本投稿には”本作の”ストーリーの重大のネタバレは含みません。
しかしこの投稿は、私がこのゲームをプレイして私が感じた見解、そして我々の生きる社会に本作が何を伝えるのかを書いており、ゲーム自体のレビューはしていない。なぜならばそういう記事はいっぱいあるからだ。
松明のごとくわれの身より火花の飛び散るとき
われ知らずや、わが身を焦がしつつ自由の身となれるを
もてるものは失わるべきさだめにあるを
残るはただ灰と、嵐のごとく深淵におちゆく混迷のみなるを
永遠の勝利の暁に、灰の底深く
燦然たるダイヤモンドの残らんことを
『舞台裏にて』
チプリアン・カミュ・ノルヴィッド作
皆さんは聞こえるだろうか、このゲームが我々に訴えてくる声を。
西部開拓時代の終わりを舞台に無法者たちの末路を描く本作が、時代の変わり目を目前に控えた今、発売されるということがどういうことか
このゲームは、マイノリティが声を上げ、今までの世界の常識が通じなくなる世の中を強烈に理解させてくれるゲームだ。
あなたはこのゲームから何を読み取るのか
私の友人にはPCゲーマーが多く、コンシューマーゲーム機を持っている人は少なく、本作をプレイしている友人も少ない。その中で「RedDeadRedmption」からの大ファンであり、西部劇映画が大好きで、心のどこかで無法者にあこがれる私はこのゲームを買わないわけにはいかなかった。誰ともこのゲームのすばらしさを共有できないとしても。
正直言うと、執着するようなプレイヤーじゃなきゃこのゲームを本当に楽しめないだろう。つまり私は、場当たり的に「名作と囃し立てられているから買った」というユーザーには本作をつまらないと思う人もいると言いたいのだ。
なぜつまらないのか。色々とゲームシステムが合わないとかそういう面はあるだろうが、私が言いたいのは至って簡単な話である。それは本作をゲーム内だけの出来事だと自己完結させないことに限る。
本作は、いやロックスターが本作に注いだのは「あまりにもマニアックで偏執された世界」と初代から続く「ウェスタンでありながら全盛期ではなく終焉を描く時代」そして「そこに生きる人々と社会」である。
そして、それらを読み解けるほど我々もマニアックで物好きで、現実世界を知らなければすべて面白く思えない。それが本作だ。
チャプター3冒頭までしか私もプレイ出来ていないが、真摯にこのゲームをプレイした結果感じたことがある。
さて、この三つの点において、最初の偏執的なこだわりを見せる世界について、私からもみっちりと語りたいところはあるのだが、すでに著名なブロガーの方やライターの方が書かれているため、私の出るところではない。
そのため残りの二つと、私がこのゲームをプレイして感じた本作のメッセージを拙筆ながら私の方からお伝えし、共有させて頂きたい。
無法者の時代から取り残された無法者たち
まずは西部開拓時代の話をしよう。歴史的な意味では1860年代に始まり1890年に終わったと言われる西部開拓時代。
その中でも、皆さんが予想しているようなガンマンが馬に乗りながら町を駆け回り、人を引きずってるようなイメージの時代というのは「無法者の時代」といった言葉が合う。
個人的にはこの「無法者の時代のイメージ」は合衆国横断鉄道が走った1869年からジョンソン群戦争のあった1892年までだと考えている。(詳細な事件は本筋には関係ないため割愛させていただく)
初代の話
さて、次に初代の話をしよう。
「RedDeadRedemption」は1910年~1914年を時代設定として持ってきている。つまり上記からは遠く時代が離れ、フロンティアはすべて開拓され、無法者の物語はショーとして消費されるものになり、欧州では戦争の火種が燃え盛りつつある。
この年代にウェスタンをやるというのが実はおかしなことなのだが、ロックスターのライターはそれをひっくり返すかのように素晴らしい作品を作った。
主人公であるジョン・マーストンはかつてギャング団に所属しており、今は牧場主として生活している。しかしその中で合衆国政府に妻と息子を人質に取られ、かつて所属していたギャング団幹部の抹殺を依頼される。というのが大まかなあらすじである。
時代の変わり目として生まれ変わるアメリカに従うアウトローが、過去のアメリカで猛威を振るったギャング団を昔ながらのやり方で殺していくことになる。
そしてこの作品の大事なところは、救われない物語である点だ。結局誰もかれも、時代に取り残された悪漢たちは、合衆国政府という時代と国の象徴に消されていくのだ。
本作の話
そして「RedDeadRedemption2」である。初代から時代はさかのぼり、1899年。前作の主人公が所属していた「ダッチ・ギャング」に所属する幹部「アーサー・モーガン」が主人公となる。
前作で落ちぶれていた「ダッチ・ギャング」もこの時代はまだまだ精力的で仲間も多く、派手な電車強盗などをやらかしてくれる。
しかし忘れてはいけないことがある。時は既に1899年。彼らが大活躍していた無法者の時代は既に終焉を告げようとしているのである。
本作でもアーサーやボスのダッチ、そして右腕であるホゼアは「我々は時代に取り残されている」というようなことをつぶやく。彼らなりに引き際であるということは見計らっているようだが、肝心の引き際までたどり着けてはいない。
彼らの生き方は「無法者」そのものである。しかし無法者の時代は既に終わり、大半の人々は彼らを政府の敵だと思い始めている。だが、無法者には無法者の生き方しかできないのである。
皆、ギャングに所属している人々は時代に取り残されていく運命なのだ。
社会からはみ出した者たち
ダッチ・ギャング団に所属しているのは時代に取り残された無法者だけではない。
社会から爪弾きにされたマイノリティ(少数派)も所属している。
不名誉除隊になった元軍人や、海軍に所属していた料理長。バカなアイリッシュに黒人とインディアンのハーフ(ブラックインディアン)等々。
これらはみな、当時の社会では疎まれる、または迫害される人物ばかりだ。
ゲーム中でも登場するが、元軍人が露頭で乞食をやっているイベントなどが発生したりする。南北戦争や米西戦争が終わり、新大陸に平和がもたらされた中、大半の軍人は不要になっていく。
ともすれば彼らもギャングに入らなければ露頭の乞食のようになっていたかもしれない。
またブラックインディアンも1964年に公民権法が制定されるまで公然と差別が続いていた。アイリッシュも移民として同じくアメリカ人から差別されていたことは想像に難くないだろう。(アイルランド人は南北戦争で活躍したため、彼らの差別はだんだんと緩和されていったが)
つまり彼らはアメリカの土地で社会に見放された人々なのだ。
そしてダッチ・ギャングはそんな時代と社会に弾かれた人々たちを受け入れ、共同体を作る。ここに本作の妙がある。
アメリカに反抗する者たちのアメリカ
彼らは社会に捨てられたにも関わらず、1人では生きようとはせず、ダッチという強大な指導者の中で集団で生活する。
そしてダッチはキャンプの住民にこういうのだ。
「金を稼げ、稼いだ金はキャンプに寄付しろ」と
一見、集団で生活する彼らにとって間違いではないと思うかもしれない。
だが、これは共同体の維持に必要な税金という見方もできる。
寄付されたお金はキャンプに住む人々に食べ物や薬などで還元される。これも言ってしまえば社会福祉ではないだろうか?
彼らはアメリカの社会から見捨てられたが、ダッチという強大な指導者の中で自分たちの小さなアメリカ社会を形成しているのだ。
【閑話休題】RDR2が影響を受けた作品はないんじゃないか。
西部劇には大まかに分けて二つのカテゴライズがある。
- ハリウッド西部劇
- マカロニウェスタン
ハリウッド西部劇の方はヒーロー的なガンマンがインディアンや悪漢を倒すストーリーラインで、マカロニウェスタンはさすらいのニヒルなガンマンが悪徳保安官を倒すような作品が多い。
確かに本作は作風的に主人公が悪人であるし、マカロニウェスタンに近いものがあるかもしれず、大体のメディアもそういう考えのようだ。
だがはっきりとここで私は述べておく。RDR2はマカロニでもハリウッドでもない。
主人公はギャング団という悪漢の存在である。しかし彼らはあくまで法律を破ってはいるものの、それしか生きる手段がない義賊だと考えている。なぜなら彼らの一般的な収入の大半は銀行強盗ではなく、キャンプの人々が働いて稼いだ金(寄付)である。
だから彼らは自分たちは政府からはみ出しただけで、自活しているという考えを持っている。そりゃ臨時収入で電車の一つや二つ襲うことはあるが、そういうミッションではちょくちょく「余り血を流すな」という言い回しが出てくるのも彼らの中にそういう一線があるからなのだろう。
対して敵はどうだろうか。敵は悪漢だろうか、正義だろうか。正直言うとそのどちらでもない。敵はギャング団だったり、法執行機関だったりする。しかし彼らは彼らなりに行動指針があって、こちらから彼らの逆鱗に触れない限りは、と言った感じである。
正直な話、私はこの主人公達と敵対組織の対立はこう考えている。
偽善vs偽善
であると。はっきり言ってしまうと主人公達は悪人であるが、それしか生きる術を知らず、一線を設けることで俺達は善いことをしていると思っている。
そしてそれは敵のギャング団や法執行機関の人々も同じである。
だが善vs善でも悪vs悪でも無い。全員が全員自分たちが生き残るために善い事をしていると思っていながら、傍から見ればどいつもこいつも銃をぶっぱなし平穏な生活を脅かしているのである。
よって私はこのRDR2に新たなウェスタンを見ている。ヒーローもクールな悪漢もおらず、生き残ることに必死で「自分たちは善いことをしている」と思い込まなければ瓦解してしまうような人々の物語が今まであっただろうか。
私がこのゲームから読み取ったもの
以上つらつらと書いてきたが、私が申し上げたいのは
という3点である。
まず時代から取り残された無法者という点だが、これは言ってしまえばちょっと前まで主役だったりマジョリティ(多数派)だった人々である。彼らは自分たちが主役の時代に産声を上げて、さんざん好き放題やってきた。
ところがどうだろう、本作の時代では既に用済みで時代に取り残されているのだ。
これは今までマジョリティだった人々が時代の変遷によってマイノリティへと変貌していく様子を表しているように私は感じる。
逆に社会からはみ出したもの達はどうだろう。彼らは今までマイノリティだった人々だ。
しかし現在までのアメリカという歴史を見るに、彼らはこれから権益を手に入れマジョリティへと変貌していくのだ。
黒人も、ブラックインディアンも、退役軍人も、そして女性も、今ではそれぞれがそれぞれ社会の理解を得て大きな声として存在している。
それが彼らの時代の先にあるアメリカなのである。
時代の変遷によってマジョリティがマイノリティへまるで眠るように身を潜めていき、マイノリティがマジョリティへ産声を上げ始める。
それらを受け入れ、外敵から守ろうとするダッチ・ギャング団はまるで『弾き出されたもの達のゆりかご』で、彼らを守るために鳴り響く銃声や爆音は『ララバイ(子守唄)』のようである。
これは我々のララバイでもある。
私は時代の変遷がもたらす変化を、西部開拓時代の終焉を舞台として描いた本作で目の当たりにしたのだ。
そしてゲームから顔を上げ、カーテン越しに現実世界を見ても今は時代の変遷の真っ只中、もしくはその直前だと私は思った。
現代、イギリスはEUという集団から脱退し、フランスでは左派右派を飛び越えた政権が成立し、スペインではカタルーニャ危機が発生した。少ししたに目を向ければ、いわゆるホワイトアフリカと呼ばれる地域はアラブの春という民主主義運動の反動が来ている。
そして日本も“平成”という大きな時代が終わりを迎えようとしている。
社会に目を向ければ、LGBTに対する理解、企業1つ1つを飛び越え、国家の各省庁でさえ取り沙汰されるコンプライアンス意識の高まり、我が国に目を向ければ女性宮家や外国人労働者の改正法案などが動き出している。
この現代社会も『RDR2』と同じく一つの時代の終焉を迎えようとしているのだ。
同じくして、その終焉は今までマジョリティだった意見(企業内常識や伝統等)はもはや社会的に受け入れられないようになり、今までマイノリティだった声(性的少数者や少数民族等社会的弱者)がこれからどんどんと社会の意見の中心になっていくというのは、おそらくこれを読んでいる皆さんも皮膚感覚で感じているかもしれない。
そのような時代で本作が発売されたのは、これら一連のメッセージを我々に叩きつけたかったようにしか思えないのだ。
我々もやがて、ダッチ率いるギャング団のように消えゆくマジョリティと増えゆくマイノリティに二分され、新たな時代に直面していくことになる。だが、本作では彼らがどれだけ頑張ろうとも、どんな結末を迎えようと、運命は決しているのだ。
そう、ダッチ・ギャング団は必ず滅びゆく運命にある。
彼らは変遷する時代の波にのまれ、罰せられることは初代『RDR』で決められている。なぜなら彼らは悪者だから、政府に反抗した国家と時代の敵なのである。
だが、彼らも生きている。生きてきたという実感が本作にはある。彼らは滅びの道を知らず知らず進んでいるとしても、それが自由に生き、自由に死ぬために必要なことだからだ。
そんな世界で生きる彼らの物語は、同じくして時代の変化で生きている我々の心を動かす。この世界はこのままでいいのだろうか?どうにかしなきゃいけないんじゃないか?という迷いを打ち消し、我々に今を生きることとは何かと思い出させてくれる。
本作で描かれる彼らの生き様は、現代の私たちを憧れさせ、勇気づけ、心地よくさせる。この作品は、我々にとってのララバイでもあるのだ。