大学に、性的暴力の加害者・被害者を生み出さないことはできるのか? ー 千田有紀さんのご記事から考えた

くれぐれも、出身大学を「思い出したくない」場所にしないために。(写真:アフロ)

4月の新年度を迎え、大学は新入生でいっぱいです。

18歳ならば法的には成人ですが、飲酒もタバコも20歳まではお預け。青年期真っ盛りのパワーと思慮分別の不足が同居する危ういお年頃です。

そんな大学生たちが、性的暴力の加害者・被害者になることは防げるのでしょうか?

千田有紀さんのご記事

千葉大医学部生強姦事件などを防ぐために――新学期、キャンパスの学生たちが知るべき知恵

から、考えてみました。

被害者・加害者・傍観者

千田さんのご記事には

アメリカで啓蒙対象とされているのは、「傍観者」であると感じました。

「誰かが酔っぱらってしまったら、絶対に集団から離さない。誰かがそのひとを連れ出そうとしたら、全力で止める。衆人環視のなかで、事件が起こる可能性はほぼない。あっても、ぐっと低くなります」

とあります。

被害者と加害者になりそうな人たちがいたら、被害・加害へと発展しないように、傍観者(集団)が止めるということです。

傍観者が動けばイジメは止まりやすい

高校までの学校にありうるイジメでも、望ましい対処は同じです。

傍観者が加害者に同調したり黙認したりしなければ、激しいイジメへとエスカレートする可能性は低まります。

被害者が、教員や親にイジメ被害を訴えても、たいていは効果ありません。

既に、数の上で無力な被害者になっているわけです。教員には「本人の自己責任ということにしておきたい」という判断が働きやすくなります。わが子の訴えを受け止められた幸運な親にも、その場面で出来ることは多くはありません。

でも、1つのクラスのイジメ傍観者の中で4人が「イジメがある」と訴えたら、それも主任教諭・教育委員会・自治体の青少年センター・警察などそれぞれ異なる相手に訴えたら、どうなるでしょう?

学校内と教育委員会だけなら「揉み消し」リスクが高まるわけですが、教育委員会ではなく市役所本体・県庁直属機関・警察など、「縦割り」で異なる枠に入る機関に訴えると、そのすべてで揉み消されるとは限りません。動いてくれなくても、たとえば学校内ではなかなか教えられないノウハウを教えてくれるかもしれません。うち1カ所が動けば、他も「いや、ウチもやってるんです、やってるんです」と動く可能性が高まります。

外に訴えなくても、傍観者のうち3-5人が疑念を挟んだり介入したりすれば、イジメの続行は困難になるでしょう。

内部の傍観者が動くだけで、イジメは止まりやすくなります。外部の傍観者を複数動かせば、さらに止まりやすくなります。

問題は、こういうノウハウが高校までの学校で教えられていないことです。

それどころか、「傍観者が加害サイドの行為を黙認したり助長したりすること自体が悪」とも教えられていません。

ヤバい状況になりそうだったら?

千田さんがご記事で紹介されている5つの方法

1.状況を変える

(略)嫌がらせをしている男性に対して、正面から注意することは勇気が必要でも、気を逸らす程度のことならできるはず。

2.集団で介入する

(略)加害者になり得る人の気を逸らしたり、被害者になりそうなひとを状況から離したりする。

3.店のひとを呼ぶ

自分たちには無理でも、バーテンダーやガードマンなど助けを求めることはできます。

4.行動する

(略)素面の人に相談することは大事です。

5.備える

自分の行動に責任をとりましょう。(略)

は、大変有益だと思われます。

学校と性的暴力に限らず、集団イジメが起こる可能性のあるすべての場で共有してほしいものですが、日本の現状を見ると、まだまだ予防よりも、起こった後の対応が重要な段階と思われます。

起こった後、被害者の自己責任が厳しく問われ、よほどのことがなければ加害者は責任を問われず、まして傍観者の対応の落ち度が指摘されることはないとなれば、

「不利な状況の人(自ら陥ったかもしれない)の自己責任を問わず、加害者に対しては『その行動を選択した』という責任を厳しく問い、傍観者にも一定の責任を問う」

を原則とした予防は無理です。

まず目指すところは、集団やグループによる暴力的行為を、「被害者の自己責任」としないことです。

問題は、それが現在の日本の大学に出来るかどうかです。

大学にとっての「不祥事」とは

大学にとっては、不祥事は発生しないでほしいものです。

加害者と被害者がはっきりした不祥事であり、場合によってはクラス担任などの教員や大学の責任が問われるような出来事は、発生しないでほしいのです。「不祥」事なのですから。

だから、「オオゴトにしないように」という配慮から学内で内々に相談すると、たいていは情けない思いをすることになります。大学側にとっては「問題というほどの問題は発生していなかった」「苦しめられた1人の問題であった」こそ、組織として望まれがちな解決です。

しかしながら、動かぬ証拠があり、第三者の証言があり、既に警察も動いていたりすると、そうはいきません。場合によっては記者会見が開催され、学長や幹部が頭を下げることになります。時には着任ホヤホヤの学長が、着任以前に発生していた事件、直接にはどのような責任の負いようもない事件に関して、テレビカメラの前で責任者として頭を下げることになります。しかたありません、そういう役割なのですから。

となると、大学の中の集団で起こりうる問題に際し、加害者にならず、加害者と被害者を生み出さないために何ができるのか。

大学は、実質的に教えられないことになります。形式的に教えることはできても、いざコトが起こった時には、まったく異なる原則によって対処することになり、被害者を中心に「裏切られた感」を残すことになります。

運がよければ、心ある教員が「個人として」教え伝え、コトにあたっても「個人として」出来る限りのことをし、一円の報酬もなく「個人として」アフターフォローするかもしれません。Yahoo!ニュースにご記事を書かれた千田さんも、おそらくは、そういう心ある大学教員のお一人なのでしょう。

出会えるかどうかは、運しだい。

残念ながら、これが日本の多くの高等教育機関での現状です。

「運しだい」としても、せめて、当たり確率は増やしたいものです。

過大な期待をもたず、絶望せず

大学生の子を持つ親、あるいは身近に大学生がいる大人として出来ることは、大学に過大な期待を持たないことでしょう。

ゆめゆめ、大学に「実社会で起こるドロドログログロが少ない理想的な学問の場」という期待を持ってはいけません。ドロドログログロの発生原因はやや少ないかもしれませんが、抑止力も弱いのが大学です。これは、学問の自由・大学の自治という大原則とも関連することなので、一概に悪ともいえません。

はっきりしているのは、大学が正義の場となる成り行きは、短期的には期待できないことです。

でも、大学生が困り事や嘆きを打ち明けやすい大人になることは、大人個人の力でできます。

大学生が弱みを見せるのは、「私が弱音を吐いたら、自己責任論でぶちのめすんじゃないかな?」と怖れなくていい大人に対してです。

さらにその大人が、大学で経験するもろもろに対して「大学だからねえ」「だって、大学だもん」と反応したら、自己責任論を自分に向けて怒りと悲しみと無力感でコチコチになっている大学生は、どれほど救われるでしょうか?

よそのオバハンとしては、なんだか情けない目に遭っているらしい大学生がいたら、それとなく話を聞いてあげて、大学生本人の選択肢を一つ二つ増やしてあげて、即時の介入が必要なら出来る範囲で行い、自分が無理なら信頼できる他人に連絡してお願いしたいものです。

その上で、その大学や関係者に対して、大人として使えるチャネルを駆使し、「大学なのに?」「大学ともあろうものが?」とプライドを刺激することもできるかもしれません。ダブルスタンダードは、汚い(笑)大人の武器でもあります。

「そんな大学消えちまえ」という極論は、当たっているかもしれません。

「日本には大学が多すぎる」は、かなり事実です。

大きな問題・大きなゆがみ・大きなねじれが、回り回って、大学生一人を深刻に悩ませているのかもしれません。

でも、今日明日では解決できません。

消えてほしい大学、多すぎる大学、ある人にとっては好ましくなかったり存在が許せなかったりする大学教職員も含めて、今の日本の社会は成り立っているのです。

まず、一人ひとりの大学生に知恵を得てもらいながら、いざという時につっかい棒になれる大人を増やしながら、「こうあってほしいよね?」というイメージを時間をかけて共有し、実現していくことは出来るでしょう。

とりあえず私は、大学に入ったばかりの33年前の私に近づけるのなら、

「恋愛モード全開の男子学生に周囲を取り囲まれてて、断りにくい求愛の連続で疲れる」

「クラスコンパで強い酒飲ませて潰そうとする男子が何人もいたから、一緒に飲ませて相手たちに酔い潰れてもらったけど、なんのために大学なんか来ちゃったんだろう」

といったボヤきに耳を傾けてやりたいです。

その上で、現実は現実として認め、といって理想を簡単に捨てず、期待しすぎず絶望しすぎず、そんな成功はしてないけど幸せそうでタフな大人として、「こういうのでよければ、あなたもなれるよ」と言ってやりたいです。

大学でいろいろあっても致命傷は負わずに離れ、次の段階へ進み、大学で学んだり習得したりしたことはそれなりに生かして人生を歩んでいく大人は、いつか外から大学の問題を少しくらい変える力になれるはず。

今、大学生になったばかりの若い人たちに、そういう機会に少しでも近づきやすくなってほしいと願い、この記事を書きました。