相模原事件から3ヶ月・何かが変わったのか?

日本中の驚きと悲しみは、どこに行ってしまったのでしょうか?(写真:ロイター/アフロ)

神奈川県相模原市の障害者施設で、入所していた障害者19名が殺傷された事件から、3ヶ月が経過しました。

世の中の関心は、その後に起こったニュースへと移ってしまっています。

もはや忘れられ始めているも同然の事件は、何をどう変えたのでしょうか?

19人の殺害へと至った最大の背景は?

刃物を持ったU容疑者が短時間で40人以上を殺傷し、うち19人を殺してしまうことができた背景の一つは、「そこに人がたくさんいた」です。しかも、その人々は、自分の力では抵抗できない重度障害者たちでした。

深夜のことで職員の人数は少なく、もと職員だったU容疑者は内部の様子を熟知していました。

人が多く集まっているところで、抵抗されにくい状況を選べば、短時間に多数の人を殺害することが可能です。

このことは、新宿駅前でも秋葉原でも宇都宮でも同じです。違いは、周囲に多数の健常者がいて抵抗したり通報したり逃げたりする可能性があること、したがって、そう簡単に大量殺人はできないことです。だから、このような場面で選択されるのは、しばしば爆発物となります。

Yahoo!ニュース: 宇都宮爆発 自殺の元自衛官、爆弾を自作か

また、都市部で警察署・交番・警官密度が高ければ、現場に駆けつけて容疑者の取り押さえるまでの時間は短くなります。

犯行現場となった障害者施設は、そのような状況にもありませんでした。

抵抗できない相手・抵抗されにくい状況・容疑者が取り押さえられるまでに時間がかかったことにより、被害が拡大しました。

このことは、どれだけ強調してもしきれないと考えています。

障害児・障害者の生活は?

では、この事件の前後で、障害児・障害者の暮らしに、何か変化はあったでしょうか?

自分の実感としては、何も変わっていません。

福祉・介護・医療の後退は、「粛々と」継続されています。

介護保険の利用者負担を原則2割に 経団連が医療・介護制度の改革提言(産経新聞)

障害者は、事件で殺されたら悼まれるようです。そのことは、相模原事件でわかりました。

でも生きやすくなったわけではなく、今後生きやすくなる見通しもありません。

社会生活を行うための福祉が後退している中で、就労による狭義の「自立」を要求される流れが強まっている状況、言い換えれば

「ハンディキャップある人が生きるために必要なものは与えない、生きたかったら自力でハンディキャップがない状況になってください」

と言われ続けているも同然の状況は、事件の前と何ら変わりなく、現在も続いており、強化されています。

障害児・障害者の暮らしの場は?

障害者施設が風光明媚な立地に、言い換えれば人里離れた場所にあり、一般社会は切り離された状況にあることそのものへの反省は、「見事に」といってよいほど社会で語られていません。

(犯行現場となった施設は、現在は住宅地の中にありますが、設立当初は周囲にほとんど何もない山の中でした)

この状況こそ変えなくてはならないはずなのですが、障害者施設を街の中に建築しようという計画は、相模原事件前と同様に住民の反対に遭っています。

横浜市瀬谷区では、4年にわたる近隣住民の反対運動の末、知的障害者グループホームの建設計画が撤回されました。

神奈川新聞:建設断念 障害者差別と看板(上)反対運動 なぜ”成就”

神奈川新聞:建設断念 障害者差別と看板(下)撤去の機運高まらず

住民の反対理由の一つには「地域の不動産評価の下落が予想される」が含まれています。

「私たちの財産である不動産の価値を損なう障害者は、近くに住まないで欲しい」

という気持ちが、長年にわたり、障害者を人里離れた場所の施設や病院へと追いやってきました。

相模原事件で殺された障害者たちは、施設から、さらにあの世へと追いやられてしまいました。

どんなに良心的に運営されていたとしても、「人里離れた地域の障害者施設」そのものの存在と、そこに多数の障害者が集められているという状況に、私はどうしても疑問を抱かずにいられないのです。

しかし相模原事件に対する関心や意見の多くは、その点を問題にしていません。

どうしても入所型の施設を必要とする障害者は、少数といえども存在します。

私は、入所施設そのものを否定する気はありません。でも、どうしても必要なら、老人保健施設が街の中にあるのと同じように、街の中に、地域社会からの関心やつながりのあるところに作るべきではないでしょうか?

老人保健施設が良くて障害者・障害児施設なら反対されるのは、なぜでしょうか? 

高齢者が安全で障害者が危険だという根拠は何なのでしょうか?

……きちんと答えてもらえることが、あまりにも少ない問いの数々。相模原事件の後も答えてもらえないままです。

精神科強制入院で、あるいは退院後に「予防」できるのか?

事件を受けて、厚生労働省は「相模原市の障害者支援施設における事件の検証及び再発防止策検討チーム」を結成し、2016年8月10日から2016年10月13日までの間に、会議を6回開催しています。

既に「中間とりまとめ」も発表されています。

対策の方向性を3行でまとめると

  1. いったん強制入院(措置入院)となったら、そんなに簡単に退院させるな
  2. 退院後の居場所や状況は、間違いなく確認せよ
  3. 退院後もウザくキモくつきまとって監視せよ

です。ここまではっきりと書かれているわけではありませんが。

まず、そんなことで重大犯罪の予防が出来るものかどうか疑問です。簡単に達成できる状況こそが最大の問題なのではないでしょうか? もちろん「中間とりまとめ」には、施設側の防犯体制も触れられていますが、通常の防犯体制なら存在したにもかかわらず犯行が達成されてしまったこと、達成を許してしまった周辺の状況こそが問題なのではないでしょうか?

誰が「自傷他害のおそれ」を持つか、わからない

誰がいつ自制を失い、「自傷他害のおそれ」がある状態になるか、実際のところはわかりません。

そういう状態は、精神疾患ではない病気や外傷によっても引き起こされます。

その「自傷他害のおそれ」が消えたかどうか、再び発生しないかどうか。正確に予見することは、誰にもできません。

強制入院と解除の手続きを見直したところで、退院後の危険人物扱いを強化したところで、予防は不可能です。

周囲の誰かの「自傷他害のおそれ」が大きくなったとしても、あるいは、そういう誰かが周囲に現れたとしても、致命的な結果に結びつかないようにすること以外、根本対策は見当たらない気がします。

本人にとっては不運な巡り合わせが増えて犯行が達成されず、そういった成り行きの繰り返しのうちに犯行をやり遂げる意欲がくじかれれば、それで済む話です。

たとえば相模原事件で、「さあ、行くぞ」と車に乗ったらエンストしており、修理したら車輪がパンクし、パンクを修理したところに過去に好意を寄せていた女性から連絡があってお茶する約束をした……という成り行きがあったら、事件は実行されないまま終わったかもしれません。

本人が「やり遂げたい」と思っていた犯行が実行されないまま、それより幸せな成り行きになる偶然が数多く本人を訪れればよいのです。

誰か特定の人に対してだけ、幸せな成り行きの確率を増やすことはできないので、社会全体がそうなる流れを作り、あるいは同じ挫折を「不幸」と感じる度合いが減ればよいのです。

そのためには、「ここぞ」とばかりに挫折した本人を責め立てる行為を賞賛する人ではなく、「え?」と疑問視することを賞賛する人が増えればよいのです……これこそが、日本人には最も難しい問題かもしれませんが。

ふつうの人のふつうの暮らしを、障害者を含むあらゆる人に

人の感情は簡単には変わりませんが、環境全体に対して働きかけることは、条例や優遇税制でも可能かもしれません。もちろん、国レベルで法や制度を変えられれば、それに越したことはありませんが。

たとえば、同じ障害者施設が東京・丸の内にあって夜間も人通りが多ければ、少なくとも同じ犯行方法が同じ結果に結びつくことはなかったでしょう。すぐに通報されて警官が来るのですから。

東京・丸の内にわざわざ住みたい人は多くはないでしょう。ならば、一都三県のベッドタウンでもかまいません(津久井は、東京都心までではなく八王子・立川あたりまでの通勤圏です。都心に通勤することは不可能ではない距離なのですが、JR中央線の高尾より西側は、トラブルによる停止が非常に多いので、かなり困難です)。

逆に言えば、「ふつう」の市民・「ふつう」の会社員と同様の安全を、人や社会インフラによって障害者に対して提供すれば、「ふつう」並みに安全な環境が障害者に確保されます。

周囲に人が多ければ、「障害者を見たらヘイトクライムやっちゃえ」という人々が含まれている可能性も人数に比例して高くなりますが、施設だから安全というわけでもないのです。

施設の外で暴力被害に遭ったら、少なくとも「なかったことにする」は困難です。

では施設の中だったら? 職員による虐待だったら? 入所者どうしのトラブルであり施設にとっては隠しておきたい不祥事だったら?

言うまでもなく、「施設の中の方が障害者は安全安心」は、幻想です。

時事通信:県立の知的障害者施設で虐待=外から施錠し閉じ込め-鳥取

結論:何も、良い方向には変わっていない

19人が亡くなった末に、障害者をめぐる状況に、障害者本人たちにとって好ましい方向への変化はありあせん。

「自傷他害のおそれ」がある人々、言い換えれば「何かやらかしそう」と目をつけられた人々(および、これから目をつけられる人々)にとっての状況は、さらに悪くなっていきそうです。

亡くなった19人に対しては、ただ不幸にも亡くなられたことを悼めばよいのであり、そこから何らかの教訓を引き出したり何らかの契機にしたりする必要はないのかもしれません。

しかし、好ましくない方向への変化の契機とするだけでは、あまりにも亡くなられた方々が気の毒なのではないでしょうか。施設のセキュリティの強化は、施設の中で行われる虐待等に対しては無力です。

このままで済ませてしまってよいのでしょうか?

事件を知った人々全員の今後、事件を知ることによって考えや言葉や行動がどう変わるかこそが、問われているのだと思います。