金山巨石群・岩屋岩蔭遺跡の岩屋を構成する巨石のうち、 東側のE石と呼ぶ巨石には逆向きの北斗七星が刻まれています。
私は天文シミュレーションを使うことで、石に刻まれた年代を推定することができました。
その結果、紀元前5500年の頃の古代人が当時の北斗七星を、石面に刻んだものであるという結果を導き出しました。
これまで、考古学者は 紀元前2800年頃の北極星トゥバンを見いだすため、と推定していました。 それよりさらに2700年を遡る今から7500年前ということになります。
これは縄文時代早期という時代です。
北斗七星の七つの星のうち、柄杓の柄の先から2つ目の星を ミザールといいます。 7500年前、北天に北斗七星がかかり、ミザールが子午線を通過するそのとき、 ミザールの真下(真北)に天の北極があります。
そこで、北斗七星の形を写し取り、水平にパタンと反転する。 それを岩屋岩蔭E石の石面に刻んだのが、裏返しの北斗七星です。
その北斗七星の柄杓の柄、その先から2つ目がミザールで、その真上にE石の最頂部があります。 ここが天の北極を示しています。
古代人は巨石のてっぺんが天の北極になるように北斗七星を刻んだのです。[5]
日月星辰は天の北極を中心に回転しているように見えます。 現在、北極星ポラリスが真北にただ一つ止まっているように輝いています。
ところが7500年前には、天の北極付近に北極星とする輝星は無かったのです。
シミュレーションによると、天の北極には目立たない微妙な光の星が有るような無いような闇の中にあります。
古代人はその暗闇の中を目を凝らして微妙な光を見ようとしていたのではないでしょうか。
なぜなら、その暗闇に神がいると信じていたからです。
微妙な光を見ようとする。省略すると「妙見」ですね。
岩屋岩蔭遺跡は神社の岩やしろになっています。神社の名は「妙見神社」です。
遡って古代を考えるとき、古代人と神の関係は無視することはできません。 「妙見信仰」を遡ると、 縄文時代に我が国では既に「北辰信仰」の形態があり、その後の日本人に脈々と受け継がれて、 仏教とともに「妙見信仰」に習合されています。
「北辰信仰」で検索すると、 北辰信仰の神は、一般的に北極星を神格化した神で、北辰妙見、 天御中主神、 国常立尊らが見受けられます。 このうち「妙見」は仏教の妙見菩薩から 神仏習合により「妙見社」「妙見寺」などと使われています。
岩屋岩蔭遺跡のある地区には、明治8年まで美濃国郡上郡に存在した岩屋村があって、 遺跡と参道付近は、古くから岩屋妙見神社の神域になっています。
祭神は天之常立神 [4]と記載されていますが、取材では別の神の名を聞きます。 『日本書紀』で 天地開闢の際に最初に現れた神とされている、 国常立尊(国之常立神)です。
時の情勢により神の名は表向きの名にする場合があります。
郡上市大和町の明建神社にも神社名と祭神名に関わるいきさつがあります。 ともにミョウケン神社で、中世から近世にかけての郡上藩主の遠藤氏の領地内にあります。 遠藤氏の系図には、妙見菩薩を信仰した千葉氏の名があることから調査を進めると、 妙見の名は郡上市に多く見つけることができます。
「妙見」を遡っていくと、 『世界大百科事典』の「北極星の項[中国の北辰信仰]には「北辰の神」のことを、 中国においては「天皇大帝」、「群霊を統御する最高神」とか「三界を総宰する神格」という解説があります。
最も強力な神として、国の最高権力を持った者に信奉されることになります。 さらに、古代ギリシアのウロボロス、古代インドの亀と自らの尾をくわえた竜、 古代中国から日本に伝わった「玄武」とみることもできます。
神の名がいずれにせよ、岩屋岩蔭に祭られた神は、天界の中心にある。その意味は変わらないものがあります。
日本の古代、縄文人の考えには「神」とともに生活があったと考えると、謎が解けることがあります。
縄文時代早期は 定住生活が出現する頃、竪穴式住居が出現します。 縄文人は火を神とみなします。定住生活の竪穴式住居は、火を守るための覆い屋です。 [1]
土には神がいますし、粘土から形を作り火で焼いて土器ができると、土器にも呪術的な意味を持ち神がいます。 野や森や川から芋、豆、穀類、木の実、魚など旬の食材を"煮る・炊く・蒸す"など様々な料理方法が豊かな食生活になります。
食事は自然の命を戴くことであり、自然の季節を作るお日さまは命の神様です。 縄文の火の神と日の神は平和の神です。 [2]
一方で縄文時代は自然災害の頻発した時代でした。
大雨、洪水、台風、津波、噴火…など。 縄文人はそれぞれ天の神、水の神、風の神、海の神、山の神、などすべての現象が神の仕業と考え、 災害を恐れ怖がり、荒ぶる神の怒りが収まるのをじっと待つのみでした。
ただ、荒ぶる神を悪神とするなら、日本の神の場合は、悪神をはっきり悪神とばかりは言えないのです。
日本神話では同じ神が悪神にもなり、善神にもなります。
一例をあげれば、スサノオは高天原で粗暴な行為をして高天原を追放されます。 出雲へ降りたスサノオは、勇敢な英雄として、土地を荒らしていた怪物ヤマタノオロチを退治しています。
この「変身」の起源は縄文の神にありそうです。
岩屋岩蔭の巨石(E石)の頂部南面は異形の姿をしています。
石を加工して、仕上げているのはわかります。この形が何かを現しているのではないか。 古代人がこの巨石で表現するとしたら、「神」に関わることです。
漢字学の白川静は著書のなかで「文字は神と通信をするための手段」と説いています。
彼らは神と通信をしたいと考えたからに他なりません。
この形をした古代文字で該当するのは何か。[3]
文字を探したところ、甲骨文字の「依」が見つかりました。
異形の先端は「依」の象形文字の形に似ています。写真に文字を重ねてみます。右の合成画像をご覧ください。
白川静著「字通」によると、
依とは、
【依】人+衣。衣は受霊に用いる霊衣。それを身につけることによって、その霊に依り、これを承継することができた。──『字通』 白川静
【衣】襟もとを合わせた衣の形。衣は霊の依るところと考えられ、依の字も霊が衣に憑り添うことを示す字である、──『常用字解』 白川静
「依」の象形文字が浮かび上がった。ということで、「依り代」ということがはっきりしました。
依り代とは、
【依代】(よりしろ) 神霊のよりつく代物。尸童が人間であるのに対して、依代は物体をさす。
どれには神聖な標識として、樹木や自然石、あるいは弊串など種類は多い。 依りは神霊の憑依を意味し、代は物のことであるから、何物によらず神霊がよりつくことで神聖化されて祭りの対象になる。… ──「日本大百科全書」
巨石の先端に「依」の甲骨文字を記したのは、神によりついて下さい。とより強く示しているのです。
その神は間違いなく天の北極に坐す、北辰の神であります。
北辰の神は格別な天の神とされ、その力が強力なるが故、荒ぶれば大災害を引き起こすことになります。
まさに「超・悪神」の性格を持っています。
その「間違えば悪神」を、この岩屋村の古代人は、依り代に引き寄せようと目論むのです。 一つ間違えたらえらいことになります。
巨石の尖端は石を加工して標を造りました。のちに「依」の文字(甲骨文字)になります。
「どうぞ神様、ここにおいで下さい。 巨石で組み上げたお社が用意してあります。どうぞお休み下さい。」 と伝えているのです。
神様は新月の深夜、巨石の北斗七星を頼りに、岩屋の巨石尖端を見つけます。 巨石の北斗七星は神様のための道しるべなのです。
その一瞬、周りは昼間のように明るくなり、 雷鳴とともに岩屋の巨石尖端に依り懸かります。
再び闇に包まれ、そのまま動きを止めて時間が過ぎていきます。
村人らは暗闇に身を潜めて様子を窺います。
やがて薄明で空が白み始めるころ、神様は巨石と巨石の隙間を擦り抜けて、未だ闇苅の岩屋の中に入ります。
その時を待っていたように、村人は手に弓矢を持ち、岩屋に向かって次々に矢を放ちます。 矢の先には石を打って作った鏃が付けてあります。 神様の足を留めるのが目的に思えますが、贖罪の意味があるのです。
一転、今度は、神様のお食事、神饌をお供えします。 御水、五穀の御飯、御塩、魚、野菜、果物 それにお酒。 盛り沢山にお供えをして、お神楽が奉納されます。 神様に対する歓待、 すなわち、縄文時代の土地の人々の、精一杯の「おもてなし」なのです。
おもてなしは、悪神を封じて、善神に返えることが目的です。
強大な力を自然災害とは逆に、自然の恵みをもたらして戴きたいのです。その結果、神様から 「倍返し」を貰おうという訳です。
これまで申し上げました事、その奥にはもっと深いものがあります。それを最後にお話させていただきます。
2001年に、岐阜県と金山町が岩屋岩蔭遺跡の発掘調査を行い、約8000年前の押型紋土器片、石鏃(鏃)、石器などが多数出土しています。
岩屋を利用していた人がいたことがわかり、報告書には「狩猟のキャンプ地として利用していた」とされています。
確かに、"狩猟のキャンプ地"は縄文時代の各地の遺跡に多く見つかっています。
しかし、神様の御坐所という岩屋を、狩猟のキャンプ地では不自然です。 キャンプ地なら、あっても良さそうな、火を使った跡が無かったそうです。
岩屋から出土した押型紋土器は、欠片ばかりで、一つとして元の形はのものはありませんでした。
おそらく岩屋の出土品は神事に使ったものでしょう。
日本の神社では、御神酒を戴いた後、盃を投げて割る神事があります。 盃を割ることで厄除けになるとされています。
縄文時代の石鏃と土器片は、 現在では賽銭に変わっています。
「賽銭」という言葉がでましたので、裏返しの北斗七星にちなみ、これより逆転の発想をします。
賽銭は神様に願いを聞いてもらう祈願の対価に思えますが、 贖罪の意味があります。 贖罪の「贖」は「あがなう」と読みます。 罪をあがなう「贖罪」には神様に罪を代わりに負ってもらう意味があります。 このことから、賽銭には神様に罪を代わりにお願いする罪祓いになり、遡って岩屋の鏃(矢じり)は罪祓いの意味になります。
「鎮魂」ということばを 一般には「死者の魂を慰めること」の意味で使われまが、 「魂」は神の魂のことで、「鎮」には、「押さえて安定させる」という意味があります。 従って、本来は神の御魂を鎮めることです。
神事では、 荒ぶる神が突然、依り代に降臨した場合に、私たちは寛容に迎え、謙虚に振る舞うことで、 神の御魂を鎮める。それが本来の「鎮魂」だといいます。
日本人が縄文時代から持ち続けた、外部からの来訪者を歓迎する心と、信仰とは深い関わりがある、というのです。
岩屋岩蔭遺跡の洞穴状の内部には、石と石の隙間を太陽光がスポット状に光芒が射し込みます。
金山巨石群調査資料室の長期に亘る調査によって、 太陽の天球における動きを観測することにより、正確な太陽カレンダーが読み取れることから、古代の天文台に間違いないと結論づけたのであります。
一方、磐座として、 古来よりお日様と崇める太陽信仰の実例でもあります。
岩蔭の太陽光線はちょうど雲間を通った太陽光が地上に射し込む薄明光線のようです。 「天使の梯子」「天使の階段」とも言います。 階段の上の天の神様とつながる階段ですね。
岩屋岩蔭の内部は光の階段を通して天とつながる聖地なのです。
天使の階段の下を陛下と言います。 階段の下で天の神様と通信をする役目を負い、「陛下」を敬称として申し上げる方がこの国におられます。
まだ記憶にあると思います。 2011年4月27日、宮城県南三陸町おいて、天皇皇后両陛下は海に向かって黙礼をされました。
恐れ多くも窺い知ることができるなら、おそらく神様と交信をされて、神様に私たちの罪と汚れを神様に引き受けて戴く「贖罪」をお願いし、 災害に遭った皆さんを含めて私たちの魂を再生する「魂振り」を願っているように、私は感じました。
岩屋岩蔭には、 岩屋岩蔭には、巨石と遺跡、裏返しの北斗七星、天の北極、北辰妙見信仰、神の依り代、荒ぶる悪神から善神に、天子の階段、太陽信仰などが複合的に存在する聖地であって、 それらは、縄文時代から続く日本人の心の故郷があると思います。
昨年、私は宮崎県の延岡で北辰信仰が1万4500年前にあったと考えられる巨石と巡り会いました。 北斗七星と神に対する「おもてなし」は、日本人のこころに長年にわたって育まれてきたのでありましょう。
それでは、2013年10月15日から九州を廻っている現代の"おもてなし"「 ななつ星」に引き継いで、終章といたします。