【入獄と出獄が同日同時刻、のウソ】
前稿では学会オフィシャルサイト内の大阪事件関連文章を紹介したが、ほぼ同じ内容の池田氏の文章があったので引用しておく。『随筆・人間世紀の光』の一節だ。池田氏自身が『人革』外で公式にフィクスした池田流“史実”だ。
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七月の三日――。
それは、昭和二十年、戸田城聖先生が、獄死なされた牧口常三郎先生の偉大な遺志を継がれて、出獄した記念の日である。そして、その十二年後の昭和三十二年、戸田会長の直弟子である私が入獄した日でもある。
(中略)
昭和三十二年の七月三日、大阪府警から任意出頭を求められた私は、激流に飛び込むごとく、自ら大阪へ向かった。北海道からの乗り継ぎのため、いったん羽田空港に降り立つと、わが師・戸田先生が来てくださっていた。
「もしも、お前が死ぬようなことになったら、私もすぐに駆けつけて、お前の上にうつぶして一緒に死ぬからな」 先生の目には、涙があった。痩せた私の体を、固く抱いてくださった。先生の体は熱かった。
大阪府警に逮捕されたのは午後七時である。奇しくも十二年前、恩師が出獄された時と、同日同時刻であった。
『随筆・人間世紀の光(116) 「7月3日」と学会精神』より
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さて、7.3師弟不二神話は戸田出獄と池田入獄が「同日同時刻」であるという大前提のもとで成り立っているが、いろいろ調べて見ると、「同日同時刻」というのはどうも嘘臭いのである。
まず簡単なところから、「同時刻」の嘘の方から先に片付けよう。
池田逮捕時刻は午後7時かも知れないが、戸田氏の出獄時間は実は午後7時ではない。戸田氏が釈放の翌月に夫人の弟に宛てた書簡に次のようにある。
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三年間の独房の生活。ついに確心取った。弟子本尊の本当の生活意識をとりもどした。その日のくるまで、御本尊様からお許しはいただけなかった。七月三日午後八時、ついにお許しを得て、七二九日目で台町の家に帰った。
(戸田城聖著『若き日の手記・獄中記』 青峨堂書店1970年・初版第八刷) p.184
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戸田氏の釈放は午後8時なのだ。
7時と8時は誰が見ても「同時刻」ではない。
百歩譲って多少のズレを認めるにしても、「奇しくも同時刻」と形容するには1時間の差は大きすぎる。
池田氏は第十一巻で「同時刻の奇しき師弟不二」を謳うための伏線として、『人革』第一巻第1ページに次のように書いている。
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七月三日、午後七時――
豊多摩刑務所(中野刑務所)の、いかめしい鉄の門の外側には、さっきから数人の人影が立ちつくして、(以下略)
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第一巻の出版は、前述の「若き日の手記・獄中記」が世に出る5年前のことなので、もしかしたら池田氏は第一巻執筆時に、恩師の出獄時間が午後8時だったという史実を知らなかった可能性はある。
しかし、知らなくて上のように書いたのだとしたら、自分の逮捕時間に合わせて恩師の出獄時間を勝手に捏造したことになるし、知っていたのなら史実の改竄である。いずれにしても、自己賛美のために恩師の史実を恣意的に歪め、利用していることに変わりはない。
ちなみに、池田氏は前述の「若き日の手記・獄中記」に序文を寄せているので、遅くとも1970年には、「戸田出獄=午後8時」を知っていたことになる。とすると、1992年出版の『人革』第11巻で戸田出獄時間に言及する際、1巻で「午後7時」としていたことについて何らかの弁明なり修正がなされるべきだった。しかし彼は歴史を叙述する者としての最低限の義務も果すことなく、自らの粉飾英雄譚のために「同時刻」を押し通してしまったのだ。
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さて、以上のように池田逮捕と戸田出獄が「同時刻」でなかったことは分かった。では次に「同日」について考えてみる。
ご存知の方も多いと思うが、池田逮捕日は7月3日ではなく、7月4日ではないか、という疑惑が20年ほど前から取り沙汰されていた。法華講側と学会側(怪文書『地湧』)の間で論争もあったようだ。
(例えば、ここ(http://www.houonsha.co.jp/jiyu/12/417.html)
本ブログでは、逮捕日・入獄日を探る前に、まず逮捕場所について考えてみたいと思う。
【池田氏は府警に出頭しておらず、東京の自宅で逮捕された?】
7.3神話では、池田氏は自らの足で大阪府警に出頭したことになっているが、それは池田氏が人革や随筆等で言ってるだけで、実は出頭というステップなしで、いきなり逮捕されたのではないだろうか。
その根拠は次の新聞報道だ。
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“創価学会渉外部長を逮捕”
さる四月の参院大阪地方区補選の際の創価学会選挙違反を追及している大阪府警捜査二課は、三日夜、東京都太田区××町×××創価学会渉外部長池田大作(二九)を公選法違反の疑いで自宅で逮 捕した。
(日本経済新聞 1957/7/4夕刊)
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7/3夜、自宅で逮捕とある。これが誤報でなければ、池田氏は自らの足で勇ましく大阪府警に出頭したのでなく、捕って大阪に連行されたことになる。また、出頭要請(or命令)による召喚というステップもなかったということになる。出頭要請し、出頭意思を確認しておきながら、出頭を待たずに逮捕することはありえないからだ。(逃げ回っているのならともかく)
他の新聞も見てみよう。
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●『毎日新聞』:大阪の参院補選違反を追及中の大阪府警捜査二課では三日午後七時、東京大田区本蒲田『創価学会』渉外部長兼参謀室長、池田大作(二九)を公選法違反容疑で逮捕した。(1957/7/4)
●『朝日新聞』:大阪府警捜査二課では三日夜、東京大田区調布小林町、創価学会渉外部長池田大作(二九)を公職選挙法違反の疑いで逮捕した。(1957/7/4夕刊)
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上記2紙は逮捕場所は書いてないが、よくある「大阪府警に出頭した××を逮捕した」という書き方でもないので、日経記事との矛盾はない。
3紙とも「7月3日逮捕」と書いてあるので、逮捕日自体は7月3日で間違いないようだ。問題は、本当に東京の自宅で逮捕されたのか、という点だ。日経記事が事実なら、7/3の夜逮捕後、夜行列車で移送され、大阪到着はどんなに早くても翌朝だ。(当時東京-大阪は急行でも7時間を要した。夜行の鈍行なら十数時間かかった)。そして大阪駅から大阪府警に連行され拘留、という段取りになる。つまり拘留(入獄)日は7月4日ということになる。
通常なら、信頼できる日経新聞の「7/3夜、自宅で逮捕」の記事を紹介した時点で、「千歳--羽田--伊丹ルートでの出頭も7/3入獄もウソだった」の論証は終わったも同然なのだが、他紙が「自宅で」と書いていないのが気になる。日経記事は本当なのだろうか。
それを皆さんに考えていただくため、次に、当時のニュース映像(Youtube)を見ていただく。
私はこれを見て、日経記事の信憑性を確信した。
次稿は、その映像を引用しつつ、その理由を説明する。
(次稿は早くUpできると思います。いつも遅筆ですみません)
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