「時間指定配達」「再配達」「年中無休」といった流通・販売サービスに、特に都市部の消費者は慣らされていっています。
この一方、配達・店舗を中心に過重労働が問題になっています。
問題の根源は何でしょうか? 注目されていない問題点は何でしょうか? 取れる対策はあるのでしょうか?
問題を指摘した『AERA』記事
『AERA』2016年11月21日号に掲載された記事
「再配達や年中無休、本当に必要ですか? 過剰品質が働く人を追いつめる」
では、消費者の細かな要求の背景・細対応しようとする企業の姿勢・配達・販売の現場で働く人々が追い詰められていることを指摘しています。
末尾は、電通に勤務していたコピーライター・前田将多さんの言葉で締めくくられています。
「クライアントは『神』とされ、現場の社員や協力会社のスタッフはむちゃな要求に非人間的な努力で応えている。でも、彼らも人間です。何げない要求が相手の時間を奪い、追い詰めることがある。みんな、そのことを想像してほしい」
でも、コスト引き下げ圧力による労働のブラック化は、たとえば2007年、郵政民営化の時にも指摘されていました。
力ある企業の都合で大変な思いをする人々がいること、その企業の都合は消費者の都合から発生していることは、今に始まったことではありません。
過去、何回も何回も繰り返されてきた問題と、ここ数年の問題は、どこが違うのでしょうか?
情報とモノの流通コストは全く違う
ICTが普及した現在、情報の流通コストは限りなく低下しています。
もしも、ネット通販大手に何かを注文するとき、いちいちハガキや封書を送らなくてはならなかったら? あるいは、伝書鳩に注文内容を運ばせなくてはならなかったら? そこまで行かなくても、電話をかけてオペレーターと話さなくてはならなかったら?
スマホやパソコンで手軽に注文することに慣れたイマドキの消費者は、購買意欲を喪失してしまうでしょう。
それほど、情報の流通コストは低下しました。
インターネットを通じた情報の流通には、時間も場所も選ばないこと、どこから誰に送っても料金が大きく変わらないことなど、数多くの特徴があります。また情報量が多くなったからといって、それに比例してコストが高くなるとは限りません。
ところがモノの流通は、そうではありません。
保管・ピックアップ・箱詰め・配送、どの段階にも、リアルなスペース・リアルな人手・リアルな動きがあります。
リアル店舗を構えるならば、店舗の賃貸料・商品の仕入れ費用・保管費用・店員の人件費など、リアル店舗である以上は一定以上に減らせないコストが必ずあります。
インターネットの普及によって、モノの流通・販売は確かに一変しました。
しかし、注文を受け料金を回収するコストが激減しただけで、その他のコストは大きくは変わっていません。
いかに配達を効率的にしたくても、道路状況や気象状況は思い通りになるものではありません。
情報の流通と同じ意味で「効率化」を図ることはできないのが、モノの流通であり販売です。
しかし消費者から見れば、リアル店舗に行ってモノを持って帰るか、ネット注文してモノを配達してもらうかだけの違いです。
消費者目線から見た時、どうしても見えなくなりがちなのが、リアル流通・リアル販売のコストです。
とはいえ、ネット注文によって「便利だし、比べて安く買えるし」と喜んでいる消費者に、「喜ぶな」と言うのは無理な話です。
言うことはできるとしても、感情面での納得はされないでしょう。
情報流通コストの低下が、リアルな流通コストを見えなくしている
情報の流通コストの低下が、今のところはモノの流通にかかるコストも同様に低下しているかのような錯覚を生んでおり、その錯覚を利用したビジネス拡大があり……。
このイキオイを止めることは、誰にも容易ではないでしょう。
それでも、実施すれば実効性はあるかもしれないことがらが、いくつか考えられます。
たとえば、「送料無料」を法で禁止することは、必要性が認められれば可能かもしれません。
あるいは、ネット通販大手に対して、リアルな流通コストを加味した販売価格とするよう規制することも、可能かもしれません。
しかし規制緩和が進行する中、規制を強化する方向性で何かをコントロールするのは、あまり現実味がありそうにありません。
労働問題としてはどうなのか?
では、最先端、最も客先に近いところ・購買者の要求を直接に満たすどこかで働く人々の労働条件という面からは、どうでしょうか?
冒頭で紹介した記事
「再配達や年中無休、本当に必要ですか? 過剰品質が働く人を追いつめる」
にもあるとおり、就労継続が困難なほどの労働条件が既に生み出されているわけです。
労働条件や報酬を、人間らしい生活の可能なレベルにすることを厳格に求めることができれば、人に対するコストのしわ寄せは避けられます。
しかし現在の世の中で、どうすれば実現できるのでしょうか?
これまでも、派遣労働や業務請負など数多くの形態で、「より安く」という労働ダンピングが継続されてきています。
このような逃げ道を一切作らせない仕組みがなければ、どういう労働規制を設けたところで、新しい逃げ道が作られるだけでしょう。
そもそも、企業に努力を求めること、あるいは何らかの規制を導入することによって、何とかなるのでしょうか?
私には、そうは思えません。
情報流通コストの低下がモノの流通コストを引き下げているという関係、情報流通コストのさらなる低下への流れは、一企業・一国単位でなんとかなるものではないからです。
このようなことを考えながら、私もネット通販を便利に利用しています。
自分の職業の価値や能力を高めるために有効なモノやサービスを、同業者と同様に利用しなければ、自分が消費者でいることも難しくなります。
それでも、個人レベルで出来る「少しでもマシ」はないだろうかと、試行錯誤しています。
ネット流通を「少しでもマシ」にする個人的対処
- 在宅時間を決めておく
フリーランサーは、自分の生活時間を自分で決められるようでいて、実のところそうでもないことが多いのです。
仕事の日時や場所を決めるにあたり、相手の都合を優先しなくてはならない場面が多いからです。
それでも、早朝や午前中なら「在宅する」が可能です。
私はヘルパー派遣を受ける都合もあり、出張していない限り、だいたい午前11時より前は在宅することが可能です。
宅配便の日時指定では「午前中」を選択し、備考欄に「◯時までは確実にいます」と書いておくと、無駄な配達を強いてしまう可能性が少し減らせます。
- 備考欄には「配達前に携帯に連絡ください」と一言
それでも、配達の予定されている時間帯に「ちょっと外に出かける」「戻れなくなった」といったことはありえます。
この問題に対しては、備考欄に「配達前に携帯に連絡ください」と書いておくことで、住居方面に宅配便の業者さんが向かう前に在宅を確認してもらうことが可能です。
- ネットスーパーよりも、背景の見えやすい業者を選択
生鮮食料品の買い物なら、ネットスーパーではなく、ネット注文と個別宅配のある生協などを利用するようにしています。
生協もいろいろですが、生産・流通も含めて持続可能性を追求している生協もあります。
当方には「間違いなく在宅できる曜日がまちまちである」という問題があるため、配達曜日の異なる2つの生協を利用しています。
現在利用しているのは、「企業姿勢には◎、でも価格やや高い」という生協と、「企業姿勢には◯~△、でも価格リーズナブル」という生協です。
大雨・大雪・台風などの際、企業姿勢に疑問の持たれる方の生協は、欠品や急激な値上げが多いです。逆に企業姿勢は評価できるけれども価格は高い方の生協は、もともと高い価格への転嫁が若干はされにくい傾向があり、欠品も比較的少なかったりします。
誰かや自分の「生活コスト」、労働をお金で買ったり売ったりして生活していることの背景は、こんなところからもチラリと見えます。
- 大きく重いものは、なるべく近所の個人商店を選択
大災害のたびに、近所の個人商店や商店街の意義や重要性は、再認識され、そして忘れられています。
ビジネスの都合で出店したり撤退したりしにくい、地域密着型の個人商店こそ、いざという時の、もちろん日常の強い味方です。
米は、隣町の米屋さんから5kg単位で買っています。玄米で仕入れ、注文があってから精米する米屋さんです。「5kgのうち3kgを3分づきで、2kgを白米で」といったニーズにも対応してもらえます。
この米屋さんとは、20年おつきあいしています。かつては自転車で買いに行っていましたが、私が障害者になって以後は配達をお願いしています。
また水は、ネット通販に走りたいところではありますが、せめて、地域の酒屋さんをフランチャイズ化している大手ネット通販で買うようにしています。地域の酒屋さんの倉庫から、そこで働く人々によって届けられるわけなので、どこに倉庫があるかもわからないネット通販よりは、地域経済に貢献することになるだろうと思います。
少しでもマシな選択は、誰にでも可能なことであろうと思います。
ただ、ごく一部の個人がそういう選択をはじめたところで、ネット通販全体のイキオイに対しては何の影響ももたらせないでしょう。
やはり、少しでもコストを可視化していくこと、そのコストを「受益者」に負ってもらったり負ったりすることによって、構造的な解決を目指すしかなさそうです。
結論:ネット流通・販売が今のままであることは、多大な社会的コストを生んでいる
ネット流通・販売のコストについて、私は毎日、「見る」「意識する」を迫られる立場にあります。自分自身もヘビーユーザーなのですが。
商品の配送中、路上には配送業者さんの車が停車しているわけです。その前や横や後ろは、私のような車椅子族にとって、大変危険な場所です。
停車している横を通って前に出ようとしたとき、その向こうの駐車場から無灯火で静かに出て来る自動車がいないかどうかは、そこまで行くまで分かりません。
配送車は、そこに一時的にいるだけで、リスクを生んでいます。しかし「だから配送しないでほしい」と誰が言えるでしょうか。私もユーザーの一人ですから、言う資格はありません。
もちろんプロのドライバーとして、安全運転には最新の注意を払っておられるでしょう。それでも「路上に多数いる」「急いでいる」「数多くの配達をこなさなくてはならないので疲れている」というだけで、いわゆる「交通弱者」に必要な注意レベルと緊張は高まります。
年末にかけ、お歳暮配送で配送業者さんが焦るようになると、間一髪のヒヤヒヤを味わうことが連続します。私に万一のことがあったら、2匹の猫たちはどうなるのだろうかと、背筋が寒くなります。
かつて自動車が普及したとき、道路整備や大気汚染や自動車事故のコストは、とりあえず脇に置かれてしまいました。「脇に置いておいたら自動的に消える」のならばよいのですが、そんなことはありません。
もちろんこの数十年、エンジンの改善、道路のさらなる整備による渋滞解消、さまざまな安全装置の開発が進められてきています。また、都市部を中心に、自動車を所有しようとしない人々も増えています。
それでも、自家用車の普及によって痩せ細った公共交通は、結局のところ、資金を投入しなければ復活させられません。人が住んでいる限り、道路整備のコストが不要になることもありません。
消費者エゴも問題、過剰な利便性を提供することも問題、規制が難しいことも問題、情報とモノの流通の差異を見てみないことも問題。
どこを見ても問題だらけ、即効薬的な解決手段はなく、解決させることが出来るだろうと期待することもできません。
情報の流通が質量ともに増大する流れを止められない以上、そのことが生んでいるコストから目を背けず、どこに何円が実質的に転嫁されているのかを意識することから、まず最初の一歩を踏み出すしかないのだろう、と思っています。