千葉女児殺害事件から考える、「顔の見える関係」だからこその危うさ(改題)

あまりにも痛ましい事件と成り行きに、お悔やみの言葉も思い浮かびません。(ペイレスイメージズ/アフロ)

千葉県で9歳女児が殺害された事件で容疑者として逮捕された男性は、女児が通っていた小学校のPTA(保護者会)会長でした。あまりにも痛ましい事件と成り行きに、お悔やみの言葉も思い浮かびません。

現在判明している事件内容からは、そもそも「自助」「共助」に含まれていた危うさが、最悪の形で表面化した印象を受けています。

日本の殺人事件は、もともと「顔の見える関係」の中で起こりやすい

日本の殺人事件にはもともと、「顔の見える関係の中で起こることが多い」という特徴があります。

殺人事件での加害者と被害者の関係・日米比較
殺人事件での加害者と被害者の関係・日米比較

米国の殺人事件では、面識のない相手が加害者となった事例が最多で、約60%です。

日本の殺人事件では、親族が加害者となった事例が約50%、知人・友人・職場等関係者など「顔の見える関係」が約40%。

日本の殺人事件の大半は、顔の見える関係の中で起こっているわけです。その他の犯罪でも、「顔が見えているから、ふだんの人間関係があるから大丈夫」と言えるわけではありません。

地域コミュニティだからこその危うさ

殺人事件、しかも幼い女の子が「学校のPTA会長」という信頼できるはずの大人に殺害されたという痛ましすぎる事件から、「だから地域の支え合いなんて危なっかしいんだ」という過度の一般化はできません。

しかし貧困問題や、貧困問題解決の切り札とされている地域の支え合い、あるいは地域コミュニティ再構築の中で、私は、顔の見える地域コミュニティだからこそ起こる問題を、数多く見聞しています。

「カースト」化しやすい地域コミュニティ

「支え合い」「コミュニティ構築」というとき、日本の場合、フラットな「お互い様」の関係が構築されることは、まず、ありません。

例外的にフラットな「お互い様」関係を作れているところでは、初期の立ち上げメンバーや中心的な役割を担っている人々に、

「“私支えてあげる人、あなた支えられる人”という関係を作らないように最初から留意し、そうなっていないかどうかを常にチェックする」

という意識が必ずあります。また意識だけではなく、どうすれば実現して維持できるかに関する知識や経験も、必ずあります。

「支え合い」「コミュニティ構築」と言うとき、日本ではしばしば、「ムラ」が作られてしまいます。そこには、強固で入れ替わりのありえない上下関係があります。「カースト」と呼ぶのがより適切かもしれません。

格差がそのままなら、「カースト」しか作れない

なぜ、誰もが支え合って暮らせるコミュニティを構築しようとして、「ムラ」「カースト」を作ることになってしまうのでしょうか?

「支え合い」「コミュニティ構築」を始めようとしたときには、既にそこに格差が存在していたわけです。格差というものがもたらす影響に対して自覚的でない限り、支え合うコミュニティの中心になる人々は、自然に、自分がカースト上位にいつもいられる「ムラ」を作ってしまいます。カースト下位の人々は、同じカーストの中ではフラットな関係を持つことができます。しかしそこにも、油断すればすぐ、江戸時代の「五人組」のような連帯責任・相互監視の世界が出来てしまいます。

「共助」に苦しめられ、無言になる人々

「自助」「共助」が声高く叫ばれ始めて数年が経過しました。地域の支え合いやコミュニティ構築に注力しはじめて数年が経過している地域は、日本のあちこちにあります。

「支える」「助ける」の対象になっている人々が支配されたり、場合によっては搾取されて逃げ場もなかったりする事例は、残念ながら、かなりの頻度で発生しています。

具体的に報じることができないのは、狭い地域の小さな人間関係、大都市圏にあっても「ムラ」で起こっている出来事だからです。どのようにプライバシーを加工したとしても、「ここのことだ」「自分のことだ」と感づかれかねません。すると、最も弱い立場で苦しんでいる人々が、さらに苦しめられ、「苦しい」と言うことさえできなくなってしまいます。

なお「自助」、自分自身および家族による助け合い(家族による相互の助け合いは「共助」に含まれません)の危うさについては、全体像が明らかになっている状態にも達していない子ども虐待、「殴られ続け、いつか殺される」「逃げ出して『自己責任』と責められながら生きる」の二択になりがちな家庭内DV、冒頭に挙げた親族間殺人の多さを上げれば充分でしょう。

PTAが悪いのか? 「PTA会長」だから悪いのか?

たいていは

「大変で面倒で、誰の何の役に立っているのか良くわからないけど、やらなきゃいけない」

という状況の中、多くの方々がPTA活動に参加し、少なからぬ労力を提供しています。たまには「見返りに利権があるから」ということもありますけれども、多くの場合、少なくとも有形の見返りはありません。

手弁当で、仕事・他の子どもの育児・介護など数多くを犠牲にしてのボランティア活動をされている方々を貶めるようなことは言いたくありません(「なぜ、それが必要とされるのか?」には、大きな疑問を感じますが)。

その上でやはり、地縁と深く結びついたコミュニティを構築・維持する場面での「日本ならでは」の危うさには、充分以上の注意を払わなくてはならないと思うのです。

PTA役員だけではありません。

民生委員・児童委員など公的な立場でのボランティア、商店会長、大家さんなど、そもそものスタートが善意あるいは単なるビジネスに発していたとしても、時間が経過するうちに、悪い意味で「それ以上の何か」に変質する可能性を秘めた立場は、日本のあちこちに存在します。

生活保護問題の取材をしていると、「民生委員がニコニコしながら痛くもない腹を探りに来るので気持ち悪い」「大家に生活保護バレした後、ハラスメント(ときには性的)を受け続けている」という話を聞くことは、「けっこうある」「ときにはある」程度の頻度であります。

結論:「顔の見える関係」の安全性は幻想

今回の事件が起こってしまったことに関して、容疑者がPTA会長だったことがどう影響したのか、現在のところは分かりません。もしもPTA会長でなかったとすれば、同様の事件は起こらなかったのかどうか。何ともいえない段階です。

しかし、「顔の見える関係」に対する期待や信頼のレベルは、少し下げたほうがよいのではないかという気がしてならないのです。

「○○を期待できる『顔の見える関係』」「○○という信頼を置くことができる『顔の見える関係』」は、顔が見えていれば構築できるものではありません。

では、何が必要なのでしょうか。現状、何がどれだけ足りないのでしょうか。

……これから、世の中の知恵や力を集めて、明らかにして行かなくてはならないことであろうと考えています。