那須スキー場雪崩事故から考える、「安全」の意味と聞き取りにくい声の大切さ

「冬山は危険だから行くべきではない」で済ませてよいのでしょうか?(ペイレスイメージズ/アフロ)

2017年3月27日朝、栃木県・那須のスキー場で雪崩が発生し、登山講習会に参加していた高校生7名を含む8名が亡くなりました。

わずか2日のうちに、事故に関する状況や問題点は、かなり明らかにされています。

本記事では、20代まで氷雪期を含めて山に行っていた元へっぽこ登山愛好者の立場から、個々の問題点を包括する「空気」を考え、最後に、現在の専門である社会保障と関連する問題の数々を考えます。

「え?」と思われますか? 私には、数多くの共通点が浮かび上がって見えるのです。

「危険だからいけない」では危険は避けきれない

そもそも、スポーツ庁は高校生の冬山登山を原則行わせない方針だったということです。

スポーツ庁は、高校生以下は原則として冬山登山は行わないよう指導する通知を毎年出していたが、徹底されているか一度も確認していなかったという。

出典:朝日新聞デジタル:「高校生は冬山登山原則禁止」徹底確認せず 文科相 2017年3月28日11時05分

だから、春休み期間中、一般的には春と認識される時期に講習会を行っていたのでしょう。

もしも「高校生は冬山禁止」を徹底しても、登山に取り組む高校生に氷雪期の技術が不要とは限りません。

春先や秋口、天候の急変による積雪や、積雪の中でのテント泊が必要になることはありえます。最低限の訓練は、やはり必要です。

というわけで、考えられる限りの「安全」への配慮の上で、登山講習会を行なっていたのでしょう。

事前に危険を避ける一定の配慮は、なされていた

というのは、那須・茶臼岳は、比較的安全な冬山として知られているからです。

あくまでも「冬山の中では」なので、夏の高尾山に比べれば、もちろん危険です。

しかし標高は2000メートル足らず、地形は緩やかです。

しかも登山講習会は、山の中ではなくスキー場で行われていました。すぐ近くまで自動車でアクセスできるわけです。

このことは、不幸中の幸いだったと思います。山深く入ったどこかであったら、救助も捜索も調査も、どれほど困難になったでしょうか。

でも事故は起こってしまった

しかしながら、不幸な事故が起こってしまいました。

数多くの報道で指摘されている問題点から、私が最大の問題だと考えるのは、

  1. 雪崩リスクが高まっている状態であった
  2. 結果として雪崩リスクを高める行動となってしまった

の2点です。

半端に春山ゆえ、かえって雪崩リスクが高まっていた

表面がやや凍った状態の雪の上に新雪が積もっていると、表層雪崩は起こりやすくなります。滑り台の上に新雪が乗っているようなものです。

これは、昼間の気温が上がりやすい春山で起こりやすい現象です。

最高気温がときどき氷点下でなくなるような時期には、「積もった雪の表面が少し融けてまた凍る」ということが起こりやすいのです。その上に新雪が積もると、1cmでも3cmでも雪崩リスクがあります。薄い新雪でも、斜面いっぱいの雪が落ちて来るのですから、舐めてはいけません。

現地に最も近いアメダス観測地点は、標高749メートルの那須高原です。

事故が起こったスキー場の標高は1200~1500m。無風ならば、那須高原のアメダス観測地点よりも、3-5℃ほど気温が低くなります。

那須高原の3月の気温の一覧表から、事故現場のスキー場の気温を見積もると、

「夜は氷点下、昼間は0℃以上、時には4℃以上」

(4℃は水の密度が最大になるため、要注意温度の一つです)

という、かなり危なっかしい状態にあったことが推測されます。

とはいえ、昼間に表面がちょっと融けるだけなら、朝方・夕方には表面が凍っているだけの雪です。足にアイゼンを装着しての歩行に、ある程度の慣れがあれば、どうということはないでしょう(もちろん、その雪面全体が雪崩れる可能性はあるのですが、そこまで問題にするとなると「雪のある山に入るのは全面禁止」しか対策はありません)。

しかし、その上に積もったばかりの新雪がフカフカしている状態となると、危険度が全く異なります。

私は30年ほど前、3月初旬に茶臼岳に登り、スキー場の片隅を通って下山した記憶があります。たぶん、今回の事故現場のスキー場です。

同じ状況なら、自分ならどうしたか。適切な判断のもと危険を避けられたか。自信ありません。

ただ、「これだけはやらないだろう」という行動が一つあります。そういう斜面を横切ることです。

結果として雪崩リスクを高めてしまったのは?

表層雪崩リスクが高い斜面を、うかつに横切らない、斜めに渡る(トラバース)ことをしない。ラッセル(雪をかいて通路を作ること)なんて絶対しない。どうしてもその斜面を登るのなら、端のほうをしずしずと、ツボ足で。

これらは、冬山に行くなら知っていなくてはならない原則です。もちろん、指導に当たられた先生方がご存じなかったとは思えません。

でも、ラッセル訓練は始まり、事故が起こりました。

当初の登山訓練を中止して切り替えられたラッセル訓練が雪崩を誘発した可能性もあり、主催者側の無謀な判断が悲劇を生んだとみられる。

出典:産経ニュース:2017.3.28 07:20 【栃木スキー場雪崩】 無謀な強行判断 歩行訓練が雪崩誘発か

実際にラッセルによって事故が誘発されたのかどうかについては、検証を待ちたいところです。ただ、可能性はあります。

それって本当に「危険」?

一連の報道を見ていて、大きな疑問を感じるもう一点は、「危険」「危険でない」と、その対策の是非についての判断です。

そもそも、そんなに明確に区別できるわけではありません。

「冬山だから危険」「秋山・春山だから危険でない」という区分は?

冬季特有の山の危険性は、確かにあります。

「夏ならハイキングで登れるけど、冬は一般ピープルには無理」は、ごく普通にみられることです。

しかし、「冬山は危険、春山はそうでもない」あるいは「雪があるから危険」と言い切っていいものでしょうか?

夏山は高温と日照に落雷、春山と秋山は不安定な足元と気象。どの季節にも、それなりのリスクがあります。

安定した積雪と気象、安全地帯に戻りやすい地理的条件のもとであれば、冬山には「春・夏・秋のリスクがなく、その意味では安全で快適」という面もあります。とはいえ、積雪のない時期には不要な荷物や技術が必要になるため、「誰でも」というわけにはいきません。

安全な登山のためには、とにかく雪や氷の時期を避ければいいのでしょうか? それでは、春山や秋山に安全に登るための技術を習得することも難しくなります。

危険の内容と程度に対して、「冬」「雪」といったザックリすぎる理解では、対処できません。

ビーコンを持っていなかった、そもそもの背景は?

雪崩リスクがあるにもかかわらず、ビーコンを装着していなかったことに対する批判もあります。

栃木県那須町のスキー場付近で起きた雪崩被害で、死亡した8人を含む高校生らは遭難者の位置を知らせる送受信器「ビーコン」を持っていなかった。雪崩で生存可能性が高いのは遭難から15分以内とされるが、8人の救出には3時間以上かかっていた。

出典:朝日新聞デジタル:雪崩想定外?高校生らビーコン持たず 位置特定に時間か 2017年3月29日11時34分

もちろん、指導の先生方全員に、雪崩リスクに関する認識が皆無だったわけはないでしょう。

とはいえ、高校生を行かせないことが推奨されている冬山で、ましてや「雪崩リスクを冒してまでの訓練」と堂々と言えるわけではないとすれば、学校のビーコンを持っていくとか持ってくるように高校生に指示するとかは、出来ない可能性が高いと思われます。

そもそも、そんな時期・そんな場所に行くという前提がなければ、山岳部や山岳部員の所有物としても、ビーコンが存在しなかったかもしれません(雪崩リスクの意識があれば「色付きの紐」という古式ゆかしい知恵の出番ではあったかもしれませんが)。

この点も、報道が待たれます。

問題点1:「やっちゃいけないけど、しないわけにはいかない」

以上から、一つ目の問題点として、

「高校生の部活としてはイケナイ」と「山に行く人に対して訓練しておかないわけにはいかない」の間の谷間

が挙げられます。

現在の文科省方針のもとでは、「高校生の部活としてはイケナイ」冬山と、春や秋を含めて山に行く人・今後も登山を続ける可能性が高い人に対する基礎訓練が両立しません。

その両立しない2つの間に発生している谷間が、不幸にして事故を招いた側面は多大でしょう。

問題点2:誰も「危険」と思わなかったわけはない

2つ目の問題点は

危険に誰も気づかなかったわけはないのに、事故が起こってしまった

です。

元へなちょこ登山愛好家、しかも過去12年くらいは近郊の低山にも登っていない私でさえ気づくような問題点に対し、現役の山女・山男である先生方の全員が気づかなかったわけはありません。もしかすると生徒さんにも「これはちょっと?」と思った方がいたかも。そのくらい基本的な知識だからです。

そもそも、初歩的ミスは、初歩的ミスだからこそ繰り返されるものです。「舐めていた」ということもありえます。また、経験と勘が正常な恐怖心を打ち消してしまうこともあります。

今回は、学校を超えての集団行動でした。ふだん以上に、カッコ悪いところは見せたくない感があったのではないでしょうか。

「なんだかヤバいんじゃないかと思ったけれど口に出せなかった」

「やめたほうがいいと思って言ってみたけど、なんとなく打ち消す雰囲気があって、それ以上言えなかった」

が大事故を招いた事例は、山岳遭難には数多く存在します。

「虫の知らせ」「怖気」といった生き物として重要な感覚を大切にしながら、ワクワクドキドキを楽しめるような雰囲気は、日本の多くの場所にありません。

でも、必要です。

少数者、どちらかといえば弱めの人の危機感を笑い飛ばさず、大切に共有し、大きな危険を避けるような文化を作らなくては、と思います。

最後に:どこが社会保障と関係あるのか?

最後に、私が何を社会保障とのアナロジーでとらえたのかを述べます。

1. 機械的な区分で危機を避けることはできない

社会保障は、個人レベル・コミュニティレベル・地域レベル・社会レベルで、決定的な危機を避けるための仕組みです。

たとえば、生活保護の不正受給や不適切(とされる)受給が話題にのぼるたびに、

「本当に困っている人は助けなければ」

「不正は徹底的に取り締まらなければ」

という意見が見られます。

しかし、「本当に困っている」「不正」と、そうでない状態の境界は、誰がどこに引けるのでしょうか? 

もちろん、機械的に一定の基準を設けることはできます(生活保護についていえば、生活保護基準そのものが、「保護が必要」「保護は不要」を区分するための、極めて機械的な基準となっています)。

しかし人間一般に対して「Aである」「Aでない」の明確な境界を設けて区分することは、原理的に不可能です。

「冬山である」「冬山でない」、「認められている」「認められていない」の無理やりな線引きが背景ともいえる雪崩事故からは、社会保障に限らず、人間の社会に対する数多くの教訓を読み取りたいものです。

2. 弱い人の聞かれにくい意見は、宝の山かもしれない

生活保護をはじめとする社会保障の「受給者」として直接の恩恵を受けている方々は、この社会の中で、最も追い詰められた人々です。

追い詰められつづけていた結果として判断を誤り、一つのつまづきが次のつまづきを引き寄せつづけ、しかし傍から見れば「自己責任」で生活保護しかなくなっている、としか言いようのない事例は、非常に多く見受けられます。

しかし、この方々が自ら積極的に声をあげることは、ほとんどありません。「生活保護なんだから」と黙らせられ、それでも声をあげれば「自己責任でしょ」と冷たくあしらわれるのが常だからです。

そういった日常の中で弱気になり、社会生活や職業生活に支障をきたすと、「生活保護だから甘えている」という追い打ちがかかります。

でも、日本の社会福祉・社会保障がどのようなものであれば本当に役に立つのか。日本のすべての人の幸福の基盤になれるのか。

少なくとも、この方々に「教えてください」と頭を下げ、その言葉に真剣に耳を傾けることなくしては、ヒントも手掛かりも得られないのではないでしょうか。

雪崩事故に関しては、今のところは報道や調査を待つしかないのですが、正常な恐怖感や、一定の知識や経験に基づいた「やめといたほうがよさそう」という感覚を持ちながら現場に居合わせた方が、必ずおられるだろうと思います。

同じ状況でも、その方々が声を上げることができ、その声が聞かれていれば、事故にはつながらなかったかもしれません。

時間はかかるでしょうけれども、この観点からも、お一人お一人の体験が丁寧に聞き取られることを望みます。

忘れられて風化して終わり、にしないために

最後になりましたが、雪崩事故で亡くなられた方々のご冥福とご遺族のお心の平安を祈ります。

また、居合わせた方々、目撃された方々、責任を感じておられる方々が、適切な配慮と支援のもと、まずは少しでも心穏やかに過ごされることを願います。

その上で、

「危険を完全に避けて過ごすことはできない世の中で、どうすればより安全に危険を学び、より安全な判断ミスや失敗ができるようになれるのか」

「3人寄れば文殊の知恵だけど、3人いるからこそ起こりうる種類の問題はないか」

「上がりにくい声・声を出しにくい人こそ社会の宝と考え、実際に宝として大切にするためには、何が必要なのか」

といった普遍的な観点から、徹底した検証が行われることを望みます。

それこそが、亡くなられた方々の生命に対する最大の弔いであり、事故までに重ねられてきた取り組みを含めて「無」にしないために必要なことであろうと、確信しています。