満州にて終戦を迎え シベリアに抑留されました。 辛い日々を如何に生きるかが人生の参考になれば良いかと想います。
  異  聞  抑  留  記 NO 24
平成 7年              著者   江藤 一市
1.終戦 2.苦難の町 3.虱駆除 4.医療天国 5.炭坑
6.平原の歌声 7.炭坑の女 8.小野軍曹 9.収容所の楽しみ 10.アウトロー
11.班を作る 12.アクモリンスク 13.補充食糧 14.MTC生活 15.可愛い妹
16.特異体験 17.偽の診察 18.金鉱i石採掘 19.魚釣り作業 20.食糧が無い
21.特異体験 22.ジョロンベッドの街 23.ダワイとダモイ 24.帰国命令 25.ナホトカ収容所
『帰国命令(夢のダモイ実現)』
第一次の帰国に洩れ、このジョロンベッドに移動、もう一度冬を過ごした。そして愈々帰国が本決まりとなり、それが発表されたのは、四度目の冬に入りかけた、1948年10月25日もう冬の気配濃厚な朝だった。入ソ以来一日として忘れた事のない帰国。私達がどんなに待ち望んでいたか知れないこの日。これ程嬉しい感激の日が有ろうか。命令を発表する所長は我がことのように喜び、微笑みを浮かべていた。収容所の職員の誰もがにこにこ顔で祝福してくれた。しかし私達当事者は、心の中では喜びもし雀躍もした。しかし誰も言葉は静かだった。『本当かなぁ、本当に帰れるのかなぁ』と言う言葉が出て、大部分の人が総てをその儘受け入れることが出来なかった。去年の秋の帰国説も、そのまま冬を越し、五月の時も凡ゆる準備を整えて待ったが命令は来なかった。八月説、九月説と帰国に関する情報は総てデマとして消えた。帰国だけでなく、作業は勿論、その他総ての事に騙され続けてきた私達には、最初の嘘「トーキョー・ダモイ」を真っ向から信じた時の様な単純な気持はとうに失われていた。
この収容所を出るまでは、いや、汽車に乗る迄は今度の命令も真面には受け取れない。いやもっともっと、日本の土を踏む迄は、帰国と言う事を真面目に喜ぶことが出来ないと言うのが、私達の心底の気持ちだったかも知れない。
しかし、準備は一日一日と進められた。列車輸送中の必要道具一切は、各作業現場で着々と用意された。被服の返納、整備、洗濯、補修。民主グループでは、帰還列車用の赤旗作り、スローガン書き、装飾準備。本部では、帰還編成計画、作業の決算報告書作成、その他炊事道具の調達等々、殆ど全員、昼夜を分かたぬ奮闘ぶりであった。
作業は十一月二日まで実施された。愈々被服の交換、整理を最後に出発準備が完了したのは、四日の深夜だった。翌五日九時過ぎ、「出発準備」の声と共に、皆小さな一袋の荷物を手に待機した。アメリカ製トラック「スチュードベーカー」が一台また一台と次々門の前に停止した。職員総動員によって衛兵所の前で所持品検査(ほんの形だけ)を受けた者から自動車に乗り込む。皆の顔は明るい。快く晴れた空。柔らかい初冬の陽が、振りつもった雪に反射して眩しい。収容所の前には、私達を見送る地方人が五、六十人も立っている。つい先日まで現場で煩かったマッセル。食堂(スタローワヤ)の女達。ランプマダム。バーニヤ係。皆にこにこしている。「ダスビダーニヤ」(さようなら)「ダスビダーニヤ」を交わしながら、お互いに手を振って別れを惜しんだ。晴天の道を車は真直ぐに走り続けた。乗車するシャルダン駅に部隊全員が到着したのは薄暗くなった頃だった。『帰還列車』
三十五輌編成の列車は、貨車の中央に暖炉一個を据えて、両側に二段装置の板敷き、毛布も藁蒲団もない貨車の中は寒かった。防寒外套を引被って横になる毎日だった。『もう一月もすれば、青畳の上で、柔らかい蒲団に寝れるんだ』と言う希望がそれを我慢させた。列車に揺られて十日目、ノボシビルスク駅前のバーニヤ(浴場)で、真っ黒に汚れた身体の垢を洗い落とした頃には『もう大丈夫だろう』『もう嘘じゃなかろう』と誰もが帰還を信じるようになっていた。
ジョロンベッドを出て、二週間程でハバロフスクに着いた。午後三時頃だった。極東に於ける最大の都会。駅に列車が滑り込んだとき、流石に立派な町だと思った。シベリヤの大都会が見られるぞと思って窓から眺めていると、列車は徐行して駅を通過、何もない広っぱに停車した。遠く背後の方にハバロフスク市街の建物が眺められた。全員下車、各車の大掃除、食事分配と言うことになった。皆は線路すぐ横の溜まり水で手や顔を洗った。
「全員向こうの広場に集合」と言う民主グループからの達示で、各車二名づつの監視を残し、その広場に集まった。民主グループの幹部達が、日本新聞をたくさん抱えてきた。その後ろに見慣れない日本人が二人ついて来た。その二人を中心にして私達は大きな円陣を作って腰を下ろした。
二人のうち年上の男が一歩前に進みながら口を切った。
『私は日本新聞の吉良です。同志諸君が三年間の生活から解放されて今日本の国に帰ろうとして、此処ハバロフスクの駅を通過するに当たり、私は同志諸君に心からお喜びの言葉を送るものであります』 皆が拍手でこれに応えた。『だが諸君、私は同志諸君に言う。私は世にも珍しい梯団を見た。今此処に到着した諸君の梯団の様な梯団は、今まで此処を通過した梯団の中に、一つとして見ることは出来なかった。諸君は三年半をこのソ同盟の地に於て漫然と過ごしてきたのか。他の何れの収容所に於ても、新しい民主規律を確立して明るい生活を営み、明るい思想を持って帰還の梯団を編成し、元気良く日本に帰って行きつつある今日、諸君の梯団は何だ。いまだに旧関東軍の暗然たる空気を払い去ることが出来ず、天皇制の暴虐なる弾圧を克服する事も出来ず、反動将校どもにのさばり返らせているではないか。そんな事で諸君は日本の再建が出来ると思うのか。天皇裕仁はまだ生きている。今度の戦争犯罪人の首魁裕仁は生きているのだ。そしてまた、反動吉田内閣は幾多の財閥どもを使って益々労働者農民を搾取し酷使しているのだ。その真っ只中に諸君は飛び込んで行こうとしている今日、最も手近な反動将校どもをすら屈伏させることが出来ずに居るとは何というざまだ。各車輌には、ほんの型ばかりの民主主義のスローガンを貼り、赤旗を掲げ、嫌々ながら、スターリンやレーニンの写真を飾ってはいるが、三年半経っても将校であります、大隊長、中隊長でありますと威張り散らす将校連中を、大隊長殿、中隊長殿と呼んで、いまだに封建的な一つの殻の中に閉じ込められている諸君は、それでも将来の日本を建設して行く決心で居るのか。そんなことで日本の再建が出来ると思うのか・・・・・・。こんな調子の過激な演説が延々と続いた。更にもう一人の若い難波と名乗る男と二人掛りで将校連中を前に呼び出して吊るし上げを始めた。服装が兵隊と違うとか、別に旨い物を食っているんだろうとか、兵隊をしごいたろうとか、当番兵を扱き使ったろうとか凡ゆる事に難癖をつけ、聞くに耐えない様な言葉で罵った。将校連中はここで逆らって折角のダモイがフイにでもなったらと、煮え返る様な腹をじっと押さえて黙っていた。辺りは夕闇が迫ってきた。ソ連の政治部員の将校が来て何か彼らに言って止めさせてくれた。部隊本部の幹部、民主グループの幹部連中にも大きなショックだった。と言うのは彼らの言うことに、【集結地のナホトカにはもっともっと民主化された最尖鋭のグループがいる。彼らの教育はこんな甘いものではない。民主化の足りない個人または部隊はダモイを延期、他の収容所に送り込む】と言う私達に一番恐い条項が有ったから。乗車してから幹部連中は善後策を鳩首協議。結局部隊の編成をし直す。将校は全員役職から離れる。民主グルーブのメンバーも入れ替える。インターナショナルの歌、赤旗の歌を全員に覚えさせる。と言うように決めた。こんな急造民主主義でナホトカの難関を越えられるのか・・・。

つづく
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