とにかく地球を半周して海路はるばる運んで来られる磁器は、とても美しい。
当時の西洋には、これだけの美しい磁器を作る技術がなく、もっぱら東洋との交易によってしか、この磁器がもたらされなかったため、西洋の貴族たちの間では、磁器はまさに垂涎の的となり、たいへんな高価で取引されていました。
アル・カポネの有名な言葉に、「誰もが欲しがっているものを、安く大量に供給することができれば、誰だって大儲けできる」というものがあります。
まさにそれを考えたのが、ドイツ東部のザクセン州のドレスデンの近くにあるエルベ河沿いにあったマイセン城の王様、フリードリヒ・アウグスト2世(Friedrich August II.)でした。
アウグスト2世という王様は、神聖ローマ帝国ポーランド王を兼ねた強王で、ザクセン選帝侯とも呼ばれた大物です。
アウグスト2世
フリードリヒ・アウグスト2世(Friedrich August II.)は、錬金術師だったヨハン・フリードリッヒ・ベトガーを城に招いて磁器の開発を命じました。
錬金術師と聞くと、何やら怪しげな技術を用いて金(GOLD)を造ろうとしていたペテン師たちといったイメージが強いですが、実際には彼らの活躍から、現代でも使われる様々な化学実験道具が誕生していますし、また硫酸・硝酸・塩酸などといった各種化学薬品なども錬金術師の活躍から誕生しています。
要するにいまでいう科学者たちのような人たちであったわけです。
そんな錬金術師のベトガーは、城にこもって研究を続け、ついに磁器の製造に成功します。
これが日本では江戸時代中期にあたる1709年のことです。
そして翌1710年には、「王立マイセン磁器製作所」がアルブレヒト城内に設立されて、本格的なマイセン磁器の生産が始まりました。
この時代は、東インド会社から運ばれたChinaや日本の磁器が、王侯貴族の憧憬の的となっていた時代です。
東インド会社というのは、アジア地域との貿易の独占権を与えられた会社で、世界初の株式会社で、後にイギリスがこの東インド会社を支配するようになりますが、アウグスト2世の当時は、まだオランダが東インド会社の権利を独占していました。
ちなみに西洋社会では、会社は株主のものであって、経営者や社員のものではありません。
その株主というのは資本家(銀行家)のことで、要するに大金持ちがお金を出して、才能のある者を経営者にして商売をやらせて、儲けたお金を吸い上げるというのが、西洋で生まれた株式会社の基本的な仕組みです。
ですから会社はあくまでもお金持ちためにあるものであって、社長も社員たちも、すべてはただの雇われ人です。
わかりやすいのが大航海時代の西洋の開拓船で、映画などでご覧になられた方も多いかと思いますが、西洋の船には、船長の他に、船長よりも偉い人が必ず乗っています。
本来であれば船長が船で最も偉い人のはずなのに、どうして船長よりも偉い人が乗艦しているかというと、これが船主の代理人なのです。
船主というのは、要するに船のオーナーであるお金持ちのことで、そのお金持ちがお金を出して船を作り、その船に乗船する船長を雇います。
船長は船員を雇って、航海に出かけ、外地でたくさんの財宝を得て帰ってくれば、その財宝の半分は船長のものになります。もちろん残り半分は金主のものです。
船長は、自分の配当から船員たちへの報酬を支払います。
金主の側は、儲けたお金の半分を、自分ではまったく手を汚さずに得ることができます。
そこで船長以下の監視役として、金主の代理人が船長よりも偉い人として船に乗艦しているわけです。
明治以降の日本の商法は、そうしたもとからある西洋の方式を踏襲していますから、日本でも会社は株主である金主のものと法律上は構成されています。
ところが我が国では伝統的に、そのような金主制度はありません。
むしろ国家自体が家族国家であり、会社や商店等も、それぞれが店主を親とする疑似家族という考え方が古くからの伝統ですから、いまでも生粋の日本人が経営する会社では会社は家族という認識がありますから、今月の売上が悪くて社員の給料を支払うのに足りないと思えば、社長は自分の個人名義で銀行から借金をして、社員に給料を支払います。
西洋ではそうはいきません。
今月の売上が足りず、給料の支払いに困れば、社員を当然のようにクビにします。
クビになった社員への給料の支払いは、入社時の契約上当月の支給がなくて、2ヶ月後とか3ヶ月後ですから、それで不渡りを出さずに済むようになっているわけです。
さて、そのオランダの東インド会社は、当初、Chinaの景徳鎮(けいとくちん)の磁器を買付けてヨーロッパ各地で販売していました。
「Chinaの景徳鎮磁器」という言い方は、適切でないかもしれません。
景徳鎮(けいとくちん)は昌江の南にある都市で、昔は漢字で昌南と書きました。
昌南は、英語だとChangnanです。
そのChangnanから、たくさんの磁器がヨーロッパに渡り、Changnanの磁器が縮まって「China」となりました。
従って、Chinaという呼称は、欧州では陶磁器をあらわす単語にもなっています。
なぜ昌南の陶器が欧州で好まれたかというと、これにも理由があって、当時の欧州の城塞宮殿には、トイレがありません。
用をたすときは、男女とも部屋の隅に行き、そこに置いてある壷をまたいでその中に、出しました。
壷に溜まった汚物は、窓からジャーっとばかり捨てたので、下の道が汚物だらけになります。
そこで考案されたのが、石畳で、石と石の間に隙間をつくることで、汚物をその隙間から土中に沁み込ませたというわけです。
御婦人の履くハイヒールも、もともとは路上に撒かれた糞尿から貴婦人の足が汚れないようにと考案されたものですし、また御婦人の日傘は、もちろん日除けの意味もありますが、それ以上に突然建物の上から降ってくる糞尿で顔が汚されるのを防ぐという切実な対策でもあったわけです。
そんなわけで近世まで欧州では、大小の用をたすための大型の「壷」はたいへんな需要がありました。
そしてそのための壷として昌南の大型壷のニーズが高まったわけです。
初期の頃の昌南の壷は、ただおおきいだけで彩色性がなかったのですが、そこは宮殿に置くものです。
だんだんに彩色がされるようになり、綺麗な絵柄が描かれるようになっていき、そうなると異国情緒あふれる壷がますますもてはやされる、というふうに昌南の壷が発展していったわけです。
ところがChinaのことです。
せっかくこうして確立された安定的なビジネスルートを、自らの手で壊してしまいます。
どういうことかというと、正保元(1644)年に明が滅んでしまったのです。
次いで清が起こるのですが、Chinaは易姓革命の国です。
新たな王朝が誕生すると、過去の一切は否定されます。
それまであった利権も販売ルートも工場も、徹底的に破壊されてしまいました。
当然、磁器などの輸出工芸品つくりの技術者たちも、「旧王朝派の利権者」とレッテルを貼られて殺されてしまう。
ところが、モノはトイレ壷です。
需要は大きい。
というより、なくては困るものです。
そこで東インド会社では、Chinaの昌南以外で、磁器を生産しているところを探すわけです。
そして目を付けられたのが日本です。
日本における陶磁器の歴史は、ものすごく古くて、古くは縄文式土器が陶器の前身です。
世界最古の土器は、日本の大平山元Ⅰ遺跡で発見された1万6,500年前のものです。
誤解があるといけませんので、すこし補足しておくと、秀吉の朝鮮出兵の際に朝鮮人陶器職人が日本に連れて来られ、薩摩焼や唐津焼のモトを築いたという人がいますが、これは違います。
薩摩も唐津も、遥か太古の昔から陶磁器を作っていたのです。
室町から戦国時代には、きわめて装飾性の高い秀麗な陶磁器がたくさん生産されています。
ところが・・・です。
流行というのはおもしろいもので、装飾性の高い華美な陶磁器が流行ると、次には地味なものが流行ります。
織豊時代は、ある意味、日本が高度成長をした時代だったわけですが、そうした中で、侘び、サビなどの飾りを捨てた質素なものがもてはやされるようになりました。
要するに、世界中で華麗な陶磁器がもてはやされた時代にあって、その頃の日本では逆に、
「俺たちは武家なのだから質実剛健でいなくちゃ」という気風が生まれ、それが陶磁器についても、地味なもの、華美を排したものに価値を見いだす、という方向に嗜好が動いたわけです。
そうした時代背景にあって、同じ時代の半島では、いまだに土器に近い陶器が生産されていました。
李氏朝鮮の時代は、貧困が支配した国です。
「貧しい」から技術も育たず、貧しい陶器、つまり縄文式土器からさらに装飾性までをも取り払ったような、厚手の土器があちこちで生産されていたわけです。
その貧しい陶器が、日本の高級武士たちに受けたのです。
「品がある」というわけです。
「品(ひん)」というのは「貧(ひん)」のことです。
みるからに「貧しい品」が、「品があるしなもの」です。
たとえ生活が豊かになっても、貧しさを忘れず、粗食、粗衣、粗品で身を包むことが「武士のつつしみ」とされたわけですから、そういう時代背景のもとに、貧しい半島の陶器が、まさに稀少な品(朝鮮半島では一般的な品であっても、日本では希少な輸入品)であり、「貧(ひん)を忘れないための茶の道の逸品」としてもてはやされるようになるわけです。
これは、まさに黄金の国ジパングの住民ならではの発想といえるものかもしれません。
そして秀吉の時代になって朝鮮出兵が行われると、朝鮮にいた陶器職人の中で、粗品であっても、端正な陶器を作る職人が、貴重な存在として、日本に連れて来られ、薩摩焼や唐津焼などの技術の一端に加えられ、貧の良い焼き物として、日本中でもてはやされるようになっていきました。
誤解を得やすいことなのですが、要するに当時、朝鮮半島における陶器文化が高度に発展していたから、日本がそれを学んだのではなく、当時、東南アジア諸国に日本人町をつくり、欧州にまで旅をし、鉄砲の保有数世界一、黄金の所持高世界一であった豊かな日本にいた日本の武人たちが、武家社会の武人としての質実の道を忘れないためにもてはやしたのが、まるで縄文時代の遺物のような朝鮮半島の貧しい陶器だった、ということです。
このあたり、たいへんに誤解を生んでいるようなので、補足させていただきます。
ただ、こうして「貧のある(品のある)」陶器がもてはやされるようになると、一方では、さらに技術を磨き、洗練された物品を作り出すのも日本の特徴です。
江戸時代の初期になって、佐賀県の有田町の周辺で、陶石が発見されるのです。
こうして有田に「磁器」窯が開かれて、日本初(世界初)の磁器が作られました。
磁器は、素地が真っ白です。
ですから彩色性がきわめてよくなります。
すると磁器に絵を描いて焼くことで、きわめて芸術性の高い磁器ができあがります。
Chinaでは、明代に土で焼く「陶器」に、色や絵を付けたものが大流行します。
そこでChinaの色絵の技術を聞いた佐賀の酒井田柿右衛門が、工夫を重ねて、素地の真っ白な石焼きの磁器に、彩色して焼きあげる技術を開発するのです。
こうして江戸時代の後期に、全国各地で「磁器」の生産が始まるまで、有田が日本国内で唯一の「磁器」を生産するところとなりました。
その有田で生産された極彩色の磁器が、伊万里(いまり)港から出荷されたため、「伊万里焼き」とも呼ばれるようになります。
作品には、製造時期や様式などによって、初期伊万里、古九谷様式、柿右衛門様式、金襴手(きんらんで)などがあり、さらに、献上用の極上品のみを焼いたものが、鍋島藩の藩窯のものが「鍋島様式」、天皇に納めたものが「禁裏様式」です。
そしてオランダの東インド会社が、この日本の有田焼に目を付けたのです。
18世紀に作られた有田焼
有田焼は、万治2(1659)年から、本格的な輸出がはじまりました。
日本の有田焼が、ヨーロッパに紹介されたのです。
これが大評判になりました。
なにせ、素地が純白です。
そして絵柄がまさに芸術品です。
有田焼は、ヨーロッパの王侯貴族たちに「白い黄金」と呼ばれるようになりました。
彼らは有田焼を手に入れるために、わざわざアムステルダムまで人を派遣して、日本から入る船を待機させたもしています。
おかげで、佐賀からヨーロッパに渡った「磁器」は、約100年の間になんと120万個以上にのぼります。
記録に残っていない磁器を含めれると、実際にはその2~3倍の有田焼がヨーロッパに持ち込まれたとさえいわれています。
有田焼の絵柄が、Chinaの磁器と似ているという人がいます。
しかしそれは違います。
余白や間を活かして、花鳥風月を華麗に明るく可憐に描く手法は、日本独自のスタイルです。
有田焼のなかでも、とくに柿右衛門様式の磁器は、ヨーロッパで大センセーションを起こします。
こうして日本の有田焼は西洋において、「China生まれの便壷」という地位から、いっきに「美術工芸品」としての地位を確立するのです。
なかでも柿右衛門様式の有田焼は、最も高価で最も魅力的なものとされました。
柿右衛門様式
こうしてヨーロッパ貴族たちは、自身の邸宅を有田焼きで飾ることを最高のステイタスとするようになりました。
柿右衛門様式の有田焼は、ベルリンのシャルロッテンブルク宮殿、ロンドンのハンプトンコート宮殿やバッキンガム宮殿などを筆頭に、欧州各地の王宮や城を彩ります。
なかでもとりわけ有田焼のコレクションに熱心だったのが、冒頭のアウグスト2世(1670~1733)でした。
彼は熱烈に日本の磁器を愛し、ドレスデンのツヴィンガー城に、柿右衛門を含む膨大な数の東洋磁器を集めました。
しかもそれだけでは足りずに、なんと1722年には「日本宮」という磁器の収集館まで建設しています。
1722年といえば、江戸の享保年間(享保7年)のことです。
エルベ川側から見た日本宮
そしてアウグスト2世は、コレクションするだけでなく、自らも日本の有田焼に似た磁器を作りたいと考えるようになりました。
こうして錬金術師のベトガーに、マイセンで磁器の開発に取り組ませたわけです。
そしてベトガーが磁器の製造に成功すると、なんとアウグスト2世は、開発した磁器の技法が城外に洩れないようにと、ベトガーをアルブレヒト城内に幽閉してしまいます。
おかげでベドガーは、城から出たくても出られない。
ベトガーには、城外に残した愛する女性がいましたが、幽閉され、二度と逢えないとなったベトガーは、城内でついに廃人同様となり、マイセン窯誕生のわずか9年後に37歳で亡くなってしまいました。
ちなみに、冒頭のマイセン焼きの絵皿ですが、よく見ると(写真が小さいのでわかりにくいかもしれませんが)中央の木から、なぜか竹が生え、その竹からも太い枝が出て、先っちょにバラのような花が咲いています。
あたりまえのことですが、木から竹は生えないし、竹に樹木のような枝も付きませんし、バラのような花が咲くこともありません。
しかも竹は、もともとイネ科の植物で、アジアの熱帯から温帯に分布している植物でヨーロッパにはありません。
当然、マイセンの職人さんたちは、当時、竹の実物を見ることはなかったでしょうし、見たことのない植物は正確に描けない。
おかげでマイセンの食器には、こうしたありえない絵柄ができあがっています。
要するに、初期の頃のマイセン磁器は、日本の有田焼の模倣からスタートした、ということです。
アウグスト2世の磁器への情熱は、単に「日本の有田焼のような美しい磁器を作りたい」という憧れだけでなく、当時のヨーロッパで熱狂的な高値で売買される磁器を、自らの手で作り上げれば、莫大な富が手に入るという考えにも裏打ちされていたのですが、こうした考え方は、自然とヨーロッパの貴族社会に伝播します。
列国の王侯貴族や事業家も、自分で磁器を作れば、莫大な富が手に入ると考えるようになり、ヨーロッパ全土で磁器生産への熱意が高まります。
こうして有田焼の模倣品は、イギリスのチェルシー窯、ボウ窯、フランスのシャンティー窯など、次々と欧州各国に広がっていきました。
現在、ロイヤルコペンハーゲン(デンマーク)は、特に日本で人気のある磁器メーカーですが、藍色の唐草模様を付けたブルーフルーテッドシリーズは、どうみても有田焼の模様です。
ブルーフルーテッドシリーズ
ヨーロッパにおける有田焼の技法は、いまでは、あまりに大規模に模倣されたために、その起源が日本にあることすら忘れられてしまっています。
それだけ、日本の文化がヨーロッパ磁器に大きな影響を及ぼしたのです。
ちなみに、石から焼く磁器の製造方法は、当然のことながらChinaにも(日本でいう江戸時代に)伝播しました。
模造品を作って、格安で売るのは、古来変わらぬChineseの習性です。
ただし最近のものでもそうなのだけれど、China産のこうした美術工芸品は、申し訳ないけれど品がない。
派手に過ぎるか、絵柄がぼやけていて、これまた大量に欧州に渡るのですが、ヨーロッパでは、あくまで日本製が上物とされ、China製のものは、あくまで東洋風の模造品という扱いでした。
なぜ日本製の有田焼がヨーロッパで高級品として絶賛されたのか。
理由はもちろん白い磁器の美しさもあるけれど、それ以上に、そこに描かれた絵柄が、なにより決して権威主義的でなく、明るく可憐であることが挙げられます。
華美なようでいて質素
質素なようでいて華やか
簡単なようでいて複雑
こうした磁器がなぜ日本で生まれたのかといえば、そこには品と調和を重んじる日本人の心があるからです。
磁器に描かれる絵は、磁器の上という小さな世界に描かれた非現実の世界です。
描かれているもの、たとえば鳥や草花は、それぞれ現実の世に存在するものであっても、それが描かれるときには、非現実です。
つまり現実として虚偽があるところに、非現実としての、芸術としての真実が生まれます。
そういう「芸術としての真実」は、単なる模倣や、コピー商品による儲け主義のところには、決して生まれません。
あくまでもそこには、生涯をかけて追求するという鉄の意思と、どこまでも調和のある美しさを求めようとする、品性からしか生まれないものといえます。
オリジナルと模倣の違いが、ここにあります。
その違いが、Chinaの磁器と日本の磁器の大きな違いになっています。
マイセンの磁器は、日本の模倣から出発して世界最高峰の芸術を築きました。
それができたのは、ゴッホと同じく、日本美を謙虚に学び、自らの美意識のなかで芸術としての真実を追究したからです。
逆にChinaが古来変わらず、世界中の秀逸な物品を模倣しながら、逆にその品の品位を貶め続けるのは、彼らに謙虚さがなく、いたずらに批判と金儲けだけに走るからです。
昨今の日本に「2位じゃだめなんですか?」と言ったおバカがいたけれど、最高のものを追求するというのは、スパコンにしても工芸品にしても実用品にしても、仮に最初は模倣から出発したとしても、最後は、オリジナルな真実をどこまでも追求していく姿勢によってしか、なし得ないものです。
批判と猿真似だけで世界に認められようとしても、いずれメッキは剥がれるのです。
私達は、戦後日本が否定してきた一切のことを、いまあらためて再考すべきときにきているように思います。
※本記事は、2010年10月27日にいちど書いたものを、あらためて加筆修正したものです。お読みいただき、ありがとうございました。
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似ている似ていないは、どの基準・水準で考えるかに依るので何とも言えませんが、景徳鎮の磁器はもともと無地でした。それがモンゴル帝国の出現によって大陸の東西が繋がった元代になって、イスラム世界からコバルト顔料で彩色する技術と注文が入ったことによって「染付」が生産されるようになります。つまり、中東の人々が欲しがる模様の付いた製品を輸出用に作ったのです。
日本で「唐草」と呼ばれている文様はペルシア風のパターンがオリジンですね。ですから、少なくとも植物文様の磁器については「似ている」としても、「Chinaに似ている」のではなく、「Persiaに似ている」か、「Persia風に似せたものに似ている」ということになります。
中国の研究者は「染色の技術は古くから中国にあった」「宋明の絵柄がペルシア陶器に影響を与えた」というんですが、支那が中東からコバルト染料を輸入していたこと、ペルシアの陶器は古くから色も柄も多彩なことはどう説明するんだと。
早速購入し読んでいます。
著者はアメリカ人ジャーナリスト「マイケル・ヨン」氏です。
彼は現地に足を運び、事実に基づく記事を書いています。
今回の執筆は日本語で、英語出版の翻訳ではありません。
恐らく彼は英語による最終出版を狙っていると思われます。
懸念するのは左翼に不都合な本は何故かスルーされることが多いことです。いつも不思議に思っています。
本屋に平積みされることを願っています。
本の購入を拡散願います。