ところが中世頃から、武力を持つ者が自分の政権を築き、あらゆる意思決定を、ひとりで決めるような仕組みが生まれました。
それが権力者の登場です。
権力者は、他の者達全員が「しない」と決めても、権力者の鶴の一声で「する」と決めて行動することが可能です。
こうして生まれたものが、西洋では王であり、東洋では皇帝であったわけです。
この仕組は、軍事にたいへん有利です。
なにしろ、すべてをひとりで決定し、誰とも相談も調整も必要ないのです。
共和政治体が内部でいたずらに会議をしている間に、一方的に軍事侵攻することができます。
しかし軍事に良いからと、他の事柄まで良いことにはなりません。
戦いは勝敗ですが、民生に勝敗はありません。
しかも民生は多岐に渡ります。
一方で、およそひとりの人間の能力だけで民生のすべてを管理掌握などできるはずもありません。
結果として、権力は民生分野で様々な不整合を招き、むしろひとりの王または皇帝によってもたらされた平和によって、その王国は崩壊への道をひた走ることになるのです。
19世紀の市民革命以降、こうした反省から西洋諸国が選んだ道が、国王と市民の代表による合議制の国会運営という、権力と政治を融合させた国家運営です。
国王も選挙によって選ばれ、これに大統領という名前を付けました。
大統領制について、多くの日本人はあまりよくわかっていないようですが、ひらたくいえば、大統領は国家の軍事を司り、民生分野は国会の合議による意思決定での法制度と、これを実行する政府が受け持つという体制ということができます。
いざというときは、大統領の独断でいっきに事を進めることができるけれど、平素は国会や政府が政治を受け持つわけです。
国会議員のことを政治家と呼び、大統領のことは政治家とは呼ばず、あくまで権力者と呼ぶのはそのためです。
ところが、およそ2百年の時を経過して、昨今では、この体制にも大きなひずみがあることが指摘されるようになりました。
それは、大統領にせよ、国会の政治家にせよ、誰一人、責任を取る人がいないということです。
政治も同じです。
政治はみんなで理想を実現しようとしますが、この「みんなで」がくせ者です。
誰が責任者かわからなくなるのです。
したがって誰も責任を取りません。
つまり本来理想を実現しようとする政治が、誰も責任を負う者のない無責任体制に陥ってしまうのです。
みんなの理想に責任がないなら、政治は個々の政治家の利得のためのものになってしまいます。
まれにそうではない誠実さを持った政治家がいたとしても、利得を得た個人に敵わないのです。
結果、政治は無責任政治の愚におちいってしまう。
国家における権力者も政治家も、権力をふるうということは、本来なら同時に責任を伴わなければならないものです。
このことは会社の運営を考えたら簡単にわかることです。
会社の社長は、会社のすべてに関して権力をふるうことができますが、その社長が、会社の経営に口は出すけれど、何の責任も負わないというのでは、会社は潰れてしまいます。
また会社の執行部やそれぞれの部門長が、会社の理想を実現しようと様々な取り組みを図りながら、その結果について何の責任も負わないのでは、やはりその会社の業績は怪しいものとなってしまいます。
大手と呼ばれる企業の多くの経営にひずみ、ゆがみが走る原因が、ここにあります。
すこし脱線しますが、我が国の古参大手企業の多くは、プロパーと呼ばれる新入社員のときからその会社で、いわば純粋培養されてきた社員が、内部で権力闘争を続けることで、定年前に会社の役員となり、またそのなかのひとりが代表取締役となります。
ところが内部の権力闘争の勝利者であるそれら役員たちの多くは、内部での出世競争には興味関心はあるけれど、社の業績についての責任は十分には持ち合わせていません。
結果、会社の持つ長年の信用と資産の食いつぶししかできず、気が付くと会社が左前になってしまっている。
日本企業の多くが、海外での訴訟で敗訴ばかり続けているのも、原因はそこにあります。
敗訴しても誰も背金を取らない。
それによって会社が何千億円もの賠償金を取られることになったとしても、誰一人クビが飛ぶわけでもない。
だから政治に責任を取らせるためにと生まれたのが、共和制政治に政治責任を明確に取らせるための権力者です。
権力はひとりが行使するものです。
ですからその権力者が責任をもって政治家達を率いて理想を実現してくれると信じたのです。
これが王政の始まりです。
ところがその王政も、最高権力者となった王は、責任とは無縁になるのです。
他人の責任はどこまでも追求するけれど、自分では一切の責任を取らない。
結果、これまた無責任体制の愚におちいってしまうわけです。
そこで登場するのが、選挙制民主主義で、選挙によって政治家(議員)や権力者(大統領など)を選ぶという体制です。
けれど、どちらも選出される前までは責任を口にしますが、いったんなってしまったら、誰も責任を取りません。
結果、選挙制民主主義は、無責任政治制度、無責任権力制度におちいるわけです。
本来、ひとりが行使する権力も、みんなで理想を実現する政治も、どちらも責任を伴わなければならないものです。
けれど、権力者が最高権力者であり、政治が合議であれば、誰も責任を取らないし、取る必要さえ感じなくなります。
結果、「責任のない権力」、「責任のない政治」がまかり通るわけです。
日本では、はるか古代に、こうした権力や政治の弊害に気付き、権力や政治の上に、国家最高権威を設けてきたのです。
国家最高権威というのは、いうまでもなく天皇のことです。
天皇は権力者ではなく、また合議のための政治家でもありません。
権力者や政治家よりもはるか上位におわす存在です。
そして天皇という存在があることで、権力者も政治家も、その責任を自覚しなければならなくなります。
天皇は、国家の理想を体現する権威です。
我が国の最高神からの直系のお血筋であり、神に最も近い存在です。
そしてその天皇が国家の最高権威であり、国家最高権威として領土領民を「おほみたから」とします。
権威に責任は必要ありません。
存在そのものが権威だからです。
権力や政治の上に、なぜ権威が必要なのか。
その答えは単純です。
権威は、政治の理想に方向を与え、政治の対立を予防し、権力の暴走を防ぐことができるからです。
まれに社長の上に会長職を置く会社がありますが、そういう会社を考えると、これはわかりやすくなります。
社長は会社の業績について、一切の責任を負います。
しかし、そのための具体的な施策となると、社内に必ず対立が生まれます。
けれど会長がどっちを向いているかによって、その対立が消えていくのです。
ちなみに社長が会長に楯突くようになると、その会社は終わります。
本来なら、楯突いた時点で、社長がクビになるべきなのですが、それができないと、社内には対立が起こり、その対立は容易なことでは決着が付きません。
結果、社員の意識もバラバラになり、気がつけば大赤字垂れ流しの会社になってしまう。
○○家具を思い浮かべる方が多いと思いますが、現代日本の政治が、まさにその形になっていることを指摘する人は誰もいません。
けれど、同じ形になっています。
少し考えたら、誰にでもわかることです。
ト○タ自動車はいまや世界的大企業ですが、オーナー一族がト○タにおける最高権威です。
最高権威は、会社の運営についての口は出しませんが、いつでも経営者をクビにできるだけの権限を保持しています。
これが良い意味での緊張感となるのです。
世界における金融資本体制が、500年の長きに渡って続いているのも、金融資本家が権威となっているからです。
出資先の個々の会社の経営には口は出しませんが、いつにてもその会社の最高権力者である社長のクビを跳ねることができる。
その緊張関係が、国際金融資本体制を、世界に冠たるものにしています。
ところがそんな国際金融資本体制と、天皇とは一点大きな違いがあります。
我が国の天皇は、臣民をして「おほみたから」としている点です。
この一事によって、臣民は権力からの自由を得ています。
そして自由な民であることによって、その民が豊かに安全に安心して暮らせることこそが、権力者にとって、また政治家にとっての最大の職務となっているのです。
まとめると次のようになります。
1 権力はひとりで行使
2 政治はみんなで理想を実現
3 権威はその理想を方向づけるとともに政治の対立を防ぐ
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