copenhagenという動詞がある。
宣戦布告なしに敵国の港湾を急襲して艦隊を攻撃するという意味で、用例をみると、辞書には、たいてい to copenhagen a fleet と書いてあります。
ナポレオン戦争中の1807年10月21日、イギリス艦隊は、自国の船の北海の航行を保全するために騙し討ちにコペンハーゲンを急襲して、町を砲撃しデンマーク=ノルウェーの連合艦隊を破壊・拿捕して無力化してしまう。
1803年から1815年まで続くナポレオン戦争で起こった海戦のなかでも重要な海戦のひとつで、当時はもちろん、いまでも、世界中、海軍士官なら誰でも知っている戦いです。
太平洋戦争の歴史のなかでも最も奇異なのは開戦劈頭の真珠湾攻撃で、子供のときに初めて読んで、違和感があるというか、なんだかとても奇妙な気がしたのは、日本の海軍と政府がオアフ島奇襲前の宣戦布告に異様なこだわりをもつところで、後年、日本語で日本側の記録を読むようになると、その訝る気持は、ますます強くなっていった。
イギリスという欧州の田舎に育った子供として、当然、普段ミニチュアの軍隊を並べて模擬戦を戦わせたり、部屋のカウチに寝転んで午後のあいだじゅうビスケットをかじりながら夢中になって読み耽ったりするのは欧州の戦争史だったわけで、その頃は、日本の戦争は、遠くで起こった、植民地保全のための植民地軍を主体とした英国の戦いの敵国が太平洋で起こした戦争で、子供の単純な頭なのであたりまえだが、太平洋アジア戦域の戦争であるといっても、読んでいるほうは、欧州の戦争の文法で戦争を俯瞰していた。
それでも例えば、日本海軍が日露戦争中に旅順港とロシア艦隊をcopenhagenして勝利を収めたことは知っていました。
一般に、海軍が他国の根拠地港を攻撃するときには宣戦布告をしないほうが普通で、これには陸の要塞砲と艦隊の砲撃戦では、ほぼまったく艦隊側に勝ち目がない、というおおきな軍事的な理由がある。
相手が、よっぽどダメな軍隊で、いっちょう恫喝してビンタはっちゃるか、というような気分で、いわば「オラオラ戦争」を仕掛けるときには、宣戦布告をして、我が国の威風堂々、天に代わりて正義をなす、このスポットライトを浴びたかっこよさを見てね、というつもりがある場合には、サッチャー首相がやったように、宣戦を布告しておいて、えっちらおっちら艦隊を移動させて、パンパカパーン、世界の注視のなかでフォークランド諸島を攻撃するというようなことはあるけれども、それは政治的なショーとしての戦争の演出であって、国運を賭けた、いちかばちかの戦いで宣戦布告をするようなバカな海軍はいない。
だいいち子供のときに、いちばん「日本人のヘンテコさ」として意識されたのは、例えばパールハーバーに最初の魚雷が投下される一瞬の、30分前に宣戦布告書が交付されれば正義正統の開戦を主張できると考えていたようなところが日本側にあることで、近代の戦争の常識に照合して、そんな子供の屁理屈みたいというか、
すんごい早口で「ぼく、これからブツからね!」と言い様、相手の子供のほっぺたをひっぱたくような宣戦布告では、どっちにしろ、ものごとには実質というものがあって、狡いのはおんなじこっちゃ、などと考えて不思議な気持になったのをおぼえている。
日本の本には、魚雷の浅深度での暴発を防ぐために装着させた魚雷の姿勢を安定させるための安定装置を、なあーんとなく、真珠湾攻撃のために開発された日本の技術であるように書いてあるものが多いが、空母加賀が取りにいって、真珠湾攻撃に間に合うように急行して配ったあの安定装置は、超低空を突進して海面すれすれで魚雷を投下する攻撃方法と並んでタラント空襲のためにイギリス海軍が発明した技術だが、そのタラント空襲でも、イギリス海軍はcopenhagenな伝統に則って、攻撃予告をして、「これから、おまえんとこの戦艦をやっちゃるけん、首を洗って待っておれ」というようなことは、いっさいやってません。
内緒内緒内緒で、そおーと、そばによっていって、ソードフィッシュという、駆逐艦のほうが速度が速そうな、超鈍足な複葉(!)雷撃機を、ぷおっと空母から放って、戦艦コンテ・ディ・カブールを撃沈、超弩級戦艦ヴィットリオ・ヴェネト級を大破、戦艦カイオ・ドゥイリオも座礁着底させてしまう。
でも、それは開戦後の港湾攻撃で宣戦布告とは話が違うんじゃないか、とほっぺを、ぷっとふくらませた、そこのきみ、ところがそれこそが要点で、おなじことなんです。
真珠湾攻撃時の日本帝国の宣戦布告書交付への徹底的なこだわりの奇妙さを説明するためには、宣戦布告そのものの定義や歴史を、ここで述べるべきなのかも知れないが、めんどくさいので、やめて、宣戦布告が海戦よりも、よりおおきな意義をもつ陸戦においてさえ、ドイツのポーランド侵攻、やはりドイツのバルバロッサ対ソ連侵略戦争、日中戦争、イタリアのエチオピア侵略(第二次)どれでも宣戦布告などまったくなしで始まったことを書いておくくらいで、ごまかしたい。
吉田茂の第4次内閣は、いまから見ると不思議な理由で提出された内閣不信任決議案が可決されて、吉田茂が衆議院を解散したことによって終焉を迎える。
西村「総理大臣は興奮しない方がよろしい。別に興奮する必要はないじゃないか。
吉田(無礼なことを言うな!)
西村 何が無礼だ!
吉田(無礼じゃないか!)
西村 質問しているのに何が無礼だ。君の言うことが無礼だ。(中略)翻訳した言葉を述べずに、日本の総理大臣として答弁しなさいということが何が無礼だ! 答弁できないのか、君は……
吉田(ばかやろう……)
西村 何がバカヤローだ! バカヤローとは何事だ!! これを取り消さない限りは、私はお聞きしない。(中略)取り消しなさい。私はきょうは静かに言説を聞いている。何を私の言うことに興奮する必要がある」
という、社会党議員西村栄一の、はてな人か往年の2チャンネル人が得意な相手を攻撃する常套手段そのままのやりとりに吉田茂がひっかかってしまう。
まず失礼なことを相手に言う。ただし、言質にとられるような単語を避けます。
相手がいちばん怒りそうなことを述べる。
相手が日本語社会では過敏に忌避される言葉、ここではバカヤローと小さくつぶやくことを、おおきく採り上げて、相手が失礼であると騒ぎ立てる。
最近、日本語ツイッタではアカウントが凍結される例が多いようだが、いずれも、相手のこの手にひっかかって、無用な世故に長けた品性が卑しい側が、品性がしっかりしている側が凍結になってしまう例が多いのは、この日本社会の、かつて筒井康隆によって言葉狩りと命名されたような、この「喧嘩単語忌避症」によっている。
ははは。
真珠湾攻撃時の宣戦布告と、バカヤロー解散と、日本語ネットの議論ルールに何の関係があるんだよ、わけがわからない、とつぶやいたきみ、このみっつとも、同じ日本語人の思考の特殊性に基づいている、いわば、おなじことであるのが見えませんか?
10年間、日本語と付き合ってみて、よく判ったのは、「日本語世界では実質よりもルールや型のほうが大事である」ということでした。
侮辱的なことをさんざん述べて、嘲って、相手を言葉によって嬲り続けて踏みつけにするようなことを面と向かってやれば、英語社会では殴られる。
「暴力は絶対にいけない」という社会のルールはおなじだが、英語社会では、なぜか初めの一発は不問に付されてしまう。
倒れた相手を蹴りつけたりすれば、そこから先が暴力として意識される範疇で、屁理屈と正義の区別がつかない傾向が色濃くあるアメリカ人でもなければ、ま、たいていの場合、すぐそばにおまわりさんがいても、それ以上カッカしないように止めに入るくらいで終わってしまう。
暴力というよりも相手への失礼に対するconsequence だと強く意識されるからでしょう。
日本なら、どうなるか、警察が呼ばれ、「おまわりさん、このひと、ぼくをぶった!」になって、留置場行きではないか。
すくなくとも暴力をふるった側が絶対に悪いといわれて、人間ごと永久アカウント凍結になってしまうかもしれません。
以前、日本語には語彙としてintegrityが存在しないことの不思議さについて、ツイッタのTLで皆で話していたころ、淵源をたどって歴史を遡っていったら、戦前の日本では学校ですら「日本人は、アジア人や西洋人よりも人間としてすぐれているので、アジアにおける仁や、西洋における善のような考えをもつ必要がないのだ」と普通に述べていたことを知って、ぶっくらこいてしまった。
なんじゃ、これは、とおもって、だんだん遡ると、どうやら本居宣長くらいが淵源のようでした。
日本語の議論にはコンテキストやお互いにゴールと意識されているテーマへの軌道修正というものがなくて、ただただ、いろいろに、多くの場合は相手の感情を傷つけることによって失策をひきだそうとする言葉をぶつけあって、さまざまな分野にまたがってリスト化されている社会的な禁忌語をひきだそうとする。
相手が、「このクズ野郎」とでも言ってくれれば、おおよろこびで、これで俺の勝ちだ、とばかりにツイッタ事務局にいいつけて、まとめサイトに自分に都合良く編集した発言を並べて、「ぼく、被害者ですー。このひとが、こんな酷いことを言ったんですー」と言って議論全体をバカヤロー解散に導く。
そこに根本から欠けているものこそ、いまの日本社会の、例えば最近の韓国との関係にみられる、日本人だけに通用する憤慨を支えているもの、社会と言語の中心の、思考の中心となるべき場所に、ぽっかり空いているおおきな空虚で、まるでブレーキが壊れたクルマのような最近の日本社会の自己認識における暴走の原因は、要するに、そういうことでしょう。
そこでは、お互いが議論しあえるような言語は崩壊して存在しなくなっていて、ただ相手に対する好悪の感情のままに、2X6≠6X2であったり、5+7が11であったり15であったりする不思議な社会が出来上がって、加害者が勢をたのんで被害者を加害者として罵り、衆をなせば非道も正義に変わる、いつかみた社会を、すっかり復元してしまっている。
見ていて、言語というものは、おそろしいものだなあ、と感じる。
いまさらながら思考の実質は言語で、言語が建て直されなければ、まともに考えることなんて出来ないのだ、と述べた、ギリシャやインドの賢人たちの言葉をおもいだします。