なぜなら百人一首の選者の藤原定家は、わざわざこの歌人の名前を「中納言」と職名で記しているのです。
「佐藤さん」と呼びかける場合と、「佐藤部長」と呼ぶ場合では違います。
前者は個人ですが、後者は職業上の呼びかけです。
つまりこの歌は、単に個人の恋心を歌っているのではなく、すくなくとも藤原定家はこの歌に何らかの政治を見ているわけです。
では歌を詳しく見てみましょう。
「みかの原」というのは、三香原、瓶原、甕原などとも書きますが、山城国相楽郡にある原で、そこには聖武天皇の御世に恭仁京(くにのみやこ)と呼ばれる都が置かれたところです。
そこで聖武天皇がお使いになられた手水(ちょうず)の甕(たしらか)を埋めたところ、そこから水が湧き出たという古伝があります。
甕(たしらか、”みか”ともいう)というのは、天皇の手水(ちょうず)の水を入れる土製の素焼きのうつわのことです。
昔は水道がありませんから、トイレの横に洗面器などを置いておいて、そこに水を張り、トイレの後にはその水で手を洗ったのです。
普通の人のトイレの手洗い用の洗面器なら、そこらへんに捨てても問題ないでしょうが、天皇の甕(たしらか)となれば、そこらへんに捨てるわけにもいかないし、さりとてモノがモノだけに、誰かにプレゼントというわけにもいきません。
ですから、新しいものと交換するのに際して、それまで使っていたものを土に埋めたのです。
そしたら水が湧き出てきた、というわけで「みかの原」という名が付いているわけです。
「わきて流れる」の「わき」は、泉が湧くことだけでなく、もうひとつ「分ける」という意味の四段動詞でもあります。「湧く」と「分ける、分かれる」の両方の意味が掛かっています。
「泉河」は、今の木津川のことです。
「いつ見きとてか」は、「いつ見たというのか」です。
単に「見た」だけなのですから、逢瀬を意味しません。
これを強引に「見は逢瀬を遂げることを意味する」などと解説している先生もおいでになりますが、「見る」ということと、「逢瀬」では、あまりに落差がありすぎるからです。
さて、この歌では「別れて流れた」とあるわけですから、何かがそこで別れて、流れが変わったわけです。
そしてその変わったもののヒントになるのが、「みかの原」です。
その「みかの原」は、聖武天皇の御世に都が置かれたところです。
そこで聖武天皇の時代を考えてみますと、実はその時代に我が国はたいへん大きな転換を迎えています。
聖武天皇は、持統天皇の子の文武天皇と、藤原不比等の娘である宮子の間にできた子です。
天皇御在位中には、一大権力者となっていた藤原不比等が、皇族しか立后しないのが当時の慣習であったにも関わらず、強引に娘の光明子を聖武天皇の皇后にしました。
天皇の権威というのは、天照大御神からの直系の血筋であることにあります。
ですからできるだけその血を濃いものに保つために、天皇の妻は、皇族の出身の女性(内親王)のみが皇后または妃(ひ)となることができるということがしきたりでした。
臣籍からの夫人は、夫人、嬪(ひん)と呼ばれ、天皇との間に子が生まれても、その子は天皇にはなれないというのがしきたりとなっていたわけです。
藤原不比等は、そのしきたりを破って、臣籍である自分の娘の光明子を聖武天皇の后にしようとしました。
これに反対したのが長屋王です。
長屋王は、天武天皇の長男であり、我が国初の太政大臣となった高市皇子(たけちのみこ)の子です。
高市皇子も、古くからの慣例をたいへんに尊重された方でしたから、子の長屋王も、そのしきたりを重視しました。
つまり藤原不比等の意見に反対の立場を取っていたわけです。
ところが政治権力者であった藤原不比等は、長屋王の邸を囲み、長屋王を自害させています。
これが長屋王の乱で、聖武天皇のご在位5年目の729年の出来事です。
ところがその5年後の734年、たいへんな事態が起こります。
それが五畿七道地震です。
これはいまでいう南海トラフの大地震で、『続日本紀』によれば天下の民衆の家はことごとく倒壊し、多数の圧死者が出ただけでなく、山崩れや川の閉塞、地割れは数知れずとあります。
地震の規模は、おそらくマグネチュード7くらいあったのではないかと言われています。
ちなみに五畿七道というのは、要するに日本全国を意味する言葉です。
全国が一斉に揺れた、大地震であったわけです。
すこし余計なことを言うと、この地震のあと、朝廷は全国の神社に使いを送っているのですが、そのことについて、それは「神社の被害状況を調べるためであった」と解説しているものをよく見かけます。
どうしたらそういう発想になるのかわかりませんが、当時の朝廷は、太政官が、いわばいまでいう政府であって、その政府からは全国各地に国司が派遣されているのですけれど、それは主に徴税使としてであって、しかもたとえば相模の国の国司なら、いまでいう神奈川県全域を統括する責任者として、たった1名しかいないわけです。
ところがこの時代、中央でたとえば元号が代わると、三日のうちには全国津々浦々まで、その示達が行き届いていました。
なぜそのようなことができるかといえば、朝廷にあるもう一つの役所である神祇官が、全国の神社をネットワーク化していたからです。
神社は、地域の氏神様であって、地域住民は必ず全員が毎月神社に集っていました。
ですから神社は、もっとも地域の情報に詳しいところでもあったわけです。
ですから五畿七道地震のときに、朝廷が全国の神社に使いを出して被害状況を調べさせたというのは、神社が民間の被災状況を完全に掌握していたからなのであって、神社だけの被害を調べたところで、何の意味もないわけです。
この時代にはまだ仏教は民間には広がっていません。
そして神社が、米の備蓄をし、また苗を農家に配布していました。
まさに神社が庶民の生活の中心に必ずなっていたのです
そして地震の被害も、ようやく復興ができてきた3年後の737年、何が起こったかと言うと、天然痘の大流行です。
この天然痘の大流行によって、藤原不比等の子である藤原四兄弟を始め、政府高官のほとんどが病死してしまいます。
ちなみにその天然痘は、新羅から伝染してきたものです。
こうした悲劇の重なりから、聖武天皇は奈良の都を捨てて、740年に恭仁京(くにのみや)に遷都を行います。
ところが恭仁宮でも、国内が安定しない。
そこで744年には、今度は難波京に遷都しますが、遷都というのは、都度、大規模な皇居その他貴族の館から行政組織のための建物など、ものすごいコストがかかるわけです。
結果、周囲から猛烈な反対運動もあって、翌年の745年には、結局奈良に都を戻しています。
そしてその恭仁宮に都があったときに、聖武天皇が行った一大決断が、741年3月の行基(ぎょうき)との和解です。
これは仏僧である行基に、聖武天皇が恭仁京郊外の泉橋院で会見したという事件なのですが、実はこのときにはじめて、仏教の民間への布教が認められたのです。
上にも述べましたが、この時代の日本では、神社のネットワークが、社会の柱になっていました。
中央からの示達も神社のネットワークが利用されます。
地方の様子を中央に伝え、天皇にまで奏上するのも、神社のネットワークがあってのことです。
また米作りのための苗代の管理も神社の役目、災害に備えてのお米の備蓄も神社の役割です。
ですから神社のネットワークは、国の要になっていたわけで、このため渡来仏教は、どこまでも国家鎮護を国が願うための国営もしくは、高級貴族が仏閣を営むものであったわけです。
このことは、逆に言うと、仏教の一般への布教は、一切禁じられていたわけです。
ところがこのご禁制を破って、行基は勝手に民間への布教を行いました。
朝廷がありがたがっている仏教を、庶民も信仰できるのです。
庶民は大喜びで、仏教に帰依しました。
ところが庶民が仏教の信者になって、旧来の国神である神社と疎遠になることは、国家運営の基盤が神社のネットワークにあったわけですから、これは国家としては大問題です。
ところが聖武天皇は、度重なる国家の不安も手伝って、行基の行っていた庶民への布教を認められます。
庶民の仏教信仰は、実はここから始まっているのです。
そういう意味において、「みかの原」が象徴する恭仁宮は、聖武天皇の御世に、仏教が解禁となったという大事件を想起させる言葉になっているわけです。
そこから「わきて流るる」、つまり日本の文化が、日本古来の文化だけではなくて、渡来仏教文化が庶民のものとして拡大していく、つまり恭仁宮時代から、日本国内に日本古来の神々への信仰と、仏教の仏様への信仰という二つの流れができあがる。
その聖武天皇の時代が、まさに天平文化の時代です。
下にいくつかの画像を貼りますが、渡来仏教が、もちろん民間信仰の分野に進出するという流れが生まれるのと同時に、聖武天皇によって厚く保護された仏教が、奈良の大仏をはじめ、建築、絵画、彫刻等、様々な分野で我が国の文化が花開くわけです。
奈良の大仏にしても、この時代に作られた阿修羅像や十二神将像にしても、仏教の仏様の彫刻でありながら、そのお顔立ちは、Chinaやインドやタイなどの仏像とはまったく異なる、たいへんに日本的なものです。
また絵画の分野でも、いわゆる天平文化の時代は、たいへんに豪華絢爛な絵画がたくさん描かれた時代でもありました。
なるほど聖武天皇の時代は、人々にとって不幸の連続といって良い時代ではあったのですが、その一方で、その不幸からなんとか立ち上がろうとする朝廷と国民の意思が、きわめて高い文化性を発揮した時代でもあったわけです。
歌を詠んだ藤原兼輔は、朝廷の中納言であり、また和歌の達人でもあります。
和歌は、完全に我が国の文化そのものです。
仏教は、渡来文化です。
我が国の文化の体現者である藤原兼輔は、自国の文化の保護者でありながら、この歌を通じて、なんと外来文化をも含めて、その昔を「恋しい」と詠んでいるわけです。
このことが意味するものはものすごく大きいです。
なぜならそれは、日本の保守の大物代議士が、Chinaの文化を大絶賛して「恋しい」と詠んでいるようなものだからです。
これが何を意味するかと言うと、中納言兼輔は、日本文化の体現者であり日本文化の保護者でありながら、同時に外来の文化、渡来文化であっても「恋しい」、つまり「良いものは良いものとして、どんどん採り入れて行こうではないか」と詠んでいるわけです。
個人的には、私はChinaもKoreaも好きではありません。
というよりも大嫌いです。
けれど中納言兼輔は、「それでも良いものは良いものとしてしっかりと学び、我が国の文化に採り入れていこうではないか」と詠んでいるのです。
同様に私自身も、嫌いだから学ばないという姿勢は、厳に謹んでいるつもりでいます。
Chinaの文化、Koreaの文化、欧米の文化、東亜諸国の文化、南米や中米の文化、アフリカの文化、中東の文化等々、そこに学ぶべきもの、良いものがあれば、柔軟にどんどん採り入れていく。学ばせていただく。
そういう寛容さが、国を発展させるし、文化をさらに深いものにしていくのだと思います。
実際、兼輔の時代には、天平文化が国風化していき、そのひ孫の紫式部の時代には、いわゆる国風文化が花開く時代を迎えています。
やみくもに渡来系文化ばかりをありがたがることは、決して良いことではありません。
取捨選択しながら、良いものはどんどん採り入れていく、その寛容さが、自国の文化をさらに深いものにしていくのです。
中納言兼輔の歌を、ただの恋の歌だとばかり、そこに拘泥してしまっては、この歌の本当の深さはわかりません。
そして和歌は、本当に深い世界を私達に教えてくれるものだと思います。


お読みいただき、ありがとうございました。

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