六角凧の絵付け・・・小杉勝美さん(かつみ工房)にインタビュー
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この世界(凧絵付け)に入ったのは20歳のころ、足掛け50年になる。 当時今町に「柏水会」という、洋画日本画を問わず絵を描く会があり、会長の韮澤常冶さんから『凧絵を描いてみろ』と勧められたのがきっかけです。
映画館(その昔今町諏訪神社の付近にあった)の大きな看板は見ていたが、大きな凧の絵は、どこでどのようにして描いているのか見当もつかなかったが。『とにか描いてみろ』と言われて描き始めた。 最初は絵ではなく字凧の文字やマークなどを描いていました。
当時は20枚から30枚の凧が製作されていた。 15年くらい前まで、中之島側で揚げる凧も今町で作成していて、200枚くらい作成していた。 現在は中之島でも70枚くらい作成している。
絵付けは、凧として出来上がっている(白凧)ところに文字や絵を描くので、描き損じは許されず、今でも、緊張のあまり手は振るえ膝はガクガクする。 そのため、描き始める前に酒を飲み緊張をほぐしたものだ。(言い訳かな)
メンバーは11人。 土日だけでなく仕事が終わって夜集まり、夜なべ作業をしています。
出来栄えの良し悪しは揚げてみて(遠くから見て)判るが、揚げる前下に置いて(近くで見て)も、絵として良くなくてはならない。 武者絵など顔を大きく描くが、風を受けて揚げるために、「しなり」をもたせる。そのとき絵図が変形して見え、それでも何の絵か誰の顔か分かるようでなければならない。
作成工程は 3月ころから和紙、竹、糸などの材料調達から始まり、絵付け工程は5月段階、1ヶ月で約100枚作成する。
白凧を平面に広げ、まずチョウク(白墨)でデザインし、その上から薄墨で描くき、構図がきまると色をつけていく。 凧の芯になる竹や糸が通っていて、線がまっすぐ引きにくいなどの難しさがある。経験と思い切りでそれなりに描いている。
描く絵が大きいため、構図が難しいが、下絵はフリーハンドで一気に描いていく。(時間がもったいないから) 何年も絵を描いて「経験」があるといっても、描くのは年一回だから、2枚3枚と進むと次第に感覚が蘇ってくるが、その年の最初に描く1枚が嫌だ。
何故六角形なのかは、風を受けて揚げるための揚力を計算されていると思われるが、亀甲(縁起)の六角形からきているのかも知れない。正確な文献はない。 ロッカク は世界共通語。合戦用の六角凧では、今町の六角凧は最大で日本一(豪壮日本一)。世界一とも言える。 三条も六角だが横広の形、今町は縦長の六角。(合戦・実戦用だから)
想いは・・・
中之島町は合併して長岡市になったが、今町との凧合戦は刈谷田川を挟んでこれからも続いていくだろうし、この地の貴重な文化であり継続発展させたい。 子供から大人、年寄りまで、凧に親しむ環境づくりが必要だ。 片貝の花火のように(他の花火のような単に観光イベントとしてだけでなく)、出産祝いとして花火を上げたり、お祝いや祈念など、生活習慣と密着して存在させるようなあり方が、凧にも必要ではないかな。
<現場の風景>
和紙を張った白凧にチョーク(白墨)でデザイン
似顔絵的な構図はOHPで投影して下絵を描く
中之島の絵付け風景(5/19取材)
夜遅くまで絵付けに汗を流している中之島の皆さん。
多くのスポンサーからのオーダーに合わせて色・デザインを決め、分担して作業に追われていました。
ミニ解説
大凧合戦(いかがらめ) 見附市今町と長岡市中之島(旧南蒲原郡中之島町)の間に架かる今町大橋の下流、中之島猫興野地内で、
毎年6月第一日曜日をはさんで3日間、大凧合戦が行われています。
大凧を揚げ空中で絡め糸が切れるまで引き合うという勇壮なお祭りです。
凧合戦の
起源は、文献などの確証はありませんが、
元禄年間(1688~1703)の頃、 商用にきた信州信濃の紙商人が、たまたま端午の節句にこの地で大凧(イカ)を作り、刈谷田川堤防上で揚げたことが始まりと伝えられています。 江戸時代の天明3年(1783)より行われた刈谷田川改修で堤防を踏み固めるために行って以来、年中行事として・・というのが定説です。
その後、今町商人が刈谷田川港を利用し、近郷の物資の集散地として資力を蓄え、それに比例するように凧合戦も盛んになり、6月の5、6、7日、地主、大商店では、農村の田植え休みに合わせて、使用人の慰安を兼ねて多額の費用を投じ、各凧組の凧をつくりました。
当初は40枚張りから60枚張りが多く、大橋上流、下町、上町裏の両岸で行われていました。
凧も次第に大型になり、 美濃紙100枚(高さ4.3m 幅3.2m)を使った
100枚張りの大凧が作られるようになりました。
<参考文献 「見附文化財散歩」1993 他>