満州にて終戦を迎え シベリアに抑留されました。 辛い日々を如何に生きるかが人生の参考になれば良いかと想います。 | ||
異 聞 抑 留 記 | NO 23 | |
平成 7年 著者 江藤 一市 |
1.終戦 | 2.苦難の町 | 3.虱駆除 | 4.医療天国 | 5.炭坑 |
6.平原の歌声 | 7.炭坑の女 | 8.小野軍曹 | 9.収容所の楽しみ | 10.アウトロー |
11.班を作る | 12.アクモリンスク | 13.補充食糧 | 14.MTC生活 | 15.可愛い妹 |
16.特異体験 | 17.偽の診察 | 18.金鉱i石採掘 | 19.魚釣り作業 | 20.食糧が無い |
21.特異体験 | 22.ジョロンベッドの街 | 23.ダワイとダモイ | 24.帰国命令 | 25.ナホトカ収容所 |
『【ダワイ】と【ダモイ】』 私達が一番先に耳にしたロシヤ語が『ダワイ』と『ダモイ』でした。『ダワイ』は実に使用範囲の広い便利な言葉である。○○をせよ・○○しろ。と命令するのも「ダワイ」持っている品物をこちらに「よこせ」も「ダワイ」。 急げ!も「ダワイ・ベストレ」寝ろ!も「ダワイ・スパーチ」此所へ「ダワイ・シュダー」全ての動詞の上につけて使える様である。(これは私の体験の上からの勝手な解釈)『ダモイ』は「ドーマ」(家)からの変化で「家へ」即ち「帰る」となったのだと解釈している。 奉天で収容された抑留の第一歩から、この二つの言葉を何百回となく聞いた。その「ダモイ」が決定したのが1948年10月25日の事だった。三年余りの抑留生活の間にこの「ダモイ」の夢を幾度壊されたことか。最初奉天で列車に乗せられたときも「トーキョー・ダモイ」だった。騙されてラーゲルに入ってからも、絶えず「ダモイ情報」は乱れ飛んだ。二ヶ月後ダモイだ、二年後だ、三年だ、当分は帰れない。ハラショー・ラボーター(優秀作業者)は先に帰す。いや病弱者が先だ。パンが余分に入荷すればダモイ用だ。新しい靴が入ればダモイ。作業割り当てが変わればダモイだ。本部の上級将校の巡視、軍医の身体検査、貨車に食糧積みの使役、何が有ってもダモイに結びつけて言う。何時帰れるか?これからどうなるのか?と言う不安な心を慰める為に・・。憶測と言うより、希望的観測が、心からダモイを希望する余りに、判断力を失って、些細な情報でも如何にも信ずべき情報の様に飛び交ったものだった。 『民主化?共産化?』 「日本新聞」によれば、各収容所では、相当に民主化運動なるものが、進んでいるとの事だった。アクティーブと言う先導者が居て、ソ連政治部員から色々な指示を受け、それに従って積極的に行動する。然しそうすれば、先ず自分自身が優遇される。恐らくそれが第一義で、教育、宣伝に携わったのは間違いあるまい。ソ連政治部員のカピタン(大尉)が一通の手紙を大隊長の所へ届けて来たのは、1947年6月の事だった。ボゴンバイ収容所からの物で、その内容は次の様な物であった。《友の会結成に際し、アクモリンスクの同志に檄す》 『残虐飽くなき天皇制桎梏の下に、奴隷的服従を余儀なくされ、唯黙々と引き摺られてきた関東軍兵士諸君、欺瞞と搾取の暗黒社会から我々は今こそ解放されたのだ。忠君愛国と言う忌まわしい仮面に覆われ、平和の美名に誑かされた我々は悪夢から今正に覚醒されたのだ。八紘一宇の精神の真の姿が敗戦と言う一大変化の前にその醜悪なる残骸を暴露した。世界人民の永遠の平和のために日夜孜々として正義の歩みを続けている赤軍の輝かしい戦勝は、我々日本国民を自滅の域から救い出してくれたのだ。天皇はその仮面を剥ぎとられた。軍閥は横暴から投げ出された無力な泣き面を世界人類の前に暴露した。財閥は嵐に遭える高樓の如く一瞬にして壊滅して行くのだ。天皇制軍閥官僚の主張する平和とは・・・・』 兎に角自分達の教育レベルをひけらかす様に、変に難しい文字を並べ立て、これでもか、これでもかと激越な言葉で天皇制、軍国主義等を非難、攻撃し、最後に『兵士諸君、我々の集い「友の会」は今このカザクスタンの一画に於て雄々しく進軍を始めた。アクモリンスクの同胞兵士諸君。諸君等の力強い発足を我々は双手を挙げて祝福する。そして友の会同志の堅固なる結束によって凡ゆる反動共の反撃を打破して行く事を約束しよう。 ボゴンバイ収容所友の会一同 会長 浅野某 アクモリンスク収容所 同志諸君』 と結ばれてあった。 日本新聞の影響で階級的観念こそ、ある程度の崩壊は有ったが、政治的に動向と言う考えはみんな持っていなかったので、「友の会」と言うものに特別な関心はなかった。然し政治部のカピタンは、この収容所でも「友の会」を作れと言う。兎に角明日中に名簿を提出しろと言うので、色々意見を総合した結果、選挙で会長一名、副会長一名、幹事五名、委員二十名を決定し、友の会を結成、収容所内の日本人全員を会員と言う事で急據名簿を作成提出した。それでも私達の生活は別になんら変わりなかった。 『第一次帰国』 近い内に、ミニッセル(大臣)が来るから清掃をしっかりやれとソ連側から警告があってから、室内の装飾を全部やり直した。収容所では、土壁の上に石灰を塗って真っ白にし、その上に石炭や赤土、青土を絵の具代わりにして、色々な装飾をする様になっている。特に赤軍の徽章である赤い星と「偉大なるスターリン万歳!」とか「人民解放赤軍万歳!」とかの文字は是非書かねばならない。それだけが室内装飾の総てである。 今日は来る、明日は来ると待ちあぐんだミニッセルの姿は五日経っても六日経っても見みられなかった。忘れもしない1947年6月17日。作業から昼食に帰って来た時、今日は誰もバラック(宿舎)に入ってはいけないと注意が達せられた。『来た!ミニッセルが来た!彼が帰国命令を持って来たのだ』と誰もが思った。午後の作業に出掛けた。何処から入った情報なのか「帰国は半数だけだ。後の半分は、ジョロンベッドに移動するそうだ」と言う噂が飛んだ。もう誰も仕事なんて手に付かない。あっちで五人、こっちで七人と腰を下ろして話し込んでいる。マッセルも警備兵ももう別に何も言わない。全員一緒に帰れないなんて本当?どんな人が帰って、どんな人が残るのか?O.K組?民主運動をやった者?兎に角、意見はまちまち、喧喧囂囂。だが誰の意見も確とした根拠は無い。帰ってみると、門を入ってすぐ右の方の天幕の前に新しい部隊が来ている。日本人だ。帰国は間違いない。ボゴンバイルかジョロンベッドから引き揚げて来たのだ。以前の戦友の姿を求めて数人が天幕の方へ走った。私もアナールで別れた数人の戦友と会った。彼らはボゴンバイルの金坑に居たが、病気にかかり衰弱が酷く、O.K組となり、今度の帰国の組に入ったとの事。半数はまだボゴンバイルに残っている由だった。帰りたい。これ以上こんな生活は続けたくないと言うのは誰も同じ思い。これ以上この地に居て、三度の冬を過ごすのは、想像するだけでも耐え難い苦痛である。そしてそれが現実となって、結局半数の病弱者だけが帰国に決まった。残留組の中に自分の名が有った時の落胆、焦燥、大声を出して暴れ回りたい衝動に駆られた。それは筆舌に尽くし難いおもいであった。しかし、いくら嘆いても、どう悲しんでもどうなるものでもない。翌日の午後、帰国の選に洩れた約二百名は、五台のトラックに分乗して、ジョロンベッドへ向かった。 |
つづく |