●「諸田出てこ~い!」
終わったばかりのステージの袖で、女の子が叫んでいる。
あれは、ドラムがPAZZさんに変わって最初のライブだったと思う。 あとになって本人に確かめたが、良く覚えていないと言っていた。
フロントの二人はまだ白塗りだったが、PAZZさんは素顔だった。
オープンしたてのクラブでのライブで、前日にはZOAもステージをやっていた。
いい時代だったな……などといってしまうのは年を取った証拠か?
あのころのライブハウスは楽しかった。
スラッシュメタルのムーブメントが一段落して、生き残るバンドだけが生き残り、生き残ったバンドは、メジャーでもインディーズでも、それなりに好き勝手やっていた。
自分はといえば、バンドらしいバンドをやっていたわけではなかったと思う。
あまり良く覚えていない。
でも、あの声はいまでも耳の奥ではっきりと聞こえる。
師匠(不肖の弟子などというほどのこともないが、あえてそう呼ばせてもらう)との出会いは、音が先だったのか、それともヴィジュアルが先だったのか、いまいちはっきりと覚えていない。
でも、すげ~バンドだという話は聞いていた。
ちょうどバンドなんてものをはじめたばかりだったし、あまり情報のない田舎にいたせいで、ちょっとした雑誌の記事でもすごく興奮していた。
コピーなんてものではなく、とりあえず形から入る。 ギターを弾いている友達は、高崎だったり、エドワード・ヴァン・ヘイレンだったりしていて、うまい奴はたくさんいた。
ベースのヒーローはいなかった。
だって、ジャンケンで負けた奴がドラムとかベースに回るのが普通だったし、それほどかっこいいポジションだってことには、気付かなかったし……。
だけど、白塗りのモヒカン(?)で、フレットレスベースを弾く、きわものベーシストがいたのは確かだったし、間違いなくヒーローに思えた。
一番最初、芝浦インクスティックのステージで自分の目の前に現れたのは、たしかに山海塾の人だった。
初のメジャーでのアルバムが出た直後のライブ。
Art Of Noiseの曲とともにステージに現れた3人は、自分の目の前でおそろしいくらいのパフォーマンスを演じてくれた。
はっきりいって、高校生の時に見たMetallicaの初来日公演よりもすごかった。
その後何度か、同じステージで白塗りの3人組を見ることが出来た。 客もキレていた。
切れたその客は、どこの会場いっても、ステージのまえでもだえくるっていた。
●素顔の3人になってからは何回くらい見たろうか?
新宿のロフトで定期的にやっていた頃。
自分がDOOMを見たのは、たぶん、それが最後。
ちょうどそのころ、自分のバンドも、なんとなくだけど、がんばれていた。でも、ベースに対してはちょっとだけ行き詰まっていた。
ベースマガジンの小さな記事を見つけて、すぐには電話できなかったけど、だいぶ時間が経ってから電話をしてみた。
ちょうど空きがないとか、そんなことを言われたような気がする。
しばらくして、師匠ご本人から電話が直接かかってきた。
滅茶苦茶緊張した。
●目の前に、素顔の師匠がいた。
ステージに比べると、えらくおとなしい。
まあ、そんなもんだろう。
自分も、他人のことはいえない。
レッスンの内容は?
とにかく基本。
師匠の超絶テクニックを伝授……なんてことはない。
別に期待はしてなかった。
弾けるわけない。
メトロノームに合わせて、運指の練習。
楽譜の読み方等々。
1時間なんてあっと言う間にすぎていく。
成果が目に見えて現れるまでには、かなり時間がかかったけど、だいぶ楽に弾けるようになった。
一度だけ、自分のバンドのライブを見に来てくれた。
そのあとは、よけいに基礎のレッスンをさせられた。
あとは何を教えてもらったのか?
レッスンそっちのけで話し込んだこともあったし、レッスンの後も、あれこれ話し込んだり、家まで送ってもらったりしたこともあった。
そういえば、あの申し出については、本気だったのかどうか……?
あれを受けていたら、今頃どうなっていたのか?
●それから1年。
師匠はいつの間にかブレイクスルーしてしまい、自分が知らない人になっていた。
戸惑いと驚き。
高崎線の車中、ジャーマングレーのストラトを片手に歌っていた姿。
留守電のメッセージ。
バイト先への乱入(なぜかPAZZさんもいた)。
その他もろもろ……。
正直なところ、あまり良く覚えてない。
●酒飲み友達とでもいうか、同じ店で良く一緒になっていた“あの”大谷令文さんとかなり酔いの回った状態で、あれこれ話した。
「おまえがなんとかせにゃ……」
ごもっともかな……と思いつつも、何が出来るわけでも自分が歯痒かった。
そんな周りの危惧など関係なかったかのように、師匠は自分の道を突き進んでいた。
ある日、浦和ナルシスに現れるという情報を耳にして出かけた。
今じゃ伝説と化したらしい「ノモ奏法」を編み出したばかりの頃。
ちょっとだけトーンダウンしていたけど、ステージでは別な意味で切れていた。
それが、最後になった。
●ほどなくして、自分自身の音楽活動はひとまずの区切りを迎え、中途半端に夢へと突き進んだ1年がすぎ、かなりボロボロになった2年目、今の仕事に就く。
人伝に聞く師匠の姿は、ブレイクスルーしたまんまみたいで、音信不通はずっと続いていた。
そして、春。
なんとなく思い立って電話をしてみた。
本人は受話器の向こうにいなかった。
出てくれるわけがない。
目の前が真っ白になった。
たった1年、一緒に過ごしただけだったけど、どこかでそんな予感もしていたのは事実で、驚きはしたけど、遅かったか……という気持ちのほうが強くて、なんかとんでもなく大切な事をし忘れていたんだと、そのときになって気付いた。
「諸田出てこ~い!」
と叫ぶつもりはなかったけど、あのときの彼女と気持ちは同じだった。
●どうにか立ち直った頃、令文さんにどやされた。
「俺もこの年でがんばってんだから、おまえもやったれや!」
重い腰を上げた時、自分が手に取っていたのはベースじゃなかった。
まだ形になってないけど、いずれ近いうちに。
約束をしたわけじゃないけど、いつか一緒にやれるときがくるといいなと思っている。
ときどき師匠は夢に出てくる。
一緒にやろうよ、ということはいつも言えずにいる。
テキスト:水上 悠氏
諸田さんのベース教室に通っていたお弟子さんであり、現在は作家として活躍中。ベーシストとして音楽活動も活動中。
歴代パワーブックの分解から組立までを数十分!でできるという(笑)マックのパワーユーザーでもある。というかホンマモンのプロ!
水上さんのホームページはこちら。:silentgarden.com
なお、水上さんの作品にご興味のある方は メールでinfo@silentgarden.comまで。
NOVEL Air(ノベル・エアー誌)1999年6.1号には水上氏の長編作品「silent garden」が掲載されています。この作品は諸田コウ氏に捧げられています。
なお、タイトルに使用した写真はライブハウスの楽屋で出番を待つ諸田さんの姿です。何気なく廣川錠一氏が撮ったこの写 真が、残念ながら諸田さん生前最後の写真となってしまったようです。
大切な写真を貸していただき感謝します。近くフルサイズ画像としてアップする予定です。
著作権は水上 悠氏に属します。無断転載を禁じます。