磯江通信

問われ続ける 寄せ場・監獄・貧困‥‥ 獄中33年

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昔の山谷の話
出会い、個性ある面々、様々な活動……“さそり”へ
                        宇賀神 寿一

 
  突然の訪問者
 36年前に会ったきりの学生時代の友人が救援連絡センターの僕を突然訪ねて来たのは、昨年の秋だった。
 「こんにちは」と言って事務所に入って来たそのオジサンは、はじめ僕には見知らぬオジサンでしかなかった。出所した元受刑者が挨拶に来たものとばかり思っていた。だから、見知らぬ人としての対応をした。そうしたら、「シャコ、君に会わせる顔はないことは分かっている」云々、と言い始めたので、僕は、はぁ?と頭を傾げながら、このオジサン、僕の知り合いだったんかな、と改めてジックリと顔を見たら‥‥。なんと!大学のクラス闘争委員会でヘルメットを被って一緒に闘っていた奴だった。そのオジサン、昔は髪長くしてカッコよかったのだが、月日が経ち適度にオジサンそのものになってしまっていた。しかし、相変わらずの喋り方なので、分かった。
 
 二十歳、荒海への船出
 40年前、三ノ輪の飲み屋で、梅割焼酎を飲みながら、「ぼくは二十歳だった。それが人の一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい」というポール・ニザンの『アデン・アラビア』の一節を十月工房の中山さんから聞かされることになったのも、この友人が僕を山谷への繋がりへとくっ付けた為である。そうでなければ、僕
 
が荒海へ船出をすることもなかっただろう。幸か不幸か、その時の僕は二十歳だった。
 
 「底辺委員会」という
山谷支援の集まり
 1972年「東大赤レンガ」で行われていた底辺委員会という山谷の日雇労働者の闘いを支援する集まりがあった。そこに連れて行かれたのが山谷との関わりの始まりだった。
その会議には、十月工房のNさんと現場闘争委員会の山岡さん、南さん、Cさん、Iちゃんらと各支援グループ、個人がいた。ハッタリの服部さんとカゲで言われていた人もいたっけ‥‥。黒ずくめの黒川芳正は、書記をしていた。彼は毎回、レジメを作成して来ていた。いつもキチキチと纏めて来るので、スゴイ人だなぁと感動したものだ。その感動したのがいけなかったかもしれない、と今にして思ったりする‥‥、かな。
 
 梁山泊の人物伝のような人々
 今思い出して見ると、僕が底辺委員会で出会った人たちは、おもしろい人が多かった。人物列伝を書いたら、それだけで一冊の本が作れるかもしれない。梁山泊に集う物語の人物群みたいかな。特に、山谷や釜ヶ崎の連中はそうだった。
僕が見て確認!したおもしろい人物は、釜ヶ崎だったら、Oさん、デカパン、コーチャンといったところか。まだ他にもいたのだろうが、出会わなくてよかったかもしれない。
デカパンは、その暴力性に眼を見張った。みんなで空手の練習している時に平気で前にいる奴のケツを蹴っ飛ばしてたのを横で見てアゼン。さらに、第一回越冬闘争実行委員会の結成集会で東日労のKさんを殴り飛ばしたのを見て、これまたアゼン。
Oさんは、1972年8月のパレスチナ三戦士追悼京大集会で竹中労に喰ってかかって追い出したのを見て、えらく嫌っているなぁ、と思った。デカパンも、Oさんもとにかくよく怒っていたというのが僕の印象だ。
コーチャンがある時、「デカパンも、Oさんも、ワシも、三人がお互いに、いつかぶっ殺してやると思っとる。」と冗談まじりに言っていた。デカパンも、コーチャンも今はいない。Oさんはどうしているのだろう? Oさんの勝ちかな?
 
 緊張と開放感に満ちた
第一回越冬闘争
 山谷の第一回越冬闘争は、初めてのことであったので、敵、味方ともに、緊張して行われた。私服たちが数人の仲間を奪い去っていった時の攻防戦で越冬闘争の開始となった。私服たちが拉致していった時に、僕も危うく拉致されそうになったが、黒川さんに助けられたっけ。
テント設営後、すぐに医療活動や炊き出しが始まった。越冬闘争を潰す機会を虎視眈々と狙っていた警察との緊張関係が続いていった。僕は防衛行動隊として、人民パトロールやテント防衛などに付いていた。第一回の時には、そうしてオモテの仕事をして頑張っていた。若かったなぁ、アスファルト道路に寝て夜過ごしたものなぁ。今と違って、金網に囲まれた玉姫公園ではなかったので開放感があった。まるでお祭りのような状態だった。何もかもが、初めてのことだった。とにかく、おもしろかった、の一言だった。
 その越冬闘争が終わった後は、底辺委員会の集まりもいつのまにかなくなってしまった。十月工房に時々行く程度になっていった。信濃忍拳の日大での練習にも出かけたりはしていたかな。あまり上達しなかったが。
 
 中身が詰まった
関西、山陰、山陽への旅
 Nさん、黒川さん、Mさん、Jさんらと関西、山陰、山陽方面の旅をしたこともあった。列車に乗っての楽しい旅だった。若い女性が重い荷物を持って困っていると、中山さんが「ほら、なにしているの?助けてあげなさい。困っているじゃないの。ヒッ、ヒ、ヒ」などと、一番若い僕に言いつけてくる。
自分で助けてあげりゃ良いのにと思いながら横を見ると、中山さんはその女性としっかり喋っていた。京都に着いて、路面電車に乗っている時に、黒川さんとMさんが激しく口喧嘩を始めたことがあった。何とか納まったが。ホント、論争が好きなんだから、困ったもんです。
京大熊野寮でコーチャンと会って、そのまま釜ヶ崎へ行ったりした。その旅でS大学に寄って、「S大グループ」の連中に初めて会ったのだった。次に行ったのは、広島だった。広島大学の学生寮に泊まった。そこから朝早く起きて、駅裏の寄せ場へ行った。なんかワリと濃い内容の旅をしたようだった。若い僕には、まだその全てを受け止められなかったんだな、きっと。
 
 『寄せ場反乱は拡大する』
という映画の製作
 旅で出会ったS大グループとは、その後山谷で再会することになった。彼らとは、『寄せ場叛乱は拡大する』という映画を一緒に作っていった。
現闘委の新ちゃんがカメラマン、ゲーリーがナレーションを引き受けてくれた。吹き込みは、明治学院大学の放送研の装置を使ったっけ。
『寄せ場叛乱は拡大する』は、今にして思うと、対権力的には、ヤバいカンジ。その映画では、戦前戦中の中朝人民への鹿島による虐待を糾弾し、そうした鹿島の犯罪性は、今も下層労働者への搾取、虐待へと連綿と続いている。「花岡暴動」についても出して、オトシマエをつけねばならないという内容だった。
 その1年くらい後に、東アジア反日武装戦線〝さそり〟は、鹿島建設への「花岡作戦」攻撃をした。警察が分析すれば、何とか辿れちゃったかもしれない。
 映画『寄せ場叛乱は拡大する』はどこに行っちゃたんだろうか。あれは歴史的な映画だと思う。探し出してくれ〜!
 
 次第に「非公然」活動へ
 その頃からか、寄せ場に出ても、公然化せずに、調査情報収集に重点を置く活動になった。高田馬場の新井技建追放闘争、塩浜収容所闘争のための調査情報収集などもやった。少しずつ、少しずつ、非公然へと進んでいった。
 『魔女狩りについての考察』という黒川さんがまとめた逮捕に備えたパンフレットを釜ヶ崎に運んでくれと頼まれたこともあった。完黙の大切さなんかが書いてあったのだが‥‥。
 そのパンフを運んでしばらくしてから、〝さそり〟が胎動し始めたのだ。そのころには、寄せ場に出ることもなくなっていた。

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