-9・17 「 日朝共同宣言 」とは何だったのか?-
Aml・PmnーML・Paresutina foram-MLにマルチポスト <文責・長船青治>
( 参考資料-その2- )
日本占領下の海南島における朝鮮人虐殺
―アジア民衆共同の東アジア近現代史認識をめざしてー
佐藤正人
はじめに
東アジアではじめて国民国家を形成したのは、日本であった。国民国家日本は、19世紀後半以後の他地域・他国侵略の課程で形成された。
1860年代末から、アイヌモシリ、ウルマネシア、台湾、朝鮮侵略の過程で、日本の政治権力者たちは、天皇ムツヒトを「神」として天皇制を強化し、民衆支配と侵略の政治的・経済的・社会的・文化的構造をつくっていった。
21世紀に入ったいまも、日本の他地域・他国侵略の歴史は終っておらず、北方のアイヌモシリと南方のウルマネシアにたいする植民地支配が続けられている。
日本の独島再占領策動および「北方領土返還」策動は、領土を拡大し国境線(および経済水域)を押し広げようとする日本の現在の他地域・他国侵略策動の一環である。
日本が「北海道」としているアイヌモシリは、アイヌ民族やウイルタ民族ら北方諸民族の大地であって、日本の領土ではない。
日本が「沖縄県」としているウルマネシアは、琉球民族の大地であって、日本の領土ではない。
1945年8月に、日本はアジア太平洋戦争に敗北し、天皇ヒロヒトは自分は人間だと宣言しつつ、天皇でありつづけた。
1950~1953年の朝鮮戦争時に、日本は、朝鮮民衆の大きな犠牲を土台にして、経済構造を再編・強化し、軍事力を増強した。
1960年代以後、日本は、かつて「大東亜共栄圏」としていた地理的範囲(北方のアイヌモシリから南方のパプアまで)をも越えて、全地球的規模で経済侵略をおこなってきた。
1990年代から、日本国民を侵略に統合する日本ナショナリズムが強化され、日本政府は、天皇賛歌を国家に、侵略の旗「ヒノマル」を国旗とし、日本の他地域・他国侵略・植民地化の歴史を肯定する書物を「教科書」とすることを承認した。
国民国家日本が台湾や朝鮮を植民地としていた時代、日本国民は、台湾や朝鮮を日本の領土としていることを当然のこととしていた。そのような歴史認識は、アジア民衆の歴史認識と対立するものである。
いま東アジアの歴史教科書はそれぞれの国家の枠組みの中で作られている。だが、いつかは各国の歴史教科書の記述は統一されなければならないだろう。歴史的事実はひとつなのだし、民衆の歴史意識(民衆の歴史観)は共有されなければならないのだから。
以下で、アジア民衆共同の東アジア近現代史認識をめざして、日本支配化の海南島における日本政府・軍の圧制、それにたいする民衆のたたかい、とくに「朝鮮村」における朝鮮人虐殺の事実を解明する。
(1)日本の「南方」侵略基地、海南島
1939年1月17日に、天皇ヒロヒトと日本政府の大臣らは、海南島を軍事侵略することを最終決定した。この決定にしたがって、2月10日未明、日本軍は、海南島侵略作戦を開始し、残虐な行為をくりかえし、数週間で海南島の沿岸地域を占領した。
民衆が平和に暮らしていた海南島に、「ヒノマル」を掲げて突然侵入してきた日本軍は、人を殺し、村を焼き、コメ・水牛・鶏・椰子……を奪って食べた。
日本軍は、海南島占領目的を「建設新中国復興大東亜」、「建設反共親日之楽土」などと宣伝した。当時、日本民衆のほとんどが侵略地域の拡大を支持した。
日本の海南島占領目的は、「南方」侵略のための基地建設と資源略奪であった。そのため、日本政府と日本軍は、日本企業を海南島に呼び入れ、飛行場、港湾、道路、鉄道などを整備・新設し、鉱山開発、電源開発などをおこなった。
海南島は、日本の「南方」侵略の基地とされた。
1941年7月28日にベトナムとカンボジアへの侵入を開始した日本軍は、海南島三亜港から出発していた。
1941年12月1日、ヒロヒトらは、アメリカ合州国、イギリス、オランダと戦争することを最終決定した。その3日後、12月4日に、日本の軍艦が海南島三亜から出港した。12月8日午前0時過ぎ、その軍艦が、マラヤのコタバルを奇襲砲撃し、日本軍上陸作戦を開始した(その3時間後、日本軍機がパールハーバーを爆撃)。
日本政府と日本軍は、侵略の資金を作るために、海南島でも「軍票」を乱発しただけでなく、アヘン生産を試みた。
日本政府と日本軍は、海南島民衆の土地を奪って、日本人を海南島に侵入させる策動も進めた。
日本政府と日本軍は、石原産業に田独の鉄鉱石を、日本窒素に石碌の鉄鉱石を大規模に略奪させようとした。そのために、海南島の住民だけでなく、中国南部の広州、汕頭、潮州などや香港の民衆、台湾や朝鮮の民衆、マラヤやシンガポールなどで「捕虜」とした英国軍兵士やオーストラリア軍兵士などを強制労働させ、多くの人びとの命を奪った。
海南警備府が1942年11月ニ作製した『石碌鉄山開発状況調査書』には、
「開発開始以来十一月始迄に死亡せる者職員三十一名人夫実に4076名を算するの惨状を呈し……」
と書かれている。
日本軍は、台湾拓殖株式会社などをつかって、日本人女性だけでなく、海南島の少女や朝鮮・台湾などから連行した女性を日本軍隊性奴隷とした。日本軍政機関は、住民に「良民証」をもたせて管理し、日本語や「ヒノマル」・「キミガヨ」をおしつけた。
日本軍は、抗日軍の兵站を破壊しようとして、海南島内各地の村落を襲撃し、住民虐殺と略奪をくりかえした。
日本の占領に抗して、海南島の民衆は持久的に戦った。日本は、海南島全域を占領することはできなかった。
(2)、海南島「朝鮮村」虐殺
海南島三亜市郊外の?枝溝鎮南丁に、「朝鮮村」と呼ばれている地域がある。
そこは、森林地帯だったが、1945年、アジア太平洋戦争末期に、多くの朝鮮人が強制連行され、収容所がつくられた。
その朝鮮人は、道路建設、トンネル建設、軍事施設建設などをやらされた。そして、日本の敗戦前後、そのうちの多くの人が殺され、「朝鮮村」の丘に埋められた。生きたまま焼き殺された人もいた。
「朝鮮村」で朝鮮人を虐殺したのは日本軍兵士たちであった。その後、虐殺者たちは、1946年4月までに、日本に戻った。かれらは、その事実を隠し続けた。
日本の敗戦後、その地域に近隣から黎族の人びとが移り住み、農業をするようになった。人びとは、そこを「朝鮮村」と名づけた。そこに朝鮮人の収容所があり、そこに朝鮮人が埋められているからである。
「朝鮮村」における朝鮮人虐殺の事実は、当然であるが、南丁やその近隣の住民は知っていた。1960年代から、三亜市の学校生徒が日本軍の犯罪史を知るために「朝鮮村」を訪れるようになった。1990年代になってから、三亜市政治協商会議文史資料委員会発行の『三亜文史』に、その事実が記述されはじめた。
孫恵公「接見日本“和平の船”訪華団講話」、『三亜文史』3、1991年10月。
羊杰臣「日軍侵略崖県始末」、『三亜文史』4、1992年12月。
羊杰臣「日軍侵占崖県及其暴行紀実」、海南省政協文史資料委員会編『海南文史資料』6、1993年1月。
陳作平「日本侵略者在崖県的罪行」、『三亜文史』5、1995年8月。
1998年3月2日付けの『朝鮮日報』に、朴雅蘭記者の「中国ハイナン島で韓国人虐殺 1945年」という記事が掲載された。これが韓国で始めて発表された「朝鮮村」虐殺にかんする文章である。朴雅蘭記者は、この記事を、1995年8月付けで発行された海南省政協文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨―日軍侵瓊暴行実録』(海南出版社)の記述に基づいて書いている。『鉄蹄下的腥風血雨』には、『三亜文史』に掲載された孫恵公や羊杰臣の「朝鮮村」虐殺にかんする文章が収録されていた。
その後、韓国KBS取材班(監督金五重)が、同年7月に海南島で、8月に日本で取材し、「朝鮮村」虐殺にかんするドキュメンタリー『海南島に埋められた朝鮮の魂』を制作し、8月31日に韓国で放映した。
日本に住むわたしが、「朝鮮村」虐殺についてはじめて知ったのは、1997年末、章伯峰・庄建平主編『侵華日軍暴行日誌』(四川大学出版社、1997年6月)によってであった。同書の海南島1945年の部分に『鉄蹄下的腥風血雨』の「朝鮮村」虐殺にかんする記述が転載されていた。
1998年6月に、わたしは、紀州鉱山の真実を明らかにする会の仲間と「朝鮮村」に行き、「朝鮮村」に住む人びとから、当時のことを聞かせていただいた。
紀州鉱山の真実を明らかにする会「海南島 1998年夏―田独万人坑・石碌万人坑・八所万人坑・朝鮮村」、『パトローネ』35号、1998年10月。
その後、わたしは、日本で調査をすすめるとともに、2000年3月と、2001年1月に、紀州鉱山の真実を明らかにする会のなかまとともに「朝鮮村」を訪れた。
紀州鉱山の真実を明らかにする会(金靜美、佐藤正人、斎藤日出治)「海南島 2000年春―朝鮮村・后石村・大坡村・羊角嶺水晶鉱山―」、『パトローネ』42号、2000年7月。
紀州鉱山の真実を明らかにする会(金静美、佐藤正人)「海南島 2001年1月―海南島駐屯日本海軍第16警備隊に虐殺された朝鮮人の遺骨が「発掘」された―」、『パトローネ』45号、2001年4月。
2000年1月8日付けで、三亜市?枝溝鎮人民政府は、朝鮮人が埋められている場所にかんして「千人坑簡介」と題する文章を発表した。
そこには、
「1942年、日本侵略者は朝鮮及び各地から1250人あまりの無辜の青年(その100分の80が、朝鮮人)を無理やりに連れてき、道路を作らせ、燃料を運搬させ、殴打し、飢えさせ、全員を苦しめ、死亡させ、10人あるいは100人ごとにひとつの穴に入れて荒れ地に集中的に埋めた」
と書かれている(1942年というのは誤りである)。
(3)、「朝鮮村」に埋められているのは誰か?
「朝鮮村」に強制連行され、強制労働させられ、虐殺」されたのは、「海南島派遣報国隊」(「朝鮮報国隊」)の「隊員」として、朝鮮各地の刑務所(京城刑務所、西大門刑務所、平壌刑務所、新義州刑務所、鎮南浦刑務所、海州刑務所、大邱刑務所、大田刑務所、清州刑務所、光州刑務所、元山刑務所)から海南島に連行された人たちであった。
「朝鮮報国隊」に入れられて朝鮮から強制連行された人々は、三亜市内、陵水県三才鎮后石村、陵水県英州鎮大坡村、楽東県黄流鎮白極坡などで、飛行場建設をさせられたり、田独鉱山や石碌鉱山で働かされたり、八所で港湾建設労働をさせられた。
アジア太平洋戦争末期、採鉱や飛行場建設が中断されてから、「朝鮮報国隊」の人びとは、南丁に連行された。かれらは、「朝鮮村」周辺で、道路工事、井戸掘り、トンネル掘り、軍用施設建設などをさせられた。
いま、「朝鮮村」に埋められているのは、その人たちである。
だが、その人たちの名は、まだ、ひとりも明らかになっていない。
「朝鮮村」の隣の「中村」の裏山に、砲弾の貯蔵庫と思われるコンクリート製の建造物が残されているが、村人の言によると、この建造物も、朝鮮人によって作られたものであるという。
その建造物の近くに、日本軍はトンネルを作った。これまで、わたしが見たのは3本であるが、その使用目的はまだわかっていない。「中村」で農業を営む符永青氏(1965年生)は、幼いころこのトンネルで遊んだが、この村では、洞窟を掘ったのは朝鮮人だということは、昔からみんなが知っていることだと証言した。
「朝鮮村」に強制連行された「朝鮮報国隊」の名簿をふくむ「朝鮮報国隊」の全体の名簿は、まだ発見されていない。
現在、韓国政府記録保存所に、「海南島派遣報国隊」に入れられて海南島に強制連行された人の「假出獄」にかんする日帝時代の「京城刑務所」の文書(「假出獄関係書類」)の一部が保管されているが、この文書は、「朝鮮報国隊」のうち、帰国できた少数の人の名簿である。
1916年に南丁の黎族の村で生まれ、1945年ころ朝鮮人といっしょに近くの道路建設作業を日本軍に強制されたことのある符亜輪氏は、2000年3月、わたしに、
「朝鮮人は、竹で作ったかごを背負って土を運んだ。少ししか食べるものをもらえないので、力がなかった。運ぶことができなければ、日本人に殴られた。
道路ができたあと、何の理由もなく、朝鮮人をふたりづつ、木に吊るして殴った。死ぬまで殴って、死んだあと、2,3人づつ穴に埋めた。箱に死んだ朝鮮人を入れて。穴に運んで、からの箱を持って戻り、またその箱に朝鮮人を入れて運ぶ。最初は、殺した朝鮮人に石油をかけて焼いたが、あとは石油がなくなって、そのまま埋めた。
朝鮮人はとても多かった。みんな同じ服を着ていた。上着もズボンも青色で、ボタンは白かった。朝鮮人の収容所は、鉄条網で囲まれ、日本人が見張っていた」
と語った。
少年のころ「朝鮮村」の近くで牛追いをしていた周学権氏(1935年生)は、
「1945年ころ、道路工事をさせられているたくさんの朝鮮人を見た。
朝鮮人が木にぶらさげられているのを見て、とても怖かった。近くの裏山で生きたまま焼かれた朝鮮人の声を聞いた。子どものとき聞いたその悲鳴が、いまも聞こえるようだ。
日本人は、朝鮮人の首を切って、村の入り口に置いていた箱に入れた。その箱がいっぱいになると、どこかへ持っていった」
と証言した。
朝鮮人の収容所があった場所のすぐ前に住んでいる蘇亜呑氏は、2001年1月、
「当時30歳。近くの山のふもとに住んでいた。朝鮮人にご飯を食べさせたこともあった。朝鮮人が木にぶらさげられて殴られたり、殺されたりするのを隠れてそっと見た。何度も見た。朝鮮人はほとんどが、からだが弱々しく、空色の服を着ていた」
と、語った。
虐殺を目撃していた村人の証言がなければ、「朝鮮村」虐殺の事実は隠されつづけただろう。
2001年1月12日から、朝鮮人が埋められていると村人が証言する場所の発掘が始められた。この日午後、十数体の遺骨が発掘された。1月13日午後には、遺骨のそばからボタンが出てきた。これは、「朝鮮報国隊」の人たちが着せられていた「制服」のものと思われる。
1月14日午前10時ころ、頭蓋骨に穴があいている遺骨が発掘された。また、べつの場所からは、遺骨といっしょに薬きょうが出てきた。さらにこの日午後4時ころ、遺骨頭部の右側から日本軍の「軍隊手帳」が出てきた。
遺骨は、地表から、30~80センチのところに、①一体づつ横たえられて、あるいは、②穴にまとめて放り込まれるようにして、あるいは、③手足と胴体だけが積み重ねられたと思われる状態で、発見された。
2001年1月の発掘で、村人たちの証言の通り、多くの朝鮮人が残酷な方法で殺害されたことがはっきりした。これまでに、「朝鮮村」から約120体の遺骨が「発掘」されている.
海南島各地の日本軍の施設は、すべて中国人や朝鮮人の強制労働によってつくられた。
三亜市内から石碌鉱山方向に向かって約100キロメートルの地点に黄流があるが、1940年秋、日本軍は、黄流のいくつもの村の水田や畑をつぶして飛行場建設を始め、海南島の民衆といっしょに朝鮮人を働かせた。飛行場建設によって農地を奪われる黄流の民衆は抵抗したが、その人たちを日本軍は虐殺した。
(4)、朝鮮人を虐殺したのは誰か?
「朝鮮村」虐殺の全容は、まだほとんど明らかになっていない。
なぜ、このようなことができたのか! 虐殺したのは誰か? 責任者は?
2000年夏までに、わたしは、日本の防衛研究所図書館で、「朝鮮村」虐殺に直接かかわったと思われる日本兵の名やその上官の名(16警備隊司令能美実)を発見した。また、旧日本海軍戦友会の名簿から「朝鮮村」虐殺の事実を知っていると思われる人びとの名を見つけた。
ほかに、わたしは、日本の矯正図書館で、「朝鮮報国隊」に直接関係した藤間忠顕、諸岡亀吉ら日本人行刑官僚の名を探し出した。
だが、かれらのうち、ある者はすでに死に、生き残っている者は、面会を拒否し、事実を隠し続けようとしている。
これまでのわたしの調査によると、日本の敗戦当時、南丁にいた日本軍部隊(海南海軍第16警備隊南丁進駐隊)の隊長は岡本正信であり、その上司である日本海軍第16警備隊司令官は能美実であった。また、当時の日本海軍の南丁村施設部の担当者は志村治衛武であり、管理者は片岡広二であった。志村と片岡の上司は海南海軍施設部総務科長谷川宏と施設部長逸見尚義であった。かれらのすべては、南丁村での朝鮮人虐殺にかかわっていたと考えられる。
また、「朝鮮報国隊」に入れられて海南島に強制連行された朝鮮人「囚人」を引率・監視して海南島に行った朝鮮総督府の法務官僚や刑務官のなかに、「朝鮮村」虐殺に直接かかわった者もいた。
「朝鮮村」虐殺を実行した元日本軍将兵らは、日本の敗戦後、日本に戻り、家族にも事実を隠したまま、平和に暮らしつづけた。朝鮮人獄中者を海南島に強制連行した日本人刑務官らも沈黙つづけた。
「朝鮮報国隊」に朝鮮総督府の法務官僚として深くかかわった藤間忠顕は、日本にもどって広島高等裁判所の裁判官などになったが、「朝鮮報国隊」にかんして何も語らないで、20年前に死んだ。
おわりに
民衆運動と歴史認識・歴史意識
1998年まで、「朝鮮村」虐殺の事実は、長い間、日本で隠されつづけてきた。
隠されつづけてきた日本人の他地域・他国民衆にたいする歴史的犯罪は、「朝鮮村」虐殺だけではない。日本の軍人、警官、官僚……たちは、「朝鮮村」でおこなったのと同質のことを、アジア太平洋の各地でおこなってきた。国民国家日本は、それらの歴史的犯罪の国家的責任を明確にとらなければならない。日本政府は、事実を調査し、謝罪し、賠償し、責任者を処罰しなければならない。そのためには、まず、それらの犯罪行為のすべてが明らかにされなければならない。
「朝鮮村」虐殺は、なぜ隠されつづけてきたのか。日本人がアジア太平洋の各地でおこなった侵略犯罪は、なぜ隠されつづけてきたのか。アジア太平洋各地で虐殺や略奪をおこなった日本軍兵士たちのほとんどは、日本に戻ったあと、親にも妻にも子どもにも孫にも告白することなく、平和に暮らした。そしてかれらの多くは、犯罪を隠したまま、犯罪の責任をいっさいとらないで死んだ。国民国家日本の戦争犯罪の最大の責任者天皇ヒロヒトも、犯罪の責任をいっさいとらないで、1989年に死んだ。
なぜ、そのようなことが許されてきたのか。それは、アジア太平洋戦争後に、日本民衆が、民衆として侵略責任(植民地支配責任・戦争責任・戦後責任)をしっかりとろうとしてこなかったからである。
1999年に、国民国家日本は、侵略のシンボル「ヒノマル」を日本国旗とし、天皇賛歌「キミガヨ」を国歌とし、他地域・他国軍事侵略を準備する法律(「周辺事態法」)を施行した。21世紀始めに、日本政府は、侵略思想と差別意識を子どもたちに植えつけ、日本国家主義を煽動する書物を教科書として検定合格させた。
この教科書は、実際にはほとんどの学校で採用されなかったが、問題の根は解決されていない。
日本民衆は、日本の他地域・他国侵略の歴史的事実を徹底的に追求し、学ばなければならない。
日本の歴史教科書は、生徒が、国民国家日本の他地域・他国侵略の歴史的動機・原因を考えうるテキストでなければならない。そのようなテキストが、日本でつくられ、実際に授業で広く使われていくためには、日本民衆の歴史意識を変革していく民衆運動を、さらに強めていかなくてはならない。
参考文献
◇中国抗日戦争史学会・中国人民抗日戦争紀念館編『少数民族与抗日戦争』北京出版社、1997年。
◇程昭星・?詒孔著、中共海南省委党史研究室編『黎族人民闘争史』民族出版社、1999年。
◇中国人民政治協商会議海南省陵水黎族自治県文史学習委員会編『日軍侵陵暴行実録』(『陵水文史』第7輯)、1995年。
◇金靜美「侵略の共同体と抵抗の共同体」、『ホルモン文化』8、新幹社、1998年。
◇金靜美「日本占領下の海南島における強制労働――強制連行・強制労働の歴史の総体的把握のために――」①・②、『戦争責任研究』27・28、日本の戦争責任資料センター、2000年3月・6月。および朴慶植先生追悼論文集『近現代韓日関係? 在日同胞』??大学校出版部、1999年8月。
◇金靜美「海南島??????‘朝鮮村‘?‘朝鮮報国隊‘????―」(2000年5月24日、ソウルでの第9次国際歴史教科書学術会議第3主題「日本? ???? 過去清算問題」における報告、「日帝期? 強制連行問題? ???」のなかで)、『各国? 歴史教科書??? 過去清算問題』国際教科書研究所、2000年5月。
◇佐藤正人「国民国家日本?領土?「周辺」」前掲朴慶植先生追悼論文集『近現代韓日関係?在日同胞』大学校出版部、1999年8月。
◇『海南省等移管南方軍政関係史料』(日本外務省外交資料館蔵)。
◇『外務省警察史 支那ノ部 在海口総領事館』(日本外務省外交資料館蔵)。
◇機密海南警備府法令第19号「海南島人労務者管理規定」(日本防衛研究所図書館蔵)。
◇『海南警備府戦時日誌』・『海南警備府戦闘詳報』(日本防衛研究所図書館蔵)。
◇「第16警備隊接収目録(第16警備隊南丁進駐隊)」(日本防衛研究所
◇「軍用建築物引渡目録 南丁村施設之部」(日本防衛研究所図書館蔵)。
◇「第二施設事務所引渡目録 南丁村(朝報隊)ノ部」(日本防衛研究所図書館蔵)。
◇「京城刑務所假出獄関係書類」(韓国政府記録保存所蔵)。
◇藤間忠顕「台湾及海南島視察記」、朝鮮総督府法務局行刑課『治刑』1944年。
◇『台湾警察時報』台湾警察協会(台湾中央図書館分館蔵)。
◇『台湾刑務月報』台湾刑務協会(台湾中央図書館分館蔵)。