知人の学会員から最近(2月)の地区座談会の様子を聞いた。
聞けば、「伝統の2月闘争」がやたら強調されていたという。
昭和27年1月、池田氏が蒲田支部の幹事に任命され、その直後の2月、支部は未曾有の201世帯の折伏を成し遂げた、それは若き池田先生の獅子奮迅があったればこそ、という文脈の英雄伝説だ。
座談会では未来部の少年らが池田氏の青葉荘時代のエピソードを紙芝居で紹介したそうだ。知人によると、それは1月の衛星放送で流された池田神話を紙芝居化したものだが、未来部員が創意工夫したものではなく、学会上部が印刷配布した線画に学会員が塗り絵しただけのお仕着せ紙芝居だったらしい。「語り」のシナリオもお仕着せだから、未来部員も誤読混じりの棒読みで、聞いていて痛々しいほどだったという。
さて、幼稚園の発表会のような手法を使ってまで、純真無垢な未来部員に池田英雄伝を刷り込もうとしているのかも知れないが、果たしてその「英雄伝説」は真実なのか。
「伝統の2月闘争」の自慢話は人間革命で1度(第5巻)、新・人間革命では2度(第3、8巻)語られている。通史スタイルの小説でありながら、しつこく蒸し返して喧伝しているのは、よほど自慢の出来事だったのだろう。
人革第5巻には、「蒲田支部で山本伸一が、はじめて二百世帯を超える折伏成果をあげた・・・・」とある。これはさすがに「伸一一人で200世帯以上を折伏した」という意味ではなく、「200超えは伸一の指揮の賜物」と読ませたいのだろうが、この表現は史実に正しく沿っているのだろうか。
随筆・新人間革命によると、その2月闘争は池田氏にとって「初陣」だったそうだが、そんな実戦経験の乏しいシンマイ幹事が、折伏の猛者たちの雲集する(A級支部と呼ばれた)蒲田支部を指揮・鼓舞し、それが200超えをもたらしたというのか。しかも池田幹事の上には「大蒲田の総帥」と呼ばれた小泉隆支部長(後の理事長)がいたわけで、その実力者小泉氏を差し置いて「200世帯超えは俺様一人の功績である」かのように後に吹聴できるほど池田青年は驚異的な働きをしたというのか。
もしそれが本当なら、池田氏はとてつもないスーパー・ルーキー、ニュー・ヒーローとして、当時の学会中にその名が轟き、聖教新聞にも賞賛記事があってもよさそうだ。そう思って昭和27年当時の聖教を調べてみた。
ところが、ない、ない、ない、ない・・・・どこにもない。
当時の聖教は一個人の活躍を宣揚するようなことはしなかったのかというと、さにあらず。無数にある。
例えば、「活躍する森角三兄弟、上原夫人等」の見出しで、入信以来半年で47世帯の折伏を成し遂げた快挙を褒め称えていたり(S26.10.10)、「学会の金太郎 岩本多美男君」の見出しで、邪宗折伏の武勇伝が紹介されていたり(S26.5.10)、また、仙台支部の急成長に貢献した渋谷邦彦支部長が写真付でクローズアップされたりしているのだ。この渋谷支部長にいたっては、戸田会長直々の支部長賞賛談話が載り、戸田会長が渋谷氏にネクタイを贈ったことまで報じられている(S27.11.1)。
なのに、「シンマイ幹事池田大作が初陣で蒲田支部に未曾有の折伏成果をもたらした」という歴史的快挙を窺わせる記事は1行もないのだ。これは何を意味するか・・・・。
池田氏の“快挙”を伝える記事はないが、彼の微笑ましい記事ならあった。2月闘争の最中、池田氏は戸田氏を介して白木かねさんとの婚姻話を進めていたらしく、3月10日に聖教2面に以下のような婚約報道がなされている。しかし池田氏の"2月の獅子奮迅の闘い”直後の記事にしては、中身がいささか奇妙である。
『池田大作君と白木かねさんの婚約が発表された、媒酌は飛躍を続ける大支部蒲田の総帥、小泉隆理事、5月3日の意義深い日に婚礼の式を挙げる。
池田君と白木さんは蒲田支部内で前々から相思の仲であり、戸田先生は深い思いやりから2月に直直両家と話合われ、きわめて順当に話は決定を見た。
(中略)
五年後十年後のこの学会の幹部として、牧口門下の現幹部と共に活躍すべき戦士は今の青年部員でなければならない。
このホープとして池田君の姿が大きくクローズアップされる、数年間戸田先生に忠実に御仕えし、朝から夜迄縦横に全東京を駆けている姿は実にたくましい、苦難の25年(昭和25年)も先生の陰の一人として戦い抜いて来た、この多忙の中に朝十分程の五大部の受講をすでに中ばを過ぎんとしている。青年部では作戦参謀として四部隊統合の重要な舵取りである。
早くから家庭的に独立して戦って来た同君はこゝに内助の良夫人を得て更に力を増すであろう。同君は常に言う『天下を取ろう』と、大志努力の人池田大作君おめでとう。』
慶事報道の常として、ありきたりの言辞でいろいろ褒め上げてはいるが、池田氏が未曾有の折伏成果の大殊勲者であった云々という話は全く出てこない。まもなく新郎となる青年を褒める下りなのだから、直近の2月の"スーパーヒーロー”ぶりを華々しく紹介し、前述の功労者らのように折伏闘争の模範として讃えてもよさそうなものだが、一言もないのだ。
褒めるに事欠いて、全東京を駆けているだの、朝の10分講義を真面目に受けているだの、幹部として当たり前の姿をネタにするしかなかったのではないか。
以上の通り、当時の聖教新聞を見る限り、「蒲田支部で山本伸一が、はじめて二百世帯を超える折伏成果をあげた・・・・」という池田氏の自己申告「英雄ストーリー」を裏付ける客観証拠はない。そればかりか上の婚約報道などは、「英雄ストーリー」の眉唾ぶりを証明しているようにすら見える。
池田談「伝統の2月闘争」は本人が勝手に「俺様一人の手柄」と思い込んでいたか、自己を美化・神格化するために針小棒大に誇張(あるいは捏造)したか、いずれかであろう。
さて、冒頭で紹介した座談会では、「地域を大切にする池田先生」をテーマにした本部作成ビデオも流されたという。数十年前、池田氏が信濃町の本部近辺の商店主と談笑する映像があり、そのナレーションで「本部近隣の住民を大切にしてこられました」と語られたとき、私の知人は内心苦笑したそうだ。近隣住民を大切にしてきた結果が、地上げを積み重ねて出来あがったあの広大な学会本部城下町か・・・と。
聞けば、「伝統の2月闘争」がやたら強調されていたという。
昭和27年1月、池田氏が蒲田支部の幹事に任命され、その直後の2月、支部は未曾有の201世帯の折伏を成し遂げた、それは若き池田先生の獅子奮迅があったればこそ、という文脈の英雄伝説だ。
座談会では未来部の少年らが池田氏の青葉荘時代のエピソードを紙芝居で紹介したそうだ。知人によると、それは1月の衛星放送で流された池田神話を紙芝居化したものだが、未来部員が創意工夫したものではなく、学会上部が印刷配布した線画に学会員が塗り絵しただけのお仕着せ紙芝居だったらしい。「語り」のシナリオもお仕着せだから、未来部員も誤読混じりの棒読みで、聞いていて痛々しいほどだったという。
さて、幼稚園の発表会のような手法を使ってまで、純真無垢な未来部員に池田英雄伝を刷り込もうとしているのかも知れないが、果たしてその「英雄伝説」は真実なのか。
「伝統の2月闘争」の自慢話は人間革命で1度(第5巻)、新・人間革命では2度(第3、8巻)語られている。通史スタイルの小説でありながら、しつこく蒸し返して喧伝しているのは、よほど自慢の出来事だったのだろう。
人革第5巻には、「蒲田支部で山本伸一が、はじめて二百世帯を超える折伏成果をあげた・・・・」とある。これはさすがに「伸一一人で200世帯以上を折伏した」という意味ではなく、「200超えは伸一の指揮の賜物」と読ませたいのだろうが、この表現は史実に正しく沿っているのだろうか。
随筆・新人間革命によると、その2月闘争は池田氏にとって「初陣」だったそうだが、そんな実戦経験の乏しいシンマイ幹事が、折伏の猛者たちの雲集する(A級支部と呼ばれた)蒲田支部を指揮・鼓舞し、それが200超えをもたらしたというのか。しかも池田幹事の上には「大蒲田の総帥」と呼ばれた小泉隆支部長(後の理事長)がいたわけで、その実力者小泉氏を差し置いて「200世帯超えは俺様一人の功績である」かのように後に吹聴できるほど池田青年は驚異的な働きをしたというのか。
もしそれが本当なら、池田氏はとてつもないスーパー・ルーキー、ニュー・ヒーローとして、当時の学会中にその名が轟き、聖教新聞にも賞賛記事があってもよさそうだ。そう思って昭和27年当時の聖教を調べてみた。
ところが、ない、ない、ない、ない・・・・どこにもない。
当時の聖教は一個人の活躍を宣揚するようなことはしなかったのかというと、さにあらず。無数にある。
例えば、「活躍する森角三兄弟、上原夫人等」の見出しで、入信以来半年で47世帯の折伏を成し遂げた快挙を褒め称えていたり(S26.10.10)、「学会の金太郎 岩本多美男君」の見出しで、邪宗折伏の武勇伝が紹介されていたり(S26.5.10)、また、仙台支部の急成長に貢献した渋谷邦彦支部長が写真付でクローズアップされたりしているのだ。この渋谷支部長にいたっては、戸田会長直々の支部長賞賛談話が載り、戸田会長が渋谷氏にネクタイを贈ったことまで報じられている(S27.11.1)。
なのに、「シンマイ幹事池田大作が初陣で蒲田支部に未曾有の折伏成果をもたらした」という歴史的快挙を窺わせる記事は1行もないのだ。これは何を意味するか・・・・。
池田氏の“快挙”を伝える記事はないが、彼の微笑ましい記事ならあった。2月闘争の最中、池田氏は戸田氏を介して白木かねさんとの婚姻話を進めていたらしく、3月10日に聖教2面に以下のような婚約報道がなされている。しかし池田氏の"2月の獅子奮迅の闘い”直後の記事にしては、中身がいささか奇妙である。
『池田大作君と白木かねさんの婚約が発表された、媒酌は飛躍を続ける大支部蒲田の総帥、小泉隆理事、5月3日の意義深い日に婚礼の式を挙げる。
池田君と白木さんは蒲田支部内で前々から相思の仲であり、戸田先生は深い思いやりから2月に直直両家と話合われ、きわめて順当に話は決定を見た。
(中略)
五年後十年後のこの学会の幹部として、牧口門下の現幹部と共に活躍すべき戦士は今の青年部員でなければならない。
このホープとして池田君の姿が大きくクローズアップされる、数年間戸田先生に忠実に御仕えし、朝から夜迄縦横に全東京を駆けている姿は実にたくましい、苦難の25年(昭和25年)も先生の陰の一人として戦い抜いて来た、この多忙の中に朝十分程の五大部の受講をすでに中ばを過ぎんとしている。青年部では作戦参謀として四部隊統合の重要な舵取りである。
早くから家庭的に独立して戦って来た同君はこゝに内助の良夫人を得て更に力を増すであろう。同君は常に言う『天下を取ろう』と、大志努力の人池田大作君おめでとう。』
慶事報道の常として、ありきたりの言辞でいろいろ褒め上げてはいるが、池田氏が未曾有の折伏成果の大殊勲者であった云々という話は全く出てこない。まもなく新郎となる青年を褒める下りなのだから、直近の2月の"スーパーヒーロー”ぶりを華々しく紹介し、前述の功労者らのように折伏闘争の模範として讃えてもよさそうなものだが、一言もないのだ。
褒めるに事欠いて、全東京を駆けているだの、朝の10分講義を真面目に受けているだの、幹部として当たり前の姿をネタにするしかなかったのではないか。
以上の通り、当時の聖教新聞を見る限り、「蒲田支部で山本伸一が、はじめて二百世帯を超える折伏成果をあげた・・・・」という池田氏の自己申告「英雄ストーリー」を裏付ける客観証拠はない。そればかりか上の婚約報道などは、「英雄ストーリー」の眉唾ぶりを証明しているようにすら見える。
池田談「伝統の2月闘争」は本人が勝手に「俺様一人の手柄」と思い込んでいたか、自己を美化・神格化するために針小棒大に誇張(あるいは捏造)したか、いずれかであろう。
さて、冒頭で紹介した座談会では、「地域を大切にする池田先生」をテーマにした本部作成ビデオも流されたという。数十年前、池田氏が信濃町の本部近辺の商店主と談笑する映像があり、そのナレーションで「本部近隣の住民を大切にしてこられました」と語られたとき、私の知人は内心苦笑したそうだ。近隣住民を大切にしてきた結果が、地上げを積み重ねて出来あがったあの広大な学会本部城下町か・・・と。
さて、もしこんな疑問をバリ活さんに投げかけたらどんな答えが返ってくるか想像してみました。
曰く「弟子である我々が先生の意思を受け継いでその尊い目標を達成するんです」。
そこでトニーはさらにこう問い返します「偉大なはずのセンセーでさえ成就出来なかったのに、パンピーの末端会員や幹部にそれが出来るなんて納得できません。だいたいそれでは池田センセーには広布も世界平和も達成できなかったということを半ば認めるに等しくはありませんか?」
こんなやりとりを妄想する僕ってドSですかね(笑)?
ともあれ、いくら偉大だ偉大だと騒いだところで、その論理はすでに最初から破綻しているのです。