、
「膝松さん」とも呼ばれていて、
木の根元をくぐると「足腰の病気が治る」ともいわれています。
ほかにも、門口の盛り塩にする「清めの砂」や「伏見の水」など、
ご利益を授けてくださるものは様々ありますので、
散策が目的の時はゆっくりと回って見るのもいいですよ。
伏見稲荷大社のお守り
商売繁盛のお守りのほか、
為したいことが成就する『為事守』や願いが叶う『達成守』などがあります。
絵馬
逆三角形のキツネの絵馬は、表側にキツネの顔を描き入れ、
裏側に願い事を書き込むというものです。
その他のご利益
学業成就・五穀豊穣・家内安全・万病平癒
お祭り
4月20日から5月3日まで、二週間にわたって行われる『稲荷祭』は、
平安時代から続く伝統の祭典で、華麗な神輿が町中を巡幸します。
京都のパワースポット伏見稲荷大社 七不思議に纏わる狐と朱塗りの鳥居
伏見稲荷大社の千本鳥居の由来と奉納の仕方
伏見稲荷大社の千本鳥居の由来
伏見稲荷大社「千本鳥居」
テレビドラマやCMでもおなじみの、延々と続く朱色の鳥居。
京都のみならず、日本で最も有名な神社のひとつ、
伏見稲荷大社の「千本鳥居」には見覚えがあるのではないでしょうか。
伏見稲荷大社は、東山三十六峰のひとつである稲荷山全体を神社としているので、
晴れた日に緑の中に連なる朱色のアーケードを歩くと、
幻想的なくらい美しい光と影に満ちています。
この朱色のアーケードは商売繁盛のご利益を願って、
また、願いがかなったお礼の為に奉納された鳥居です。
参拝者が鳥居を奉納するのは江戸時代から始まったようで、
稲荷神の崇敬は朝廷の他、専ら町人や商人によって行われ、
特に活発となった商いの成功(結願)を祈る商人には人気がありました。
結願の礼として本社に赤い鳥居を奉納する習慣が広まり、
膨大な千本鳥居を形成するに至ったのです。
奥宮から奥社奉拝所の途中にある、二筋の隣接した鳥居の道を「千本鳥居」といいます。
隙間なく建てられたその数は、『千本鳥居』と称されているものの、
千本鳥居は右と左の通路に分かれていて、実際には800弱のようです。
伏見稲荷大社の千本鳥居の奉納の仕方
江戸時代より、結願の礼として本社に赤い鳥居を奉納する習慣が広まり、
膨大な千本鳥居を形成するようになったのですが、
鳥居の柱には奉納した企業や個人名が書かれています。
朱塗りの鳥居を奉納する場合、
まずは、申込みをして、
建てるとなった段階で料金を支払う形となります。
千本鳥居は建てられるスペースが限られているようで、
そのスペースが空き次第、建てられるようです。
ですから、予約申し込みしてから4~5年待ちしなければいけないようです。
鳥居は木でできていますから、朽ちていきます。
朽ちるまでの期間も4~5年ということですから、
朽ちてしまって、その場所が空いたら次の鳥居を建てるのでしょうね。
新しいものは、古いものを撤去した跡地に建てられるようです。
なので、日々鳥居の本数は増減します。
鳥居の大きさ 初穂料
5号 175,000 円
6号 383,000 円~
7号 482,000 円~
8号 708,000 円~
9号 826,000 円~
10号 1,302,000 円~
大きさの表記ですが、号は柱の直径の大きさを表しています。
1号の大きさが3㎝ですので、
5号ですと柱の直径は15㎝となります。
鳥居の大きさとは別に
奉納する場所によっても値段が変わってきます。
鳥居の建設は今も続けられており、
毎日のように建設工事中のものが見つかります。
伏見稲荷大社の初午大祭はいつ?しるしの杉の祀り方とご利益は?
伏見稲荷大社 お山巡りにかかる所要時間は?
千本鳥居は参道になっているのですが、この鳥居のアーケードを抜け、
さらにお山めぐりをする全行程をたどると二時間はたっぷりかかります。
商売繁盛のご利益ナンバーワン、稲荷神社の総本宮を参拝し、
お山巡りの参道を歩いていくと、
ちょっとしたハイキング気分で、気持ちも清々しくなり、
それだけで何となく自然のパワーを頂いた気がします。
ところで、
伏見稲荷大社の鳥居の数というのは、
突き詰めると結構やっかいなのです。
稲荷山は伏見稲荷大社の神域ですが、
稲荷山の登山ルートはメインの巡拝路以外にも6ルートあり、
それぞれのルートに散発的に鳥居が建てられていたりします。
また、麓のお滝めぐりルートにも鳥居が建てられていますし、
稲荷山一帯に多数存在する神蹟(お塚)にも大小多数の石や木の鳥居があります。
1万本というのは、それらを含めた数だと思います。
以上の全てが伏見稲荷大社の直轄というわけではなく、
それらの稲荷山の周辺の鳥居のうち他の宗教法人の分という話になると、
恐らく伏見稲荷大社も正確には把握していないのではないかと愚行します。
鳥居とお塚
現在、三ヶ峰に社殿はありませんが、その場所は神蹟と呼び、
神蹟を順拝すること「お山する・お山巡り」といます。
参道には信者から奉納された約一万基の鳥居と、
お塚と呼ばれる無数の石碑があります。
鳥居を奉納する習わしは、江戸時代から始まり、
朱(丹塗り)の鳥居が奉納されるようなったのは、明治以降といわれています。
鳥居のほとんどは木製ですが、
明治から大正(主に大正期)にかけて奉納された石鳥居もあります。
お塚は、稲荷神に別称を付けて信仰する人々が石碑にその名を刻み奉納したもので、
当初は石の持ち込みを禁止、排除していましたが、
明治4年(1871)明治政府の上知令により、一時的に国有地となり、
神社側が管理出来ない間に奉納が盛んに行われ、
結果、古来からある神蹟の塚と私的な塚が混在する景観になりました。
商売繁盛を祈願するなら、散策には注意をしなければいけません。
何故かというと、商売繁盛のご利益を頂くためには、
ほかの摂社や末社、また、見どころスポットには立ち寄らず、
伏見稲荷にだけ参拝し、
そのあとはすぐに仕事の場所に戻らなければならないと言われているからです。
寄り道をすると、せっかく授かったパワーが弱まってしまうらしいのです。
これは近所のお稲荷さんへお参りした時も同じかもしれません。
お稲荷さんを拝んだら、
ゆっくりほかのところを見て歩くのは、別の機会にした方がよさそうです。
あとがき
海外の人にも大人気の伏見稲荷大社
子供の頃、母と早朝の月参りをしていました。
奥の院まで行くのは、お朔日が日曜だった時。
朝早い奥の院の清々しさは忘れられません。