最初に、亡くなられた19人の方々のご冥福を祈念し、ご遺族・負傷された方々とご家族の暮らしとお気持ちが少しでも平安であることを願います。
事件当初の驚き「え、日本で障害者が人間扱いされてる?」
事件が起こった2016年7月26日、私は事件そのものにも驚きましたが、それ以上に驚いたのは「ネット世論」でした。
ネット空間は、亡くなられた障害者の方々への哀悼や、ご遺族のお気持ちへの思いやりにあふれていました。
正直なところ「なぜ?」と思いました。
日常的に障害者差別に遭っている自分から見ると、「信じられない」という感がありました。
よく知っていた地域ゆえにトラウマが刺激されたり
私は1990年代、JR高尾駅すぐそばにあった事業所に勤務していました。「津久井やまゆり園」の最寄り駅であるJR相模湖駅からは、1駅だけ東京寄りです。亡くなられた方、負傷された方が救急搬送された病院のいくつかも、名前を知っていたり、行ったことがあったり、救急搬送されたことがあったりしました。
辛い記憶がいくつも蘇りました。1997年以後の私は、ありとあらゆる手段を動員した「追い込み退職」の対象になっていたからです。
通勤途上で倒れて救急搬送されて処置を受けている途中、携帯電話で職場に連絡して遅刻を連絡したところ、上司が「あ、そこにいるのね」。ほどなく、会社の汚れ作業担当者が病院に姿を現し、医師・看護師と何かを話していました。その直後、私は点滴真っ最中に「出て行け」と言われました。
もしかしたら、同じ病院で、私はそういう扱いを受け、「津久井やまゆり園」の方は妥当な治療を受けたのかもしれない。
そう思うと、内心、堪らないものがありました。
「津久井やまゆり園」の方と私を分けたのは、いったい何だったんでしょうか。当時の私は健常者でしたから。
その後、障害者をめぐる出来事の数々に
2016年7月30日、聴覚障害者が障害を理由として居酒屋の予約を断られ、滋賀県ろうあ協会が抗議を行ったことが報道されました。
ネット世論では、繁忙な(はずの)土曜日に居酒屋を予約しようとした障害者を非常識とする意見、ろうあ協会の抗議を「ゴネれば済むと思って」とする意見など、障害者・障害者団体に対する数多くの非好意的意見が見受けられました。
国連障害者権利条約を締結し、締結の前提として(一応)整備した国内法がすべて施行されている現在の日本では、お店の対応は許されるものではないのですが、法律のいくつかが出来たくらいで世の中の見方考え方が簡単に変わるわけはないんです。
私は、どこか安心しました。「ああやっぱり、これが、私の知っているジャパニーズ世間よね」と。
2016年8月15日夕方、視覚障害を持つ男性が、地下鉄のホームから線路に転落し、轢かれて亡くなりました。
この事件では再び、男性に対して同情的な意見が集まりました。
私はこのとき、あまり動揺しませんでした。
「働いている会社員であり、『電車に乗る』という日常的行為、健常者でも通常は行う行為での事故だったから、こうなるんだろう」
と思ったんです。居酒屋に行くことは「障害者のくせに」と言われかねない行為ですが。
この問題は、今に始まったことではなく、視覚障害者として日本のICT技術の応用に早くから取り組んでこられた長谷川貞夫氏が、早くから指摘を続けています。
今回の事故についてのエントリーも、いち早く出されています。
東京都内に40キロメートルの断崖絶壁:ホームドアがないということ
障害者自身や障害者団体の度重なる長年の指摘にもかかわらず、対策は遅れ、このような事故につながっています。
障害者に対する差別感情は、すぐにはどうしようもないとしても、モノで防げる事故は、さっさと防いでほしいものです。
相模原殺傷事件で、日本の健常者は変わったか?
相模原殺傷事件で、日本の健常者は変わったのでしょうか? 「一部Yes、概ねNo」と見ています。
ふだんの生活で、「事件の前後で日本人の障害者観が変わった」と感じることは、まーーーーーったくありません。
これまでと同じように、日常的に、差別・妨害の数々に遭い続けています。
しかし相模原殺傷事件の直後、深谷かほるさん「夜廻り猫」のエピソードの一つが、静かに読まれているとも聞きました。
生まれたけれども生きられる望みの薄い子猫に、大人の猫が自分に出来る形で「生まれた祝い」を与えるエピソードです。
深谷かほる @fukaya91 2015.12/28の夜廻り猫 68
あの事件をきっかけに、考え始め、思いを巡らせ始めた方々が、きっと数多くいるのだろうと思います。
そういった静かな動きこそ、長い年月はかかるけれども、確実に、日本の健常者の障害者観を変えていくのだろうと期待しています。
気になることがら(1) 措置入院の見直し
厚労省は事件を受け、早々に検討会を設置しました。
厚生労働省:相模原市の障害者支援施設における事件の検証及び再発防止策検討チームの開催について
議事要旨・資料は公開されていますが、議事録は公開されておらず、傍聴はできません。
メンバーには、精神障害者団体からは「自分たちの人権なんてどうでもいい人たち」と不信感を持たれている人々が数多く含まれています。また精神障害者からは「火事場泥棒」という意見も上がっています。
私は、措置入院そのものが妥当ではなかったと思います。
2月に容疑者が措置入院となった時は、「障害者殺しを行う」という犯罪予告でした。
精神保健福祉でいう「自傷他害のおそれ」ではなく、ただの犯罪予告として逮捕し、精神面の問題が明確であるようなら精神科医の診察、あるいは鑑定を行えばよかったのではないでしょうか。いずれにしても通常の刑事司法手続きで済む話です。
また、措置入院などの、いわゆる「強制入院」が本人にとってのトラウマや精神医療不信の根源となる可能性は低くありません。
もしかすると、容疑者は
「自分では正義を行っていたはずなのに、措置入院させられてしまったため、退院後は精神医療に近づきたいと思えなかった」
ということだったのかもしれません。
いわゆる「強制入院」の経験者から、自分にとってどのような経験だったかを聞き取る必要を感じます。
本人にとってどのようなものであるかが知られれば、それが犯罪抑止にどのように役に立つのか(あるいは立たないのか)も理解されやすくなるのではないでしょうか。
気になることがら(2) 被害者の実名報道の是非
この事件では、犠牲になられた障害者の方々の実名が公開されておらず、そのことが議論を呼んでいます。
私自身は「今回の匿名は、致し方ない」と思っています。実名を出しても大丈夫といえるほど日本社会が成熟していないからです。
不謹慎な言い方ですが、「実名を」というご意見を見ると、たいていは
「近くにいたら『かかわりたくない』『なんで生きているのかなあ』『税金食い!』とか思ったり、時には言ったり、行動に移したりする人たちが、死んだら『もっとよく知りたい』って? はあ? 死んだ障害者は、いい障害者?」
という気持ちになります(ご本人の人となりを以前から良く知っており、「実名を」というご意見の意図には賛成できるという場合も、稀にありますが)。
さらに、家族を施設に託すまでの経緯も、さまざまです。「障害児を産んだ」と責められた果てに「厄介払い」を余儀なくされた、という例もありえます。そういうご家族に対しては、実名報道がさらに痛みを負わせることになります。
被害者の実名、被害者のそれまでの人生を知りたい方々には、ぜひお願いしたいことがあります。
まず、ご自分の身近な障害者・障害児とその家族に対して、「健常者の家族しかいない」という立場から断罪したり評価するのではなく、「理解できないところが残るけれども」も含めて、理解を試みてください。
「いるようだけど、話してもらえない」ならば、自然に話せる関係が出来、話してもらえるように、障害者・障害児家族もいる地域全体の雰囲気を変えることを試みてください。
断じて、無理やりに引きずり出して話させるようなことはしないでください。
「私たちも歩み寄っているんだから」と「心を開く」を強制するようなことはしないでください。
好奇の視線を向けられ、ぜんぜんわかっていないのに「自分は理解者」という顔をされ、時には「支援」「援助」の名のもとに迷惑な手出しをされることに、おそらく、ほとんどの障害者・障害児・その家族は、疲れ果てています。
Noを言うのも簡単ではありません。相手は「人が親切にしてやってるのに!」とキレたり、「あ、そう、勝手に困ったらいいよ」と冷ややかに見放し、次の「自分のニーズを満たしてくれる障害者」を探しにいくだけです。このようにして
「自分にとって都合のよい障害者と、そうではない障害者を分断する」
という健常者は、どこにでもいます。健常者限定でもありません。障害者間でも起こります。その場合はしばしば、健常者-障害者間 よりもさらに「エゲツナイ」ものとなります。
いずれにしても、自分にとって好ましいもの・好ましくないものがあるのは、誰にとっても「ふつう」です。その「ふつう」のありかた、「ふつう」の人に対して「それは、おかしいかもしれない」と考えはじめていただくのは、大変むずかしいことです。
こういう現在があるので、健常者に「心を開いてほしい」「わかりあいたい」と望まれても、簡単に応じるわけにはいかない。これが多くの障害者・障害者家族の、偽らざる心情ではないかと思います。そういう望みを押し付けて来る健常者に対して可能な行動の最大限は「相手が『心を開いてもらえた、わかりあえた』とご満足いただく」なのですが、「しかたなく『ふり』している」を気取られてもなりません。ああしんどい。
しかも、「それはお互い様」でもないんです。数の上でマジョリティとマイノリティですから。マジョリティが「お互い様」というとき、マイノリティにとっては「何がお互い様だよ!」なんです。ここはどうしても、健常者社会に大きな譲歩をいただかなければ、「お互い様」にもなりません。
日常レベルの行動を変えていくことは、最も困難な課題です。
しかしその最も困難な課題こそ、本質的であり、時間をかけても取り組まなくてはならないことなのだろうと思います。
その積み重ねの先には、「施設に託す」が唯一の正解ではない可能性、「施設に託す」を致し方ないと考える家族に対して数多くの別の選択肢が提示される可能性もあるでしょう。
この他にも、気になることは、まだまだあります。
施設内での虐待の可能性については、いくつかの報道に示されているのですが、実際のところ、どうだったのでしょうか。この事件は、「障害者に対する暴言、暴行が異なる形でエスカレートした末の究極の虐待」という見方が出来ると思います。
「介護職員がしんどいから障害者を虐待する」という言い方を認めたくはありませんが、そういう面は確かにあると思います。人員配置はどうだったのでしょうか? 教育・訓練、労務管理はどのように行われていたのでしょうか?
そもそも「障害者を大規模施設に」という在り方は、よいものなのでしょうか? 地域にバラバラに居住している障害者たちに対して、こんなに短時間に、こんな言葉を使いたくありませんが「効率よく」殺傷を行えたでしょうか? こんな大事件になってしまったのは「施設だったから」という一面が確実にあります。
また、入居していた障害者の性別比、殺傷された障害者の性別比についても、やや気になっています。
いずれにしても、これだけの大事件であったために、障害者をめぐる問題が数多く明るみにされる可能性があります。
次の「相模原殺傷事件」を防ぐためには、一つ一つの問題と背景に目を向け、解決策を探るしかないでしょう。
まず、介護人材の育成・労働条件・報酬を向上させることは、最も本質的な手当ての一つであるはずです。
容疑者について:あまり「異常」と騒がないほうがよいのでは
容疑者に対しては、私は
「自意識をこじらせた、ぜんぜん可愛くない大人のボクちゃんが、褒められたかったんだな」
だと思っています。
差別的な障害者観や「障害者は殺すのが世のため」という言い分を含め、容疑者の発言の数々はあまりにも「普通」すぎて、少しも驚きませんでした。そういう障害者観は、世の中にあまりにもありふれています。私も日々接しています。
言うだけにしておけばよかったんです。「ヘイトスピーチ」ではありますが、同調者は確実にいますから。同調してくれる人たちの中で、言ってウケていればよかったんです。なかには「オマエ、一応相手は人間ってことになってるんだから、ここはいいけど、よそで言うなよ」とたしなめる人もいたかもしれません。そうこうするうちに、考えの変わるきっかけが訪れる日が来たかもしれません。
しかし、実行すべきと本気で思ったこと、その思いを少しは安全な形で受け止めてくれる相手がいなかったこと、そして、たやすく実現されてしまったことが、不幸を招きました。
「大変な犯罪の容疑者」として注目してしまうと、容疑者には
「ああ、正しいことをしたのに責められる、なんと可哀想な自分」
という自己認識まで差し上げてしまうことになるかもしれません。
「はいはい、注目されたかったのね、認められたかったのね、で、身動きできない障害者を狙って刺したのね、このチキン!」
くらいに軽く冷ややかに見て、容疑者への注目を最小限にするのが、適切な対応ではないかと思います。
このような事件を二度と起こさないためにしなくてはならないことは、あまりにも多岐にわたります。
日本社会、ジャパニーズ世間のありようそのものを変えていくことを含め、本質的なことに、タルく気長く取り組む必要があると思います。決して、措置入院や精神疾患の有無の可能性は、本質ではありません。
「問題の本質は何なんだろう?」と考えはじめ、考え続ける方々が増えることを、心から願います。