いろいろな人からコメントがあった。
何を書こうか考えたのだが、今回もイザベラ・バードの朝鮮紀行からの引用を取り上げて、
アンチ在日・韓国な人が参考にするホームページとして私が示した、
大日本史 番外編 朝鮮の巻の引用?の奥にある悪意を、もう一つ示したい。
かなり長くなるが、おつきあいください。
それから、アンチ在日・韓国な人が参考にするホームページの悪意が見えたという話を読んでない方は、
できればまずこの話を読んでから、今回の話を読んでみてください。私がアンチ在日・韓国な人が参考にするホームページとして示してきたのは、
大日本史 番外編 朝鮮の巻である。
前回書いた話でこのホームページに、改竄を含んだ悪意のある引用があったと書いた。
この話に対していろいろな人からコメントがあり、
悪意があるとは言えないのでは、という指摘があった。
今回は、より悪質(私が判断するに)な引用を示すことにする。
繰り返しになるが、大日本史番外編朝鮮の巻は事実を淡々と記したものではない。
今回も、私の手元にある朝鮮紀行(イザベラ・バード、講談社学術文庫)と、
大日本史番外編朝鮮の巻の「ぢぢ登場の巻」補足資料「植民地統治の検証 1」を比較する。
植民地統治の検証 1の内容の最初のあたりに、
「序、ソウル南大門付近の変遷から日本の朝鮮統治をみる」というものがある。
前回の話で書いた、引用の先の部分といってもいい。
縦に並んでいる2点の写真の下から、日韓併合前の朝鮮について記した文献の引用が続く。
その一番最初が、朝鮮紀行なのである。引用してある部分を引用しよう。
「朝鮮紀行」 イザベラ・バード 1897年 (時岡敬子訳 1998年 講談社学術文庫)
首都の第一印象(李氏朝鮮時代)
都会であり首都であるにしては、そのお粗末さは実に形容しがたい。礼節上2階建ての家は建てられず、したがって推定25万人の住民は主に迷路のような「地べた」で暮らしている。路地の多くは荷物を積んだ牛どうしがすれちがえず、荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、おまけにその幅は家々から出た個体および液体の汚物を受ける穴か溝で狭められられている。悪臭紛々のその穴や溝の横に好んで集まるのが、土ぼこりにまみれた半裸の子供たち、疥癬もちでかすみ目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げまわったり、ひなたでまばたきしたりしている。路地にはまた「小間物」とアニリン染料で染めたけばけばしい色の飴を売る行商人もいて、溝の上に板をさし渡し、おそらく1ドル程度の品物を並べている。こういった溝に隣接する家屋は一般に軒の深い藁ぶきのあばら家で、通りからは泥壁にしか見えず、ときおり屋根のすぐ下に紙を張った小さな窓があって人間の住まいだと分かる… かわら屋根の反り返った上流階級の家庭でも、通りから見た体裁の悪さという点では何ら変わりがない。商店も概してみすぼらしいのは同じである。在庫品全部を買っても6ドル程度の店がたくさんある… おもな商品は白い綿地、わらじ、竹の帽子、素焼きのかめ… 大量の干した海藻と干しきのこといったもので、その他に安価な灯油ランプ、手鏡、安物くさい花瓶などといった外国製の不要品から一番くだらないものばかりを選んできたような品々は、どれをとっても悪趣味のきわみとしか言いようがない。黒いうるしに貝の真珠層か何かを埋め込んだ古風なデザインの象嵌製品にはときとして掘り出し物がある。金糸の刺繍をほどこした絹地もあるが、デザインがまずく、色合いはなんともすさまじい。
(中略)
南山の美しい丘からはソウルの全景が眺められる。周囲の山々は松の木立が点在するものの、大部分は緑がなく、黒い不毛地のうねりとなってそびえている。こういった山々の取り囲む盆地の中に20万の人々がひしめきあっている。城内は大半が藁ぶきの低い茶色の屋根の海で、林も広場もなく、単調きわまりない。この茶色の海から突き出ているいるのが城門の反り返った二重屋根と灰色花崗岩の王宮の石塀で、その中にさまざまな殿舎の大きな屋根がある。東の城門から西の城門へと広い通りが市街を貫き、この通りから南の城門へともう一本の通りが走っている。中央の大通りからはさらに幅95ヤードの広い道路が王宮へと向かっている。常にじゃま物のないようきれいに片付けられているのはこの通りだけで、ほかの街路は屋台店が両側に並び、通行用には狭い道幅しか残っていない… しかし何百本とある、もっと狭くてしかもその幅が軒やどぶで狭められている路地では、人間どうしがすれ違うがやっとだ。何マイルも続く土壁と深い軒、どろどろとした緑色の溝、黒ずんだ排気口の間には、男性の住民と荷物の運搬人以外、動くものはあまりない。どの家も犬を飼っており、四角い穴から犬は家に出入りする。よそ者が来れば激しく吠え、傘をふると逃げていく。犬はソウル唯一の街路清掃夫であるが、働きはきわめて悪い。また人間の友だちでもなければ、仲間でもない。朝鮮語をはじめ人間の話すあらゆる言語に取り合わない。夜間吠えるのはどろぼうがいるからである。飼い犬といえどほとんど野犬にひとしい。若い犬は春に屠殺され、食べられてしまう。
昼間水をくんだり洗濯したりする女性の多くは下女で、全員が下層階級の人々である。朝鮮の女性はきわめて厳格に家内にこもっている。おそらく他のどの国の女性よりも徹底してそうではなかろうか。ソウルではとても奇妙な取り決めが定着している。8時に《大釣鐘》が鳴り、それを合図に男たちが家に引きこもると、女たちが家から出て遊んだり友人を訪ねたりするのである。私が到着したのもそんな時間帯であり、まっ暗な通りにあるのは、もっぱらちょうちん片手の召使いをお供にした女性の姿だけという異様な光景であった。ただし、盲人、官僚、外国人の従僕、そして処方箋を持って薬屋へおもむく者はこの取り決めから除外される。投獄を免れるためにこういった肩書をかたる場合は多く、長い棒を手に入れて盲人のふりをする者もままある。12時にもう一度鐘が鳴ると、女たちは家にもどり、男たちはまた自由に外出できる。ある地位の高い女牲は、昼間のソウルの通りを一度も見たことがないと私に語った。
夜間の静けさはきわめて印象的である。鼻歌ひとつ、咳ひとつ聞こえず、ひそとも人の気配がない。通りに面していて、なおかつ明かりのともった窓というのがほとんどないので、暗さも徹底して暗い。静寂を破って届く《大釣鐘》のゴーンという低い音には、不吉ともいえる響きがある。
この引用にも、私は大日本史 番外編 朝鮮の巻を作成した人間の悪意を感じる。
悪意でなければご都合主義とでもいえばいいのではないだろうか。
理由を説明するために、私の手元にある朝鮮紀行から正確に原文を引用する。
とりあえず、最初のブロックだけを引用する。
これだけで大日本史 番外編 朝鮮の巻の奥にある悪意は十分に伝わると思う。
城内ソウルを描写するのは勘弁していただきたいところである。北京を見るまでわたしはソウルこそこの世でいちばん不潔な町だと思っていたし、紹興へ行くまではソウルの悪臭こそこの世でいちばんひどいにおいだと考えていたのであるから!都会であり首都であるにしては、そのお粗末さは実に形容しがたい。礼節上2階建ての家は建てられず、したがって推定25万人の住民は主に迷路のような「地べた」で暮らしている。路地の多くは荷物を積んだ牛どうしがすれちがえず、荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、おまけにその幅は家々から出た個体および液体の汚物を受ける穴か溝で狭められられている。悪臭紛々のその穴や溝(正確にはみぞ)の横に好んで集まるのが、土ぼこりにまみれた半裸の子供たち、疥癬もちでかすみ目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げまわったり、ひなたでまばたきしたりしている。路地にはまた「小間物」とアニリン染料で染めたけばけばしい色の飴を売る行商人もいて、溝の上に板をさし渡し、おそらく1ドル程度の品物を並べている。とはいえソウルにも「大掃除」はあり、漢江の砂地や渡し船の上や麻浦からソウルにいたる路上で、みぞの中身を荷かごに積んで運ぶ牛を数えきれないほど見た。こういった溝に隣接する家屋は一般に軒の深い藁ぶきのあばら家で、通りからは泥壁にしか見えず、ときおり屋根のすぐ下に紙を張った小さな窓があって人間の住まいだと分かる。またみぞから二、三フィートの高さに黒ずんだ煙穴がきまってあり、これは家の床を暖めるという役目を果たした煙と熱風の吐き出し口である。終日粗朶を高々と積んだ牛が市内には入ってきて、六時にこの末の粗朶は住民の食事の支度と暖房に用いられ、ソウルの横町という横町をかんばしいにおいの煙で満たす。路地に煙のたれこめる規則正しさは感心するほどである。かわら屋根の反り返った上流階級の家庭でも、通りから見た体裁の悪さという点では何ら変わりがない。
どこがおかしいのかと思う人もいるだろう。重要なのは削除された冒頭の文章である。
城内ソウルを描写するのは勘弁していただきたいところである。
北京を見るまでわたしはソウルこそこの世でいちばん不潔な町だと思っていたし、
紹興へ行くまではソウルの悪臭こそこの世でいちばんひどいにおいだと
考えていたのであるから!
という部分だ。省略してあろうがなかろうが文意には影響ないように見えるかもしれない。
だが、城内ソウルを描写するのは勘弁していただきたいところである。
という一文には(6)という原注を示す印がついている。
この原注が問題なのだ。原注を正確に引用する。
(6)それがまったく様変わりした。第三十六章に記したように、税関長がソウル市長の熱意ある賛同を得て、驚くべき環境整備と衛生改革を行った。整備がそのまま続行されれば、ソウルは旅行客から贈られた汚名を返上できそうである。
第三十六章の名前は一八九七年のソウルだ。(6)の原注に関連した部分を引用する。
ソウルの多くの区域が、なかでもとくに《南大門》と《西大門》の付近が文字どおり変貌している。両わきに石積みの深い運河があり石橋のかかった、狭いところで幅五フィートの大通りは、かつてコレラの温床となった不潔な路地のあったところである。狭かった通路は広げられ、どろどろの汚水が流れていたみそは舗装され、道路はもはやごみの「独壇場」ではなく、自転車が広くてでこぼこのない通りを「すっ飛ばして」いく。「急行馬車」があわられるのも間近に思われ、立地条件のすばらしいところにフランス系のホテルを建てる構想もある。正面にガラスをはめこんだ店舗は何軒も建っているし、通りにごみを捨てるのを禁止する規則も強化されている。ごみや汚物は役所の雇ったそ掃除夫がしないから除去し、不潔さでならぶもののなかったソウルは、いまや極東でいちばん清潔な年に変わろうとしている!(イザベラ・バード「朝鮮紀行」、講談社学術文庫、543、545~546ページ)
この大変身は四カ月前から行われており、意欲的で有能な税関長の発案をワシントンで市政運営について学んだ知性と手腕の市長李釆淵氏が支持したものである。氏はまれに見る慎み深い人で、市内環境改善をいっさい自分の功績とはせず、すべては税関長マクレヴィ・ブラウン氏のおかげによるものだと語っている。
古都の趣をだいなしにしていた、路地には悪臭が漂い、冬にはあらゆる汚物が堆積し、くるぶしまで汚泥に埋まるほど道のぬかるんでいた不潔きわまりない旧いソウルは、みるみる地表から姿を消そうとしている。とはいえ、これはじつのことろはおもに旧に復しているのであって、一八九六年の秋まで残っていた暗くて狭い路地は、広い道路を徐々に浸食してできたものにほかならず、その路地を撤去したら道路の両側の水路があらわれたというわけである。
当時行われていた(いまも行われている)のは住居を取り壊して持ち主に補償し、古い運河を修復して、住宅は運河から一定の距離を置いたところに建て直すようしどうすることだった。広くて立派な大通りの両側にはこのように立て直したかわら屋根の家々がわらぶき屋根にとってかわった。外壁の下部はたいがい細木を編んだものにかわって石が使われているし、住宅や店舗の正面には装飾を入れたりこぎれいにしようとする努力が明らかに見られ、また床暖房の煙を直接通りに吐きだしていた煙穴には、いまやアメリカ製灯油缶でつくったぴかぴかの煙突がとりつけられている。
大通りになかには現在その一部をプロムナードにしているものもあり、広く利用されている。商業は以前よりずっと活発で、商店には陳列品も増えてはるかに盛況を呈しており、これを気に済物浦に支店を開いた香港上海銀行が首都に進出するのも間近であろうと思われる。
とはいえ、改善整備されたのは大通りのみにどまらない。狭い道路の多くが道幅を拡張し、砂利を強いて両側に石の側溝がつくられている。なかには住民自身が工事したものもある。そのほか、ソウル独特の悪臭が消えた。衛生規則が強化され、また家の前の積雪は除去することが全戸に義務づけられるところまで教化が進んでいる。その変身ぶりは大変なもので、私は一八九四年当時そのままの姿の残るスラムを写真に撮ってこの章に添えられればと探してみたが、そんな場所はどこにも見つからなかった。とはいえ、首都修復は朝鮮式の方法に則ったもので、西洋化されているものではないことを念頭に置かなければならない。
日韓併合は1910年のことだ。
イザベラ・バードが朝鮮を訪れたのは1894年から97年までである。
大日本史 番外編 朝鮮の巻で引用してある部分は1894年の朝鮮の姿としては正しいが、
1897年には過去の産物となっている。
しかも、この変化をもたらしたのは日本人ではない。
植民地時代の統治が正しかったかどうかを検証するための材料として、
朝鮮紀行のこの部分を引用すること自体に無理がある。
朝鮮紀行を読めば、これは普通に分かることである。
この私の印象が間違っていると感じる人は少ないと思う。
少なくとも、この部分で朝鮮紀行を引用しなければならない必然性はない。
「ぢぢ登場の巻」補足資料の「植民地統治の検証 1」の冒頭には、以下の表記がある。
コリアンや左翼マスコミの主張は何だか変だぞ。と思ったことはありませんか?自分達の基準や利害を優先して、嘘と誇張で日本の国益に反することを平気で行っているようにも見えます。そこでこのページでは、彼らの主張と相反する資料を集めて編集し、別の立場から見てもらうことにしました。あなたは第三者として双方の違いを比較検討して、正しいと思われるものを自分の意見の参考としてください。
事実を正確に引用せずに、比較検討できないのではないかと思う。
こうした表現にも私は悪意を感じる。
やたらと長い話になってしまった。
次回からは本当に普通の在日韓国・朝鮮人の話を書いていきたい。
以下にもう一度、朝鮮紀行を示しておく。
はじめまして。コメントありがとうございます。歴史の話は難しいですね。ある意味で歴史は、さまざまは人から利用され続けている気がします。
当時のソウル南大門付近についてよく引用される写真が1897年と記載してあるのを見れば、
イザベラ・バードはこの写真のような風景を見て韓国が以前よりも寄りよく変貌を遂げたと理解し記述したと、
解釈する事もできるのでは。
確かに舗装されているようにも見えますし。
当時の朝鮮の実際のところがよくわからないので識者の方の考えを知りたいです。
はじめまして。コメントありがとうございます。私も当時の朝鮮のことはわかりません。そして、大日本史 番外編 朝鮮の巻を読むだけでは、朝鮮の実態は分からないでしょう。朝鮮であれ、日本であれ歴史を知ろうとするのは手間のかかることだと思います。
ttp://d.hatena.ne.jp/Jonah_2/20050323
ジェームス・スカース・ゲイル(James Scarth Gale)
(前略)それにマラキ書でいう「洗濯人」でさえ、夢に見たこともないほど真っ白に仕上がった靴下を
組み合わせる。それはまことに世界でただ一つの美しい履物だった。こうしてゆったり歩くと、長衣のせいで
背丈が数インチは高く見え、これを見た西洋人をすっかり驚かせたものだった。
パーシヴァル・ローウェル(Percival Lowell)
それ〔朝鮮式の家屋〕はほかに類がないほど独創的である。これまでにドーム、ミナレット、教会の尖塔など
いろいろと見てきたが、これほど簡素で美しいものはない。(後略)
パウル・フォン・メレンドルフ(Paul von Moellendorff)
朝鮮人は日本人よりすぐれており、西洋の科学を習得するという点で、やがてこの島国の人間を
追い越すだろうと堅く信じる。
ヘンリー・サヴェジ-ランダー(Henry Savage-Landor)
朝鮮人は普通野蛮人のなかに入ると言われているが、偏見にとらわれないで彼らの性質を考えてみると、
私はいつも彼らがきわめて知的で知識の習得も速いことにびっくりさせられていることを白状しなければ
ならない。彼らにとって、外国語を学ぶのはまったくたやすいことである……彼らはすばらしく鋭い分析力
を持っているだけでなく、理解の速さも驚くほどである。
アンガス・ハミルトン(Angus Hamilton)
〔ソウル〕の通りは壮大で広々としていて、清潔で見事につくられており、排水も十分だった。狭くて汚い
路地は広げられ、排水溝にも蓋がかぶせられて、車道の幅も広がった……ソウルは遠からず東洋で
もっとも進んだ、興味のある、清潔な都市になるであろう。
「韓国の自然な発展が日本の支配によって妨げられた」と考えるとどうでしょう?
日本統治前は朝鮮の衣服や建築の美しさや彼らが外国語が得意であるという事実がある
はじめまして。コメントありがとうございます。引用された内容がすべてとは思いません(孫引きなどもあるようですし)が、大日本史 番外編 朝鮮の巻が決して真実を淡々と記したのではないことを示す根拠の一つにはなるかと思います。
ただ、西洋人から朝鮮人と日本人の比較にはあまり意味がないと思います。当時は今よりも、東洋全体に対する偏見が強かったでしょうから(今でもそれなりには残っていると思いますが)、このことが文章に影響を与えているのではないでしょうか。
はじめまして。コメントありがとうございます。連休中、ずっと仕事をしているうえ(ややのんびりペースではありますが)、読みかけだった小熊英二さんの「民主と愛国」を読んでいたら、ほとんど時間がなくなっていまいました。朝鮮紀行はまだしっかりとは読めていないので、ご興味には答えられそうにありません(といっても、朝鮮紀行の記述の範囲内になりますが)。朝鮮紀行をご自分でお読みになるのも一つの方法ではないかと思います。
これってよく見るのだけど、実は日本統治後の描写なんだよね。
>>ソウルは遠からず東洋でもっとも進んだ、興味のある、清潔な都市になるであろう。
「~なるであろう」つまり、まだなっていないということ。
それと、朝鮮も沿岸部の大都市は豊かで清潔だったといわれています。
おなじネット系保守でも
http://www.interq.or.jp/sheep/clarex/
のほうが勉強になります。
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ロシアによる韓国の”保護化”に辣腕を振るったウェーベルであったが、1897年9月、メキシコ公使として転出した。後を元駐日公使館書記のド・スピエルが引き継いだが、これを契機に韓国情勢に変化が生じた。
まずは新しく赴任するロシア人財務顧問(「露韓密約」による)アレクセーイェフの来韓にあわせて、既にいたイギリス人総税務司ブラウンを解雇させようとした。ブラウンは韓国の財務顧問として緊縮財政を実施し確かな業績をあげていたのであるが、収支に厳格で宮廷費を高宗らの意のままにさせなかったので、高宗や官僚らはブラウンを嫌っており、ロシアとの利害が一致した。
「朝鮮政府に国庫と税務の顧問として採用されたブラウンは確かな業績を挙げていた。『一八九七年[明治三○年]四月、ブラウン氏の骨折りで朝鮮は負債三○○万ドルの三分の一を返済出来た。そして今年初めには、負債を完済し得た」(一八九八年[明治三一年]五月一四日、タイムズ)ほどである。朝鮮政府としてはブラウンを解雇する理由はなかったが、歳出に厳格な事が国王にとっては不満の種となる。『国庫金を儲け口とみなす全ての連中にとって、ブラウンは厄介者だった。国王でさえ濫費は抑えられ、皇室の計画も後回しにされ、むだな浪費は有益な目的に変更された』(F.A. McKenzie 「Korea's Fight for Freedom」六四ー六五頁)
国王が閔后を追慕する記念堂を計画すると、それより道路を先につくるべきだと主張し、着工は延期された。朝鮮が負債を返済出来たのは、こうしたブラウンの指導によるものだった。」(『海外の新聞にみる日韓併合』280頁)
「韓国の全税関収入はこのブラウン氏の管轄下にあり、彼の同意と署名なしには一銭たりとも消費することはできなかった。それで、彼のやり方は、韓国政府の官僚たちに不快なショックを与えた。時が立つにつれて、彼は、関税収入のなかからの、彼の同意しない支出に対して許可を与えることを拒絶するようになった。彼は給与を厳しく制限したし、また給与の額に相当する勤労を人びとにさせた。高官かちが、自分の近親の者を、給与は相当な額にのぼるが仕事はあまりしないような地位に任命しようとするような時には、ブラウン氏はそれに介入した。
そして、彼は、自分がアレクセーイェフ氏と任務を分担するかあるいはその補佐役として任務に当たるかどちらにしてはどうか、と水を向けられたとき、断固としてそれを拒否した。韓国政府の官吏たちは、これこそ彼の任務剥奪の好機であるとみて、ブラウン氏の財政管理に不服従を示したが、彼らのその行動はロシア側からそうするように鼓舞されたものであった。アレクセーイェフ氏は彼ら全員の給与を倍増した。銀貨の箱がいくつも国庫から運び出されて、宮廷の官吏たちにばらまかれた。ブラウン氏の手によってそれまで堅実に運営されてきた造幣局は、財政に関して奇妙な実験を行いはじめた『朝鮮の悲劇』90ー91頁)
10月26日、韓国政府は英国総領事ジョーダンに、ブラウンの解雇を通告した。対して、イギリスは最後通牒まで出して猛反発をした。
はじめまして。コメントありがとうございます。
>ぷーさん
はじめまして。コメントありがとうございます。
ともあれ、「大日本史 番外編 朝鮮の巻」の引用の仕方自体に問題があるのは間違いないことでしょう。ぷーさんのご紹介されたホームページも、勉強になるといってよいものなのか、結論が先にあって事実を都合よく集めたものでないのか、個人的には慎重であるべきだと思います。
日本の統治が・・と朝鮮紀行を引用するのはxですね。
「李氏朝鮮の統治ってダメじゃん」
という文献としてとどめるのなら問題ないと思いますが。
後段のコメントについては
気持ちはある程度わかりますが、歴史資料を漁れば
当時の李氏朝鮮王朝には民衆に対する
真っ当な統治能力が欠如していた
外交上の振る舞いも ダメダメ
というのは、よほど朝鮮びいきでなければ
さすがに意見の一致するところだと思います。
自力で近代化も 貨幣経済への移行もできなかった
事が、後に日本に「強制された」近代化の痛みを
大きくすることにもつながったわけで。
「近代化することが必ずしもいいことではない」
わけですが、その反対側として
念頭に置くのは原始共産主義社会であって
李氏朝鮮はそういう素朴な平等社会とも異なりますからね。
どうも。コメント見逃してました。
>後段のコメントについては気持ちはある程度わかりますが、
私の書き方が婉曲でわかりにくかったようです。
引用元のホームページに何が書いてあるかではなくて、そのホームページそのものに違和感を感じただけです。保守でもそうでなくてもどっちでもいいんですが、ネットに書いてあることを簡単に信じるべきではない、と言いたかっただけです。
それは同意です。
もちろんマスコミも、です。
たびたびどうも。マスコミの信頼性には厳しい人が、ネットの情報にころっと引っかかったり(あるいは信じたがったり)することがあります。世の中、そんなもんなんでしょうか。
「第三十六章の名前は一九八七年のソウルだ。」は一八九七年ですね。飛ばし読みしてたので綺麗なのは当たり前じゃん...ん?!状態で読み直してしまいました。本題と関係なくて失礼。
在日たたきをしているのは、
右翼だけではなく、
公安や警察官もいるよな。
日本の右翼や公安や警察官はそれを望んでるんだし、
それをやった結果を早く突きつけたほうがいいよ。
日本の下っ端は、馬鹿ばっかりだしな。
軍人の影響を受けている奴は、
頭悪いからな。
現に、東アジアでのけ者になって、
莫大な中国利権にありつけなくなってるはずだが?
>>naoさん
冷静な意見かどうか、私には未だにわかりません。(どちらかと言えば、偏っているのかな)
嫌韓や反韓ではないようですけど。
新しいエントリーが立たないので、少し残念です。
knjさん、お元気ですか?
ご指摘の通りです。訂正しておきます。
>ムッソリーニの最後はどうだったけ?さん
遅くなりました。コメントありがとうございます。
>naoさん
遅くなりました。コメント、また応援してもらって本当にありがとうございます。
>ももさん
遅くなりました。コメントありがとうございます。とりあえず再開しました。
再開前よりはもう少し、自分らしさを前面に押し出すことになるかもしれません。
1.15世紀の李朝、ハングルを作った国王世宗の治世、中国で貨幣が流通しているのを知った世宗は、中国から貨幣を輸入して、「貨幣を使用しない者は処罰する」という法律まで作って使用を強制しようとしたが、結局失敗している。それは農民と官僚が中心の社会で、物々交換が行われていたからである。(「世宗実録」より)
2.12世紀の日本、平家の治世、平清盛は周囲の反対を押し切って、中国から貨幣を輸入して流通させようとしたところ、大流行したという記録が残っている。平清盛は平家物語のせいで暴君ということになっているが、社会の要求するものを見抜いた優れた政治家でもあった。(「詳説日本史研究」より)
3.15世紀の世宗の治世、李朝から役人が来日して、見聞したことを漢文の日記に書き残している。それによると当時の日本(室町時代)では、貨幣が社会の隅々にまで浸透していて、乞食でさえ米を欲しがらず金をほしがるというので驚いているのである。さらに有料の宿屋があり、有料の渡し船があり有料の馬があって、日本では金さえ持っていれば旅ができるというので驚いているのである。(「老松堂日本行録」より)
5.日本で為替の仕組みが出来たのは中世の室町時代である。これは現金を送るのが危険だったためで、証券(つまり紙きれ)を受け取った側が現金化する仕組みであった。(「詳説日本史研究」より)
6.18世紀の日本、徳川吉宗の治世、大阪の堂島で、米がいまだ収穫されていない段階での権利の売買、つまり先物取引が世界で最初に始まったのである。(NHK出版「マネー革命」より)
7.19世紀末の朝鮮、貨幣が流通しているのはソウルとその周辺のみであり、地方に行くとそれさえも流通しておらず、物々交換が行われているのである。(イザベラバード著「朝鮮紀行」より)
はじめまして。コメントありがとうございます。
ご無沙汰してます。
機械的に入力されたspamらしきコメントを削除しました。