2015年6月13日、セウォル号遺族たちの静かな哀しみの歩み

遺族たちの悲願かない、ついにセウォル号は引きあげられました。

2017年3月23日、修学旅行の高校生多数を乗せて沈没した客船「セウォル号」が、沈没から約3年を経て、引きあげられました。

本記事では2015年6月、ソウルで見た遺族たちの様子を紹介します。

2015年6月、ソウル市・光化門広場近くにて

2015年6月、世界の科学ジャーナリスト800人が集まって開催された会議に参加するため韓国・ソウル市に滞在していた私は、「韓国の障害者たちが、充分な社会福祉・社会保障を求めて、常に座り込みしている場所がある」と聞き、光化門広場へと向かいました。

バスを降りて光化門広場に向かう途中の路上で、太鼓の音が聞こえ、黄色い何かを身に着けた人々の列に出会いました。

その人々の列は、3歩進んではひざまずいて拝礼することを繰り返しながら、ゆっくりゆっくりと進んでいました。

「何の宗教だろう?」と訝しみながら眺めていた私は、すぐに、セウォル号の遺族たちや支持者たちであることに気づきました。

いま、動画を再生すると、耳に入るのは車の走行音やクラクションばかり。太鼓の音はほとんど聞こえません。

しかしその時の私の耳には、この人々の列の周辺にある物音は聞こえていませんでした。

「デモ」と呼ぶにはあまりにも静かな、哀しみの歩みでした。

写真より

静かに祈り歩む人々

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終着点の光化門広場にて

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緩く広い支援のもと、遺族たちの悲願が叶った

光化門広場と、隣接する地下鉄の2つの駅の構内および周辺は、さまざまな市民運動の集まる場となっているようでした。

この場所を訪れた目的、交代で毎日24時間の座り込みを続けている障害者たちも、セウォル号のイラストが描かれた黄色いTシャツや、祈りながら歩む人々と同じ黄色のマークを身に着けていました。労働運動らしい方々も、路上生活者支援に関わっているらしい方々も。

突然の事故で子どもを奪われた親の哀しみに説明は不要、ということでしょう。

原因を追求してほしい、遺体を回収してほしいという遺族たちの願いが、極めて強いものであったにもかかわらず、数多くの障壁があったことは、映画「ダイビング・ベル セウォル号の真実」にも示されていました。

映画の終わり近く、息子を亡くした父親の一人は、デモに参加して歩きながら(もう少し「デモ」らしいデモでした)、

「沈みつつあるセウォル号の中から息子が電話してきたので、『海洋警察の言うことを聞いて』と答えたところ、息子は脱出せずに死んだ。自分がなんと言えば息子は死なずに済んだのだろうかと思いつづけている」

という内容のことを語っていました。

セウォル号が引きあげられても、遺体が収容されても、責任者が追及されても、亡くなった方々は戻ってきません。

でも、親たちの悲願は、韓国の多くの人々に幅広く共有されて支持されたようです。どうか、二度とこのような哀しい出来事が、どこでも起こりませんように。

日本人の自分としては、「韓国だから起こった」で済ませず、何が本当の問題だったのか、誰(たち)が本当の問題に気づいたのか、どのように状況を動かしてセウォル号の引きあげを実現したのか、時間をかけても理解できればと考えているところです。

光化門広場に、セウォル号と関係なく常にいた人々が、どのように緩く広く、しかし確実な連帯を形作り、維持しているのか。

いったん理解すれば、日本のこれからに生かせる知恵が、実績とともに得られることでしょう。

文化も歴史も異なる異国の事情を理解するのは容易なことではありませんけれども。