ちなみに、いま与力も同心も「〜名」と書きましたが、本当は与力は「騎」、同心は「人」と数えます。
ですから、たとえば「与力3騎、同心5人」などと数えたわけです。
要するに与力は、馬に乗れる身分だったということです。
ただ、そうは言っても、大坂町奉行の与力は、江戸の与力と比べると、俸禄はかなり低くて、蔵米30石取りでした。
30石取というのは、今の相場にすると、だいたい年収180万円くらいです。
ただし、官舎を与えられているので住居費がかからないこと、いまの時代のように携帯電話や車のローンの支払、電気代、ガス代(水道代はありました)の支払いはありませんから、実質的な所得はいまの相場で言ったら、年収600万円くらいにあたろうかと思います。
ただし騎馬武者である以上、その年収で、戦のときに同行させる足軽ひとりを常時雇っていなければなりませんし、その他、家人を2名ほど、つまり家族以外に3名を養わなければなりません。
子供の教育費がかかることも、これまた今も昔も同じですから、武士の生活はつましいもので、長屋住まいの一般の町民の方が、よほど贅沢な暮らしをしていたということができます。
ちなみに、その俸禄ですが、すべて米で支給になるのですが、支給されるのは古古米です。
年貢として徴収された新米と去年のお米(古米)は、備蓄食糧として保管されます。
なぜかというと日本は災害の多い国だからです。
万一の災害のときは、その御蔵米を放出して、民を助けます。
ところが江戸期を通じて、年貢の徴収高が変わらなかったのに対し、新田の開発によって江戸中期には人口がおおむね2倍に増加していましたから、現実には2年分の備蓄では非常時の食料が足らず、災害が起きる都度、大名たちは大阪商人から借金を重ねることになりました。
江戸中期から幕末にかけて、ほとんどの大名家が借金まみれになっていのは、それが理由です。
さて、そういうつましい生活をしながらも、大塩平八郎はたいへんな勉強家で、知的な書物の購入などには出費を惜しまず、隠居して家督を養子の格之助ったあともその勉強は絶えることがありませんでした。
そういうときに、全国的な冷夏による凶作によって、大坂町奉行の管轄地域内の民の生活が圧迫されるのです。
武士は民の生活を靖んじるもの、そのための武士であるという日本古来の教えに忠実な大塩平八郎は、隠居の身ながらも、奉行に民の救援を提言します。
ところがこの時期、50年続いた11代将軍徳川家斉の治政が終わり、徳川家慶が第12代将軍に就任しするのです。
家斉の治政というのは、いわゆる化政時代と呼ばれた文化文政期にあたります。
家斉自身も派手好みな将軍であったことから、まさに江戸文化、町民文化が花咲きました。
安藤広重や、歌麿や北斎などの画壇が活躍したのもこの時代ですし、歌舞伎が興隆したのも、この時代です。
まさに江戸時代を代表する町民文化が花開いた時代であったわけですが、ところが本来徳川政権というのは、農本政権です。
その農本政権が、貨幣経済重視に走ったわけですから、国民の大多数を占める農家はたいへんに疲弊しました。
どういうことかというと、貨幣経済は、一産業より、二次産業、三次産業を発展させます。
農本主義のもとでは、農家も、武家も、農作物が育った分しか収入がありませんが、町民たちは生産さえた農作物を右から左に動かすだけで、大金が転がり込んでくるわけです。
もうすこしわかりやすく言うと、商業というのは、できるだけ安く仕入れて、できるだけ高く売るとその差益が利益になります。
つまり商業重視の経済のもとでは、生産者は常に買い叩かれる立場になるわけです。
このことは神話にもその物語があって、大国主は、大いなる商業国家を誕生させるのですが、それだと一部の人達は贅沢三昧な暮らしができる一方で、多くの一次産業に従事する庶民は生活を圧迫させられるのです。
このことを憂慮した高天原は、建御雷神を遣わして大国主神に国譲りを迫り、その後、生産や技術を身近に大切にするという御神名を持つ迩々芸命(ににぎのみこと)を中つ国に派遣し、これが我が国のもととなったというのが、日本神話です。
要するに商業主義のもとでは、生産者は常に買い叩かれる。
ところが最も多くの人手を要するのは、その生産者であるわけです。
しかも人は食べなければ生きていくことができない。
そうであれば、生産者を大切にすることを国是としていかなければ、結果として生産者が疲弊し、減少し、食糧生産高が激減して、町民たちまで飢えに苦しむようになってしまうのです。
まして、江戸時代は鎖国時代です。
赤道を越えて食料を運んでくるような冷蔵船の設備もまだない時代です。
自国の食は、自国内の生産でまかなわなければならないのです。
このような時代背景の中で、天譴(てんけん=神様の怒り)というのでしょうか。
文政4(1821)年3月に蔵王山が大噴火を起こし、その噴煙が全国を覆って冷夏を招きます。
農作物が大凶作に見舞われるのです。
さらに文政7(1824)年には、大洪水。
文政8年には大凶作。
文政9年には東北地方を中心に大飢饉が起こり、約20万人が餓死するという事態まで起こります。
文政13(1830)年には、再び蔵王山が大噴火を起こす。
このときには、噴煙が日本中の空を覆い、貨幣経済によって疲弊した農村部は、肝心の農作物そのものが採れなくなり、全国が大飢饉となりました。
そして時代は文政から天保年間へと変わるのですが、天保4年から5年にかけてと、天保7年から8年夏にかけて、今度は冷夏による大凶作が日本中を襲います。
このときには、大都市部でも餓死者が出るほどの世の中となってしまいました。
大坂町奉行所では、天保4〜5年の飢饉のときには、大阪西町奉行が大塩平八郎を非常時対策の顧問として厚遇し、大塩平八郎の意見を取り入れてお蔵米を供出し、炊き出しまでして大坂市民の飢饉を救いました。
しかし天保7年の飢饉のときには、大塩平八郎はすでに隠居しています。
大坂の東町奉行も、幕府から派遣された、水野忠邦の実弟の跡部良弼(あとべよしすけ)になっていました。
その跡部良弼が就任中に、将軍の交代と飢饉という二つの出来事が同時に起きたわけです。
跡部にしてみれば、飢えに苦しむ大坂の民衆よりも、一日も早く、そんな大坂を離れて、中央政界に復帰したい。
跡部は天保7年に東町奉行に就任するのですが、大坂市中や近在の米の値段が暴騰するのをしり目に、将軍交代の準備米という名目で、せっせと米を買付けて、江戸に賄賂にして、米を送り届けていました。
これに江戸の幕府の重臣たちは大喜びしました。
なにせ凶作で米がないのです。
そこに大坂から大量の米が送られて来る。
「なるほど、跡部はよくやっている」
てなことになるわけです。
大坂の米商人たちにとっても、跡部の行動はありがたいものです。
凶作でなかなか米が手に入らないから、米価は高騰します。
ところがいくら高値になっても、言い値で奉行所が米を買い取ってくれるのです。
つまり大坂商人たちは、米さえ集めてくれば、必ず大儲けができる。
江戸の幕府も喜び、大坂の商人たちも喜ぶ。
これで天下晴れて万々歳となるなら、跡部奉行の行動は、とても良いことです。
しかし世の中は、富も食い物も、一つのパイの奪い合いです。
一部の人たちが富を独占すれば、他の多くの人たちが、たいへんなことになる。
ただでさえ続く凶作で米が不足しているのです。
そんななかで、米の大量買付が行われればどうなるか。
市中に出回る米が不足し、値段は吊り上がる。
一般の町民たちは、飢えてシネといわんばかりの状態に陥ってしまいます。
大塩平八郎は、民のためにこそ武士はあるという哲学を生涯実践した人です。
これを陽明学といいます。
いまでこそ隠居の身ではあるものの、元をたどせば、大阪町奉行所目付役筆頭与力、地方役与力筆頭、盗賊役筆頭与力・唐物取締役筆頭与力・諸御用調役という経歴の持ち主です。
そしてそのすべてが、大塩平八郎の誠実な生き方によってもたらされたものです。
隠居して現役を引退したあとも、平八郎は市中で陽明学を教える私塾を経営していました。
生徒たちからもたいへんに慕われていました。
実績もある。
家柄も正しい。
人柄はまじめ一筋。
時にカタスギルきらいはあるけれど、その誠実さは誰もが認める人格者です。
そしてその人格者の前に、飢えた両親のもとから通って来る、お腹を空かせたかわいい生徒達がいます。
陽明学は、知行合一を説く学問です。
大塩平八郎は、天保4年の飢饉を救った経験をもとに、天保8年の飢饉について、具体的「飢饉救済策」を起案し、それを何度も町奉行である跡部に献言しました。
ところが跡部の関心は、中央への復帰です。
まさにいまこそ大量の米を江戸に送り、新将軍のもとで新たなポストをと虎視眈々と狙って運動しているわけです。
欲が絡んでいます。
大坂の田舎与力の、しかも隠居した平八郎の意見書など、まるで聞く耳を持ちません。
ついには大塩平八郎は、
「与力の隠居ふぜいが
身分をわきまえないで
事をしつこく言うのなら、
お前を牢屋にぶち込むぞ」
とまで言われてしまいます。
やむなく大塩平八郎は、自分の家にあった代々の蔵書五万冊を全て売却して、民衆の救済資金に充てたりしています。
江戸時代、多くの立派な武士がいたなかで、跡部のような自己中型の人がいたという事実は、たいへんにかなしいことです。
しかしその跡部良弼は、大塩平八郎の乱という大乱をひき起こしながらも、その後、順調に出世します。
そして最後は若年寄にまで出世して、70歳の天寿をまっとうしています。
人の世の矛盾といってしまえばそれまでですが、ただ唯一の救いは、さすがの若年寄(いまで言ったら、大会社の常務取締役くらいのポスト)職も、器量にあわないことがたちまちバレてわずか7日で免職になっていることかもしれません。
こうした話は、身につまされる方もおいでかもしれません。
組織の中にあって、自らの分をわきまえ、たとえば営業部や製造部に所属していれば、現場第一、営業ならお客様第一、製造部なら職務の製造第一で、普段から頭の中は仕事そのものに8割9割が占領され、とにもかくにも現場仕事に誠実に取り組む。
ところが、本社スタッフの多くは、現場よりも、自分の権力と出世欲にしか興味がありません。
頭の中は、そのための社内の人間関係や上司との関係だけが占めています。
現場のことや仕事のことには、1〜2割くらいしか関心がない。
その分、出世もするし人間関係も上手です。
そもそもそういことが仕事だと思っているのです。
実際に現場仕事となると、からきしダメで使い物にならない。
そういう上手に立ち回る人が若くして支店長に抜擢されて現場に出ると、たいていその支店の業績は悪化の一途をたどります。
どこの会社組織でも、よくあることです。
さて、大塩平八郎の建言書あっても江戸送りの米の買付を止めない跡部奉行のおかげで、その年の大坂の米価は、なんと6〜7倍にも跳ね上がってしまいました。
いまなら、お米はだいたい5kgが2〜3千円で買えますが、これが同じ5kgが2〜3ヶ月で2万円に跳ね上がったようなものです。
庶民の生活がいかに圧迫されるか。
道端で物乞いをしても、この飢饉では物を恵んでくれる人もなく、餓死する人は大阪で一冬で5千人に達したといいます。
それでも市民たちは、必死にその日その日の食料を得るために、五合・一升というわずかな米を、どこからかやっとの思いで手に入れるのですが、それは闇米だ、規則違反だ、と目明かしや岡っ引きたちが、没収してしまうのです。
そういえば終戦直後にも、同じようなことが全国でありました。
このときには、配給米だけで生活をした裁判官が餓死するという事件が起きています。
ちなみにウチのご先祖も人が良くて、平八郎と同じ時代に知行地のお百姓さんと同じだけのお米しか採らないと決めて、自らそれを実践して餓死しています。
半世紀も前に死んだ婆さんからは、子供の頃「だから学問も大切だけれど、地べたを這いずり回ってでも生き抜く知恵の方がもっと大切なのだ」と教えられました。
でも結局血は争えないもので、死んだ親父も人が良くて、自分の命よりも知性を大切にして死んでいます。
さて話を戻して大塩平八郎です。
飢饉は全国に拡大し、このため山梨では甲斐一国騒動、愛知では三河加茂一揆など、全国各地で大規模な一揆や打ち壊しの騒動がひき起こされました。
しかし農村地帯で起こる一揆と、大坂のような大都市で起きる一揆では、その災害規模は桁違いです。
大坂の町は、たちまち火の海になりかねない。
大塩平八郎は、
「このままでは大坂でも一揆や騒動が起こる」
と、重ねて跡部奉行に訴えました。
けれどやはり跡部は耳を傾けません。
大塩平八郎の言うことが理解できないのです。
そりゃそうです。跡部奉行が会う町人は、大坂の豪商たちです。
みんなお金にも生活にも余裕がある。
豪商たちにとっては、跡部は言い値の高値で米を買い取ってくれる良い商売相手です。
まさに儲けを運んできてくれる神様みたいな存在です。
「お前たち、隠居した前の与力の大塩から
民の窮状を訴える訴状が届いておるが、
実際の所どうなのだ」
と奉行所の与力や同心たちに問うても、部下は上役の前でなかなか本音は言わないものです。
そこで日頃付き合いがあり、年中跡部のもとへ挨拶にやってくる豪商たちに様子を問うと、彼らはいわゆる大金持ちですし、儲けることにしか関心がありませんから、民の窮状など、跡部の耳にまったく入れません。
つまり、実際に苦しい生活の塾生たちを見ている大塩平八郎と、大金持ちの豪商たちとつるんでいる跡部奉行とでは、同じ飢饉でも、見えている現実の姿が180度違うのです。
奉行所頼みにならず、と見た大塩平八郎は、翌天保8年(1837年)の正月、有名な『檄文』を作成します。
この時代の、これがまたおもしろいところですが、こうした文書が、あっという間に版画の手法で筆字のまま印刷され、一定の流通ルートに乗って、大量にバラまかれたりしたのが江戸時代です。
とりわけ大阪は、全国の物流の中心地です。
すべての作物や原材料は、大阪にいったん集められ、それを二次加工する業者は大阪でその原材料を買い付け、加工して出来上がった製品は、再び大阪に持ち込んで、そこから全国へと商品が出荷されていきました。
つまり江戸時代の経済のお金も物も、すべて大阪を中心に行われていたのです。
ですから大阪で生まれた情報は、またたくまに全国に広がりました。
また、全国で生産されたお米も、いったん大阪に集められ、そこから全国に出荷されていきました。
そうした時代背景の上で、次の檄文です。
いつものように、ねず式で現代語訳してみます。
==========
大塩平八郎・檄文(口語訳)
天から下された村々の貧しき農民にまで、この檄文を贈る。
天下の民が生前に困窮するようではその国は滅びる。
政治に当る器でない小人どもに国を治めさせば災害が並び起る。
このことは昔の聖人が深く天下後世の君臣に教戒したことである。
(中略)
この頃米価はますます値上がりしている。
大坂の奉行・諸役人は庶民に対するいつくしみを忘れ、勝手な政治をしている。
その上わがままな命令を何度も出し、市内の悪徳高利貸しや大商人だけを大切にしている。
私たちは、もう堪忍袋の緒が切れた。
天下のため、罪が一族縁者におよぶ事もかえりみず、有志と相談し、庶民を苦しめている諸役人を攻め討ち、おごりたかぶる悪徳町人や金持ちを成敗する。
生活に困っている者は、大坂で騒動が起こったと聞いたなら、いくら遠くても、一刻もはやく大坂へ駆けつけてくれ。
その者たちの貯えていた金銀や隠しておいた米を皆に配分する。
(以下略)
===========
大塩平八郎は、2月18日に、書き溜めた数々の書類を木箱にいれ、直接幕府に届くよう江戸向けの飛脚に託すと、翌2月19日朝8時に、大阪の町で決起しました。
この乱は、裏切り者の事前の密告によって、決起の日時から、その計画の詳細まで、事前に奉行所に洩れていました。
奉行所では、奉行所の手勢に加えて、大坂に屋敷を置く諸藩にまで呼びかけて、平八郎たちの決起と同時にこれを鎮圧すべく、待ち構えました。
当然、奉行の跡部良弼も、馬上で手勢を率いて、事件現場に待機しました。
決起と同時に、事が露見したことを知った大塩平八郎は、やむなく大砲をぶっ放すのですが、この音に驚いた跡部は、びっくりして落馬してしまうという情けない姿を晒しています。
奉行が落馬して乱れた奉行所の手勢に、大塩平八郎らは果敢に斬り込みを行い、激しく戦いました。
飢えに苦しむ大阪の町民が、これに乗じて各地で暴動を起こし、結果、大坂の町の5分の1が破壊されるという大惨事となりました。
けれど乱は鎮圧され、大塩平八郎は、乱の約一ヶ月後、市中に潜伏しているところを発見され、役人に囲まれる中、養子の格之助と共に短刀で自害し、火薬で自らの五体を爆破して散っています。
享年45歳でした。
しかし、大塩平八郎の純真な思いは、その『檄文』によって全国にひろがりました。
文に刺激された国学者・生田万(いくたよろず)が、遠く越後(新潟)・柏崎で決起し、また大塩門弟と名乗る人物が摂津・能勢で兵を挙げたりといった事件が各地で起きるようになります。
幕府にとっては、大塩平八郎は、たいへんな反逆人です。
ですから事件後、必死になってあることないこと平八郎の悪い噂を流し続けました。
けれど大坂市中の町民も、農民も、そのような中傷はガンと跳ね除け、
「自分たちのために自身を犠牲にしてくれた大恩人」
という気持ちを強く持ち、平八郎の『檄文』をひそかに隠し持って、永く手習いの手本にしたと言います。
そして「檄文」を通じた平八郎の心は、吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、河井継之助、佐久間象山らに受け継がれ、その炎は、明治維新へと受け継がれていくのです。
日本社会は、古来、天皇のもとに君臣が一体となって、民のしあわせこそ国の幸せとしてきた国です。
けれど、やはりその時代時代で、権力を嵩にきて自己の利を貪り、民の幸せよりも自己の都合や自身の栄達を優先する馬鹿者が、世の中にいました。
もちろん今の世の中にもいます。
なるほど大塩平八郎は自害しましたし、一時的には跡部が良い思いをしました。
しかし八百万の神々のお計らいというのは、到底人智には計り知れないものがあります。
長い目でみれば、跡部どころが、そういう馬鹿者を政権中枢に入れた間違いが、結果として幕府そのものを滅ぼし、明治新政府の登場となっているのです。
人の死というものには、2つあります。
肉体の死と、精神の死です。
精神の死というは、人々から忘れ去られる死です。
大塩平八郎の肉体は滅びました。
けれど大塩平八郎の精神は、多くの人々に受け継がれ、幕末の一大政権交代劇へと発展しました。
つまり彼の精神は「生きて国を動かした」のです。
肉体の生死のみが生死ではない。
精神は生死こそが大事なのだという、これが日本人の生き方です。
慰安婦問題や、竹島、尖閣問題等、周辺国からの圧力が気になりますが、最大の敵は本能寺にあり。
日本国内に巣食う自己中の売国屋たちを、一日もはやく駆逐できる世の中にしたいものです。
戦いは、すでにはじまっています。
そしていま、戦おうと立ち上がっている人たちは、みんな個人の利益のためでなく、国想う心から立ち上がっています。
古来、それを「志士」といいます。
いま、これをお読みの皆様は、まさに「志士」です。
お読みいただき、ありがとうございました。

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「靖んじる」といえば勿論靖国神社ですよね。国をしずかにやさしく治めるという意味がある事を知り、正直感動いたしました。
よければ今度は靖国神社の名前の由来について教えていただけたらと思います^^
>>ですから機構を二つ用意して、相互監視させていたのです。
外務省に対して日本が独自の判断で行動できる国体にするために内閣直属のタスクフォースが必要ですね。余命様が提案されている日本人の弁護士会ですね。マスコミはやらせの方の裁判を取り上げプロパガンダするのでしょうが、ネット情報で訴訟に至った経緯、目的を日本人が知ることになる。その意味で保守系ネットの遮断はマスコミの被占拠よりも日本精神の存続の危機です。
財務省その他お役人様は総理を通り越して構造協議に忠実で日本の国益は二の次なのでしょう。支那は田中上奏文を広めたが実際はそれは一帯一路政策、太平洋を二分しようと持ちかけたのは主席でした。
読んでいて河南大飢饉の頃の大躍進で農村が飢えているのに食料を輸出し続けた周恩来を思い起こしました。自分の首を括るロープを売ってしまう経団連(どこかのブログ)に対しては私は非力ですが自分のできる正しいと思うことを独善に陥らぬようにこちら様や色々なブログで情報収集して軌道修正しつつやっていきたいと思います。
とお書きになっておられますが、
ここは「肉体の死」でなければ意味が通じません。
私の読み方が浅いのでしょうか?