江戸時代の庶民の識字率が95%以上に達していたということは、みなさまよくご存知の通りです。
なぜそこまで識字率が高かったのかといえば、寺子屋教育があったからです。
そしてその寺子屋では、6歳で入学すると必ず、いまで言ったら1年生のときから『童子教』という教科書を暗唱するのが習いでした。
その『童子教』は、たいへん長いもので、漢字5文字を1行として、なんと330行もあります。
その一番始めのところに、次のように書いてあります。
*********
【童子教】
1 夫貴人前居 夫(そ)れ貴人の前に居ては
2 顕露不得立 顕露に立つことを得ざれ
3 遇道路跪過 道路に遇ふては跪(ひざまづ)いて過ぎよ
4 有召事敬承 召す事有らば敬つて承れ
5 両手当胸向 両手を胸に当てて向へ
6 慎不顧左右 慎みて左右を顧みざれ
7 不問者不答 問はずんば答へず
8 有仰者謹聞 仰せ有らば謹しんで聞け
*********
現代語に意訳すると次のようになります。
「貴い人の前では、そ
の方の目の届くところに
立っていてはいけません。
道路で出会ったときには、
ひざまづいて通り過ぎるのをお見送りしなさい。
その方から、何かを声をかけられたときは、
十分に敬意を表してうやまってお言葉をうけたまわりなさい。
両手を胸に当て向い、
慎んでうけたまわりなさい。
そのとき、左右をキョロキョロ見るようなことをしてはなりません。
問われるまでは答えてもなりません。
おおせがあれば、謹しんで聞きなさい。」
要するに、貴い人の前では、それが屋内であろうが、路上であろうが、晴れていようが雨が降っていようが雪の中であろうが、ひざまづくことが、小学一年生から教わる作法だったのです。
寺子屋のお師匠さんに対してさえも、そうなのです。
ましてお大名がお通りになるとなれば、路肩に寄って、ひざまづいて通り過ぎるのを待つのは、当然の常識であったわけです。
トップの絵のお江戸日本橋はどうなのかというと、お大名が後ろから近づいてきているのに、ぎりぎりまで、商売やおしゃべりに興じています。
実はこれによって、江戸の街の活気を広重は絵で表しているのであって、「だから大名の前でひざまづかなくても良かったのだ」ということではありません。
ですから同じ広重の別な絵では、下のようにちゃんと庶民が土下座しています。
『東海道名所之内・高輪大木戸」
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)近年「法律で決まっていないことなら、してもしなくても個人の自由」と言ったり、行動したりする人がいます。
そうすることで、自分が得をすれば、あるいはお金が儲かれば、その方が良いのだという発想のようです。
しかし江戸時代までの日本では(というよりも戦前戦中までは)、そのようなことを言ったり、そのような振る舞いをする人は「斜めの人」と言われました。
「斜めの人」というのは、ものごとの見方や考え方や行動が歪んでいる人のことを言います。
そしてそのような人こそ、「世間に後ろ指をさされる人」であり、親や祖先に顔向けできない不道徳な人とされていたのです。
歴史を考えるときには、その時代の当事者がどのような教育を受け、どのような社会環境の中で生活をしていたかをしっかりと踏まえる必要があります。
いまの日本で、たとえば総理大臣が目の前を通り過ぎたとしても、道ばたに寄って土下座する人はまずいないでしょう。
だから江戸時代もそうだったのに違いないというように考えるのは、たとえそれが歴史学者のご意見であったとしても、日本を知らない無教養なご意見でしかありません。
ここまで書いたので、以下は、補足です。
江戸時代の士農工商について、少し前までは、学校の教科書にも
「江戸時代は士農工商という厳しい身分制度があった」
などと書かれていました。
けれど、これも新しい教科書では、ずいぶんと訂正されて、いまではちゃんと、
「江戸時代には士農工商の役割分担があった」
と書いているものが多くなりました。
江戸時代は、身分による秩序については、たいへん厳しい時代です。
しかし身分そのものは、流動的で少しも厳しくありません。
町民や農民の子でも、学力優秀であれば、藩の重臣として取り立てられてもいるのです。
そもそも「士農工商」という言葉は、Chinaからの輸入語です。
Chinaにおいては、士農工商は、固定化された身分そのもので、これは共産主義政権となった今でも、パスポートには「農民」と書かれたりしているほどです。
また、Chinaにおける「士」は、「士大夫」のことであって、儒教社会における「官僚」のことです。
いまならChina共産党の幹部が「士大夫」です。
けれど日本では、秩序を維持する「武士」のことを言います。
つまり用語の対象者がまるで違うのです。
実際、日本では、農民出身で武家になった者は多数います。
なかには家老職などにまで出世した人もたくさんいます。
また多くの武士たちの尊敬を集めた私塾の塾長が、もともとは農家の出であることもめずらしくありません。
もちろん商人から士分に取り立てられて、辣腕をふるった人もたくさんいます。
そもそも武家であっても、次男坊や三男坊で家督を継げない者は、その家の知行地(領地のこと)に行って、そこの名主さんのお世話になって、土地を借りて農業をして生計を立て、そのまま農家の娘さんと結婚して子をもうけるというケースも多々あったのです。
人は食べなければ死んでしまいますから、それがいちばん、確実に食べていく方法であり、実際には、このケースが一番多かったのです。
知行地の領主のことをお殿様と言いましたが、そのお殿様の下に、知行地の地域を統括する名主さんがいました。
その名主さんが、要するに地主さんです。
多くの農民は、その名主さんから、田畑を割り当ててもらって、そこで農業をして生活します。
汗を流して労働するので、水をたくさん飲むから水呑百姓(みずのみびゃくしょう)などとも言いますが、要するにこれが小作人です。
しかしその小作人が、お殿様の次男坊、三男坊だったりするのです。
小作人たちは、田畑で米や野菜をつくりますが、納税はしません。
納税をするのは、地主さんの仕事です。
地主さんは、出来上がった作物を年貢としてお殿様に納めますが、お殿様は、たとえばそれが新米なら、その新米を口にすることはありません。
ではどうするかというと、そのまま備蓄します。
そして一昨年の古古米から蔵出しして、部下への俸禄を支払います。
つまり、年貢米は2年分備蓄されたのです。
どうして備蓄するかというと答えは簡単で、日本は天然の災害が多いからです。
万一のときには、お蔵米を放出することで、知行地の民の命や暮らしを守らなければなりません。
なぜなら、知行地の民たちは、天子様から預かっているたいせつな「おほみたから」だからです。
これを「知らす」といいます。
だから「知らすを行う土地」なので「知行地」といいました。
よくもまあ、戦後の教科書は、嘘八百を並べたものです。
ちなみに江戸時代は、小作農のほとんどが読み書きができましたが、当時の文書は、すべて筆字の手書きです。
いまみたいな活字ではありません。読み書きする字は、筆字の崩し字、草書や行書で書かれていて、ふりがななどふられていない文書です。
それを、ほとんどの農民が、ちゃんと読み書きできたのです。
残念なことに、現代日本人は、筆字で書かれた当時の文書を読める人は、滅多にいません。
ということは、江戸時代の水準からいえば、現代日本人の識字率は、ほぼ0に近い。
福沢諭吉が、学問のススメの中で、次のように書いています。
「およそ世の中に無知文盲の民ほど哀れなものはない。
知恵のない者は、恥さえも知らない。
自分が馬鹿で貧窮に陥れば、
自分の非を認めるのではなく、
富める人を怨み徒党を組んで乱暴をはたらく。
恥を知らざるとや言わん。
法を恐れずとや言わん。
(中略)
こういう愚民を支配するには、
とてもじゃないが道理をもって
諭(さと)そうとしても無駄なことである。
馬鹿者に対しては、ただ威をもっておどすしかない。
西洋のことわざに、
愚民の上に苛(から)き政府あり、
とはこのことである。
これは政府の問題ではない。
愚民がみずから招くわざわいである。」
要するに自己責任だと行って外国の紛争地帯にでかけて行って捕まると政府に助けてもらうな
ただし、です。
でいう学問というのは、単に知識の詰め込みや、学問のためにする学問のことではありません。
高い道徳心を養い、物事の正邪をわきまえ、秩序正しい世の中を築こうという積極的な意思を養成する学問です。
思うに戦後の教育が陥った陥穽(かんせい)が、まさにここにあるのではないかと思います。
学問は、ただ、クイズの問題をいちはやく答えるためのものではありません。
考える力、先を読む力を養い、自らを律して正しく生きるためのものです。
つまり修身こそ、学問の要(かなめ)です。
戦後の歴史教育は、冒頭にあった神話を削除しました。
神話は歴史ではない、というのがその論拠です。
ところが近年になって諸外国がはっきりと自覚していることは、神話は価値判断の基礎であるということです。
つまり神話を学ばない民族は、価値判断の物差しを持っていない、哀れな民族に他ならないということです。
恥を知らない。
自分が馬鹿で貧窮に陥っても、それを政府の「せい」、他人の「せい」にする。
法を恐れず、法を利用することばかりを考え、犯罪を犯してもバレなければ良いと考える。
この日本人の愚民化は、早々に対策を講じていかなければならないことです。
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