研究不正を放置している間に失われるもの

研究不正を放置しておくべきではないのは、社会的損失につながるからです。(写真:アフロ)

研究不正は、「研究や研究者コミュニティへの信頼を失わせる」という視点から問題にされがちです。

しかし、損失を可視化することも必要ではないでしょうか。

研究不正が生んでいる損失は、あまりにも深く幅広く、全貌を明らかにすることは事実上不可能と思われます。

それでも、もう少し可視化する努力は必要だと思われます。

榎木英介さんの記事から

本日、そろそろお付き合い10年くらいの畏友・榎木英介さんの記事

司法は研究不正を裁けないが調査はできる~ディオバン事件無罪判決が明らかにしたもの

が公開されました。

(榎木さんの記事は「個人→IT・科学」で公開されていますが、私は日本全体の構造的問題の一部と考えているので、本記事は「個人→国内→社会」で公開します)

事件と経過を3行で言うと、

  1. ノバルティスファーマ社は、高血圧症治療薬に競合が多いので、自社製品のウリが欲しかった
  2. 高血圧症以外の効果が「ある」とするために研究データを改ざんして論文化
  3. 誇大広告にあたるとして刑事告発されたが無罪。ただし研究不正は事実認定された

です。

榎木さんは、大学・研究所などの内部で出来る調査や処分の限界を認めた上、学問の府に警察が入り込んで捜査することの問題点、なぜそれが問題なのか、大学の自律にどこまで期待できるか、海外ではどうなっているかなど、現在、何がどうなっていて解決の可能性はどの程度あるのかを丁寧に解きほぐしています。榎木さんによれば、大学等の自律に期待できる条件は

  1. 研究不正の調査が公平であること(内部告発者を保護する、被疑者に黙秘する権利を認めつつ、正直に証言した者だけが罰せられることがないようにすること、虚偽の証言をした場合の罰則規定を設けるなど)
  2. 判定(シロの判定も含め)の根拠を公開すること
  3. 判定の基準は統一すること(以後の調査でも適用する)

の3点ですが、実情、どうなっているかというと

東京大学の場合、不正判定の基準がケースごとにまちまちではないかと言われる。今回のように懲戒解雇相当という厳しい処分を下される研究者がいる一方、調査や処分がきちんとなされていないケースもある。つまりダブルスタンダードなのではないかということだ。

岡山大学のケース、東北大学のケースなどでは、大学執行部が絡む研究不正の疑義に対し、公平な調査が行われず、告発者に不当な制裁が加えられた。

富山大学のケースでは逆に、業績の虚偽記載で懲戒解雇処分という異例の厳しい処分(和解により出勤停止60日の処分へ変更)をされた教授に弁明の機会が与えられなかった。

執行部なら処分を免れ、逆に執行部ににらまれたら、不当な厳しい処分を受ける…まともな調査もできない、不正をした者に適切な処分もできないようでは、「司法にゆだねよ」という意見に説得力がある。

出典:司法は研究不正を裁けないが調査はできる~ディオバン事件無罪判決が明らかにしたもの

というわけで、大学の自治・自律にはあまり期待できないのです。

この現状を放置しておく間に失われていくもの

この現状を放置しておく間に、さまざまなものが失われているはずです。

「はず」というのは、何がどれだけ失われたのかを明らかにすることが困難だからです。

1.大学や研究機関、研究そのものへの信頼

研究不正に断固たる態度で臨めない大学や研究機関が、自組織・自機関、さらに自分たちの研究そのものへの信頼を失うのは、「自業自得」「自己責任」でよいのかもしれません。

放置しておけば、次に「事業仕分け」のような機会が設けられたとき、「大学や研究機関に、もうお金を渡さなくてもいいでしょう」という世論の高まりと、さらなる予算削減につながるかもしれません。しかし、小中学生でも予想できそうな「信用をなくしたらどうなるか」が現実になるだけ、といえばそれまでです。

2.研究予算とポスト

今のところ、「研究不正が直接の原因である」という形で予算・ポストの削減が行われた事例は日本にはないと思われます。

しかし今後も「ない」とは限りません。

研究不正の有無や件数とはそれほど関係なく、研究予算は2000年代以後、バッサバッサという勢いで削減されています。

研究職のポストも、特に若手に対するポストを中心に減らされてゆき、あるいは有期雇用となり、いわゆる「博士余り」状態や「高学歴ワーキングプア」多数を生み出しています。

「能力が充分だったら定職に就けるはずだ」と冷たく言い放ってもいいのかもしれません。

でも、それが常態化すると、目端のきく学生から「アカデミアを目指さない」「博士課程には行かない」という選択をするようになります。

すると行き着くところは、その研究分野自体の停滞と凋落です。

すでに分野によっては、現実となりつつあります。

いつ、研究不正が起爆剤となって、「もう研究に公金つけなくていいのでは」「大学の半分はなくしていいのでは」という世論が盛り上がらないとも限りません。

研究資金もポストも減るとなると、椅子取りゲームが始まります。

3. そして最後に誰が残るのか

ポストを減らさざるを得ないとき、大学の中で起こることは、企業の中で起こることと大きくは変わりません。

人員削減が行われる際、生き残りに有利なのは、生産性や職業能力や人柄ではなく、「しがみつき力」「意地汚さ」「陰険陰湿さ」「バックにいる有力者の政治力」といったものであることが多いかと思われます。

しかし研究機関や大学は、教育の場でもあります(研究機関は大学院生を受け入れて教育している場合が多いです)。

自分自身の身分継続の心配をしなくてはならない指導者に指導されるという状況は、一般的に好ましいものとは思えません。

その指導者に人格・教育上の問題がなかったとしても、です。

さらに人員削減のたびに、そういう面で問題多い人が残ると……? もう、お先真っ暗です。

4. 目に見えにくい損失

「そこで研究不正が行われている」ということは、周辺の研究者、場合によっては大学院生や大学生が、結構気づいているものです。

しかし同時に、「それは不正じゃないか? と言ってはいけないことになっているようだ」ということも、既に学習していたり、そこで学習したりします。

不正の現場と巧く距離をとりながら、自分と自分の研究を守り、その後は遠く離れて活躍することができる人もいるでしょう。

不正に巻き込まれながら、「あと論文1本で博士号取れるんだけど、あとで不正が問題になったら博士号が無効になるのかも」などと悩みながら研究を続ける人もいるでしょう。

心の底からウンザリしつつも、大学卒業・修士課程修了・博士号取得などの節目までは「おつとめ」して、以後は、その分野にも研究にもかかわらない選択をする人もいるでしょう。おそらく、このパターンが最多と思われます。

黙って研究の場から消え、その後は別の道に活路を見出した人たちは、大学や研究機関にとっては「見えない」「いない」も同然です。

でも、何年か研究の現場にいて、専門知識をある程度は持っていて、外の世界から応援してくれる存在になったかもしれない人たちを、「ファン」ではなく「隠れアンチ」として外の世界に輩出してしまうことは、大きな損失ではないでしょうか。

その人々は、世間話で、居酒屋談義で、自分のよく知っている分野の科学研究について、どうしても冷ややかな視線を向け、その見地からの意見を語るでしょう。すると、その分野や関係者を冷ややかな目で懐疑的に見る人々が少しずつ増えていきます。

自分の子どもの進学に際しても「うーん……その大学・その分野だけは……よく考えたら?」と意見を言うかもしれません。そういう形で、将来の進学者も減らすことになります。

そういった影響、把握のしようもない薄く広い影響が、どれだけの損失を科学と研究に与えてきているか。

試算くらいはできるのではないでしょうか。

ぜひ、専門家の方々に、可能な範囲で試算してみていただきたいものです。

結論:「研究といえば、研究不正」と言われる前に

研究そのものの価値、大学や研究機関の価値を貶めるつもりは、私には全くありません。

大いに価値を認め、価値が正当に評価されてほしいと思います。

学問と研究に対し、盛ったり貶したりするのではなく、実情・実態こそ知られてほしいです。自分自身が現役の大学院生という立場では、世に問えることには自ずと限界がありますけれども。

実情・実態が知られてなお、正当に価値を評価され、評価の結果として資金も人も回ってくる……という好循環が出来てほしいとも思います。

でも、今、一番しなくてはならないことは、「益」の部分を大きくすることではなく、「害」の部分を減らすことではないでしょうか。「益」が変わらないままでも「害」が減れば、黒字を大きくし、あるいは赤字を黒字化することが可能になります。

そのためには、研究不正に対し、事実上、ほとんど何も出来なかったことにより、どこにどれだけの「害」が及んでおり、金銭換算したら何円になるのかを把握することが、まず必要ではないかと思われます。

あまりにも影響してきた範囲が広く、期間が長いため、影響の実態を把握すること自体、事実上不可能でしょう。

現在の大学の諸問題の根源となった1990年代の「大学院重点化」の時期に生まれた人たちが、そろそろ大学院に入ったり卒業したりする年回りです。少なくとも2世代分くらいの期間、影響が続いているわけです。

もう遅すぎるのかもしれません。

でも、いつかどこか(個人では不可能です。どこか機関)が取り組まなければ、「研究不正」があけた穴から、有形無形の資産が失われる状態が、ただ続いていくだけです。

ひとまずは、研究不正とその後の成り行きが明らかになるたびに、世の中から「大学(研究機関)、なんでそうなるの?」「ちゃんと説明してよ?」という愛のムチが飛ぶことを期待したいものです……「研究といえば、研究不正」が社会の常識になる前に。