ママになってもバリバリ働きたい。でもできない…。
悩みながらも、管理職として甲府放送局に赴任。
家族みんなで大引っ越し。
女性も本当に活躍できるのか
Kikue Matsuo松尾 貴久江ディレクター甲府放送局 放送部 副部長
この記事は2017年に取材し、所属も当時のものです。
1995年入局。「難問解決!ご近所の底力」などの番組制作に励む。
二人目の子どもを出産、復職後「多様な働き方プロジェクト」に参加。家族を連れて管理職として甲府放送局へ異動。
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1995
初任地は宮崎放送局。ラジオドラマや、
入局
「ETV特集」などのドキュメンタリー制作に没頭する。宮崎での新人時代はどうでしたか?
松尾とにかく番組作りという仕事がおもしろかったです。名刺1枚でいろいろな人に会えるし、社会に投げかけたいことがあれば仕事を通してそれが実現できる。番組制作は根を詰めれば詰めるほど、精度が上がっていくと感じていましたし、番組制作の基礎を身につけるために試行錯誤の日々。当時は「ガンガンやれー!」という時代でしたね。
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2006
東京の制作局で、教育ジャーナル番組や、
東京に異動
しかし・・・
スタジオ情報番組「生活ほっとモーニング」
「難問解決!ご近所の底力」などの制作に励むが、婦人科系の病気が見つかる。26歳で東京の放送センターに異動になりました。「難問解決!ご近所の底力」は総合・ゴールデンの番組で、スタジオに一般の方をお呼びして討論する番組でした。社会や地域の問題を解決するような企画を考えて、映像化して、いろいろな人の思いを一つの番組に注ぎ込める。正解がない分、難しく、産みの苦しみも大きかったのですが、入局して10年ちょっと、番組作りの面白さを味わいました。
33歳で仕事も面白くて、
やりがいも感じていたのに、
病気が見つかったんですね。松尾仕事で走り続けてきたので、身体にきたのか、婦人科系の病気が見つかって、このままだとどうなるんだろうと考えました。やや人生を見直したというか…。
病気もあったので、仕事を少し軽くしてもらったのですが、心の中では忸怩たるものが。もっとバリバリ仕事がしたいという思いと、できない現実という葛藤がありました。
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2008
仕事ばかりの人生でよいのか、と考えるようになり、結婚、出産、育児休職。
結婚・第1子出産
しかし結局、仕事がしたくてたまらず、復職したが…復職して、仕事と子育ての
両立は大変でしたか?松尾同じ部署、同じ番組の担当に復職しました。ところが、時短勤務で番組を作るのは本当に大変で。フルで働いているひとに比べると、圧倒的に労働時間が足りないんです。
「ご近所の底力」は、ゴールデンの45分番組。絶対にクオリティは下げられない。復帰後最初に私が考えた企画が、「子育てで困っている一人親を地域で支える」という番組でした。自分も母親になったし、はりきって取り組んだのですが、大変難易度の高いテーマでした。個人のプライバシーなどクリアしなければならない問題がたくさん。それなのに、自分は時短勤務で早く帰らなければならない。今考えると非常に無茶でした。結局一人ではたちゆかなくなって、後輩ディレクターに手伝ってもらって、なんとか番組を出しました。自分でもとても反省し、もう無理はできないんだということを思い知りましたね。
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2013
「負担の軽い仕事」では物足りず、かといって頼れる親もいないので、
仕事の抑制時期
~第2子出産
ファミリーサポートの方などにお願いして残業も復活。
不妊治療を経て二人目を出産、育休。「負担の軽い仕事」には
抵抗があったんですか?松尾職場としては配慮して、軽い仕事の担当にしてくれました。ディレクターの仕事の中で、一番負担が重いのが、取材に行って編集してVTRを作るということ。スタジオパートの担当であれば、収録の台本を書く、比較的負担が軽い仕事になります。これは組織の「配慮」で、感謝しているんですが、同時に「排除」されたように感じてしまう面もありました。
母親職員は、子どもが小さい間は短時間しか働けないことが多く、子どもが熱を出したら突然帰ってしまう。上司としてはやっぱり「負担の重い責任ある仕事は任せられないよね」となっていきます。放送が出なかったら大問題ですし、クオリティの低い放送を出されても困る。制約のある人を軽めの仕事に寄せていく。その方が楽だろうという「配慮」。これが、いわゆる“マミートラック”ですね。
とはいえ、働く時間の制約がある以上、負荷の強い「大型の番組」にチャレンジすることもできず、その結果として仕事のスキルが上がっていないという自覚もあり、焦りと煩悶の時期でした。そして、「負担の軽い仕事」をしつつ、今度は不妊治療も受けていたんですね。
松尾そうです。不妊治療は時間もお金も身体の負担もかかります。毎日病院に注射を打ちに行かなければいけない期間もある。
現実的に考えて、負担の重い番組には関われません。当時30代後半で、年齢的にも今産まなければと思って、時短勤務をしながら不妊治療も受ける日々でした。
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2014
復職後、制作局内で「多様な働き方プロジェクト」に参加。
復職・Dプロ参加
他社で両立支援をする方々ともつながり、
「育児も仕事も、両方できるんだ!」と思うようになる。二人目のお子さんも産まれ、
復職後の働き方について悩みましたか?松尾育休中に、「負荷の強い仕事と、子育ての両立」を本気で考えるようになりました。“個人の問題は社会の問題”と言いますから、おそらく私と同じように悩んでいる人はいっぱいるはずだと思っていた頃、NHKで「多様な働き方プロジェクト(Dプロ)」が立ち上がりました。働く時間や場所に制約のある職員でも活躍できる方法を探ろうというプロジェクトです。さっそく局内公募に申し込みました。
Dプロではメンバー5人で協力して、「育休から復職前後の職員向けのセミナー」などを開きました。復職当初はどう働いたら良いかわからない。夫のサポートも必要なので、母親職員やその夫を集めてセミナーを開きました。こうすれば時短でも働けるという、先輩の知恵を伝えるセミナーです。現在はNHK研修センターを通して公式セミナーになっています。
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2015
「クローズアップ現代」「NHKスペシャル」などを制作。
管理職を目指す
管理職を目指し、仕事の幅を広げていく。
制作局から初めて報道局へ異動、「ニュース シブ5時」でデスクを務める。Dプロの活動が、松尾さんにとっての
転機になったんですか?松尾自分一人じゃないと分かりました。制約があることで、劣等感が生まれて、あまり表に出ないようになってしまうことがありますが、そういう人たちが繋がれば、組織にも意見が言えるようになります。
女性にもっと活躍して欲しいという社会の流れも追い風になりました。人口減少で労働力が不足していく中、母親職員が仕事をやめてしまうことは組織にとってもマイナスで、制約があっても長く働いて欲しいという時代になってきた。
管理職を目指したのもこの頃です。NHKも、もっと女性が管理職にならないと変わらないなと思ったんです。以前は管理職なんて考えてもいませんでした。ひたすら番組制作するのが好きなタイプでしたから。それだと、自分は楽しいけれど、組織は変わってくれないですからね。
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2016
甲府放送局へ管理職として異動。
甲府放送局へ
家族を連れての大引っ越し。なんとか慣れてきつつある。管理職として甲府放送局へ
赴任されたんですね?松尾そうです。管理職を目指したときに、当然地方局への異動もありうるだろうなと思っていました。夫は東京のメーカー勤務なので、私が転勤になったらどうなるんだろうと漠然と不安はありました。私たち夫婦はお互い地方出身なので、子育てを祖父母に頼ることができません。家事・育児のローテーションに夫も入っていて、最も重要な戦力なので、子連れ単身赴任は無理だろうなと思ってました。甲府放送局なら、夫も都内の会社にギリギリ通えるので、ありがたい異動先でした。家族みんなで甲府に引っ越してきました。
一番困ったのが、甲府にはベビーシッタービジネスが東京ほどは多くなかったこと。需要が少ないので、ビジネスとして成り立たないのかもしれません。現在は、地元の女性を知人のツテで紹介してもらい、子育てをサポートしてもらっています。
管理職になると、緊急対応など責務が増えます。番組を仕上げる最終責任者なので、何かトラブルが起きたら対応しなくてはいけない。突発的な場合もあるので、子育てのサポートなしには仕事と両立できません。今は週3日ぐらい、その女性に子どもたちを預けて、週2日は18時頃に帰らせてもらっています。地方放送局の管理職としては、異例だと思いますが、上司や周囲のみなさんが理解して、支えてくださっています。
とはいえ、夫も転勤がありうるので、生活は常に変動の可能性があり、自転車操業、「走りながら考えよう」という感じです。NHKで女性は活躍できていると思いますか?
松尾私は男性と肩を並べて楽しく仕事をしてきましたが、子どもを産んで母親になったら、男性と対等じゃなくなった気がしました。日本は、まだまだ家事・育児を女性が担いがち。それでも、世の中も、NHKも着実に変わってきています。NHKは女性管理職を増やす具体的な数値目標を掲げています。
私のような制約のある者が管理職になれる時代です。子育てだけじゃなく、介護、病気などいろいろな制約のある人たちが、女性でも男性でも活躍できるように、みんなで働き方を工夫していこうという動きが始まっていると思います。
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