女性と男性の非対称性は当たり前のように社会的なコードとして埋め込まれていて、そのコードが転覆されないのって、社会の構成員のうちで暗黙の了解があるからなんだよね。
例えば、女性清掃員は男性便所に入ってもいいがその逆は(少なくとも現代においては)あり得ない。あり得てもいいはずなのだが、現実的にそんな日が来そうにもないのは、「男性は性的欲求が女性より強く危険だから」という経験則から導かれた、漠然とした了解が男女問わず大多数の人間の内にあるから。
同じように男女専用車両を男性が大きく問題視しないのも、多くの人間が無理なく、痴漢犯罪の加害者の大半が男性という統計的な現実を「男性は性欲を抑えきれない傾向がある」という感覚に結びつけられるからだろう。
第三世界の人間を搾取しているという現実を見ないようにして我々が日常をお気楽に過ごせるように、実はこのような見えにくい本質主義的な差別(「男は◯◯、女は▲▲、だから男はXすべきで、女はYすべきだ」といったような)で社会はそれなりに円滑に回っているように見える。
よくよく立ち止まって考えてみると問題含みなのだけれど、「特に不便を感じないし、そういうものだし、それでいいいか」でやんごとなく済んでいる。少なくとも大多数にとっては。ビクトリア女王は19世紀に「神は男女を違うように作ったのだから、彼らはそれぞれの立場にとどまるべきだ」と述べたそうだが、神を「自然」に変えたら、今でもほとんどの人が同意しちゃうんじゃないかな。
でも、中には不便を感じる人もいる。よくよく立ち止まって差別に気づく人もいる。フェミニスト(※1)とオタク(※2)だ。お互い並べられるのは心外だと思うかも知れないが、両者は「寝た子を起こす」という点でとても似ている。
不平等に目ざといフェミニストはいう。「よりによってノーベル賞の解説番組で、舌っ足らずで露出が多い衣装のキズナアイを相槌役に使うのって、ジェンダーロールの固定化、女性性の搾取だよね?」
フェミニストの主張が気に食わないオタクはいう。「ペドフィリア(幼児性愛者)の恋愛感情って、ヘテロセクシャルやLGBTの恋愛感情と何か違うんですか?なんでペドフィリアは保育士になったらダメなんですか?」
『こいつら一体、何と戦ってるんだ…』と思ったのなら、ある意味“正常”だ。社会からは合格点を与えられる。信じられないかも知れないが彼らは年がら年中、こんなことばかり話している。
しかし考えてみると、それぞれの言い分は分からなくもない。例えば、キズナアイ。黒人に置き換えたらまずアウトだろう。もし、映画「南部の唄」に出てくるリーマスおじさんみたいな、いかにも学はなく善良だけが取り柄そうな黒人の二次元キャラクターが、訛りの強い喋り方で白人に啓蒙される役割を演じていたら?「女性は黒人のように差別されていない」だなんて、臆面もなく言えるだろうか?
あるいは、ペドフィリア。一般的には「大人と違って、拒否する力がなく判断力も未熟な子どもがターゲットにされるからダメだ。差別ではない」という。でも、恋愛感情を向ける可能性を有していることと、実際に恋愛感情を表明することと、さらに恋愛感情をもとにした暴力は違うはずで、様々な段階がある。少なくとも個人が自律的な人間であることを前提としている社会で、特定の指向(嗜好でも同様)を持つ属性だけ「理性のタガが外れる潜在的リスク」を想定するのはまちがいなく差別だろう。
むかし金持ちにしか選挙権が与えられなかったように、市民と名のつくプチブル同士のコーヒーハウスでの議論から公共領域が生まれたように、近代社会は「常識をわきまえた一般人」を前提としてきた。ところが、近代主義のお題目を徹底するうちに、この“常識”が勝手な思い込み、あるいは無理のある前提であることがだんだんと明らかになってきた。それが現代だ。
フェミやオタクに気付かされて、「どーでもいいよ、だって俺は差別主義者だし」と居直るしかないのだとしたら、なんて悲しいことなんだろうか。
民間人も自由に短機関銃が持てる国にしよう 憲法改正で短機関銃の携帯自由化をやろう
差別主義者で何が悪いの???
だからそれが悲しいし近代社会の敗北だねっていってんだろうが文盲が
オタクやフェミさんは近代社会にそぐわない、ゴミ。それでOK?
勝ちたいと思っている気持ちが強いほうが勝つ そう第二次世界大戦のように
手塚治虫か誰かが言ってたけど、アメリカは戦時中にダンボ(薬物でラリった人が見た幻覚的映像)の映画を作っていたりして既に戦争で勝つ負けるのレイヤーで思考していない! と...
「やんごとなく」って言葉づかいを間違える糞馬鹿にドヤ顔で語られてもねえw