ちょっと無理のある萌え絵批判が編集者の岩渕潤子氏からされている。その主張の問題点はネット界隈のオタクの皆さんが指摘していて概ね正論なのだが、岩渕氏の主張を上手く拾えていない気がする。萌え絵を見るとイタリアでのキャットコールを思い出すと言う話や、萌え絵の女性の身体特徴は整形手術を行なう風俗嬢と同じく客に媚びていると言う話*1に、思いやりの原理を過剰に働かせて、岩渕氏の萌え絵批判の論点を整理してみたい。
1. 萌え絵は公共空間に相応しくないは一貫する主張
萌え絵は公共空間に相応しくない。岩渕潤子氏の主張はこういう事だと思うし、一貫しているこれを主張したように思える。道を歩く女の子を冷やかすキャットコールと言うセクハラ行為は、公共空間に相応しくないと言うのは多数からの支持が得られるであろう。萌え絵の女性の身体特徴は整形手術を行なう風俗嬢と同じと言う説明も、性風俗の看板や客引きも公共空間に相応しくないとされ、なんだかんだと規制されていることから考えれば、主張したい事は同じである。そして長い長いネットの論争なのだが、その共通点を辿るとマンガやアニメとは直接関係の無い場*2に萌え絵が用いられている、もしくは用いられていると誤解したことが発端になっており、岩渕氏の議論の原点も同じだと思われる。
2. 人々が不愉快に感じない空間が求められる
公共空間に相応しい、相応しくないはどのように判断されているであろうか。人々の生命や身体に危害があるものであれば、もちろん相応しくはない。現代社会では公害として厳しく取り締まられる。だが、それだけでは不十分だ。キャットコールに身体的な害はないが、やはり問題とされている。公共空間は、そこにいる人々が不愉快に感じないようにしなければならない。創作物の絵柄で不快になる方がおかしいと思うかも知れないが、グロ画像や蓮コラが苦手だという人は少なくないし、それが手塚治虫の画であっても、ラッピング車両に居心地の悪さを感じを受けた事のある人は多いのではないであろうか。
3. 少数の人の不快感も考慮すべき理由はある
人によって好き嫌いが分かれるのだから、少数の人が嫌いと言うだけでは不十分だと思うかも知れない。しかし、好きな絵を見る楽しさと、グロ画像や蓮コラを見せられた不快感のどちらが、その後の10分間の心理に作用するかを想像して欲しい。こういう分けで、公共空間はなるべく多くの人々が違和感を感じないものであるべきだ。すると、無機質な造形なものか、古風で保守的な造形なものが相応しいとなる。同じ裸体でもギリシャ彫刻はよくて、萌え絵のやや煽情的な絵がいけない理由も、芸術作品として認知されている裸婦像は多くの人々が見慣れているので問題ない*3が、萌え絵は必ずしもそうではないからと説明がつく。水着や下着の女性をつかった広告も、多数が見慣れてしまったからと言う理由で、萌え絵の後に回される。
4. 保守的な価値観ではあるが間違いとは限らない
岩渕氏の主張をつなぐとこういう事になると思う。リベラルな価値観ではなく、保守的な価値観に基づいている事に驚くかも知れないが、風俗嬢や女性の絵師に対する職業差別的な物言いとも合致する。
保守的な価値観に基づく主張だからと言って、差別的発言の部分はともかく、その主張の骨子が間違いとは限らない。少なくとも功利主義的には、間違いだとは断定できない*4であろう。「響け!ユーフォニアム」はお気に入りの作品だが、京阪電車のラッピング車両*5には違和感を感じなくもないので、少なくとも私は心情自体は理解できる。「響け!ユーフォニアム」は名作なので、岩渕潤子氏にも観て欲しいなと思っていたとしてもだ。
公共空間といっても程度はあるし、実際に公共空間の萌え絵に抵抗がある人がどの程度いるかは分からない。(これは岩渕氏ではない人の話だが)欧米では…と事実誤認の出羽守論法をされたり、実証的根拠がないジェンダー・ロールの固定化効果などを主張されたり*7しても困惑する。しかし、頭から否定すべき話でも無いように思う。
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