「『健康で文化的な最低限度の生活』にギャンブルは含まれうるか否か」という議論の不毛

回転寿司、パチンコ、ボウリング、風俗……どれが「生活保護ならダメ」でしょうか?(写真:アフロ)

生活保護を利用している方々のギャンブルの是非が、物議をかもしています。

「健康で文化的な最低限度の生活」に必要な費用を考えるとき、確かにギャンブルは想定されていません。

人間に「ギャンブル権」というものがあるとして、生活保護を利用している方の「ギャンブル権」はどうなるのでしょうか?

別府市の「生活保護でギャンブル」取り締まり、背景に諸説

物議がかもされたきっかけは、2015年10月、別府市の生活保護ケースワーカーたちによる、パチンコ店・競艇場競輪場への「張り込み」です。市内の生活保護利用者が来ていないかどうかをチェック、来ていた25人に対して注意し、再三の注意にもかかわらず再度・再々度やってきた生活保護利用者に対しては、生活保護の停止を含む処分を行ったとのこと。同様の張り込みは2014年にも行われており、6人が処分対象になったということ。今後は専門職員も配置し、さらに本格的に行う方針であるそうです(参考:産経新聞記事)。

別府市の生活保護世帯数は、約3000世帯。「ケースワーカーが『ネズミ捕り』に来てるぞ」という情報を得て近寄らなかったパチンコ・競輪競艇愛好者が同数いるとしても、せいぜい50人のギャンブル愛好家に対して専門職員を配置するとは? なんともコストパフォーマンスの悪い話に見えます。

一説によれば、選挙を控えて「人気取り」「話題作り」を目的として、市長(自民党)が率先して市議会で問題にした市議(自民党)ともども「生活保護でのギャンブル取り締まり」を行っているとか。もしもそうであるとしたら、私がこんなふうに批判的な記事を書けば書くほど、人気取り・話題作りに貢献してしまうことになります。イヤだなあ。

まずは「生活保護基準」と「最低生活費」の意味を再確認

最大の論点は、憲法25条で定める「健康で文化的な最低限度の生活」がギャンブルを含むのかどうか? です。

1950年、ほぼ現在の生活保護制度が成立すると同時に、「生活保護基準」が定められることになりました。それまでは「保護の対象とするかしないか」が、渡す生活保護費の金額ともども民生委員の判断に委ねられていたわけです。しかし生活保護基準が定められることにより、保護の対象になるか否かは

収入が生活保護基準より下か上か

で判断され、保護の対象となる世帯が使える生活費の総額は

生活保護基準で定められた金額=最低生活費

となりました。健康で文化的な最低限度の生活に必要な費用だから「最低生活費」。最低なんですから、最低より下はあってはなりません。「最低生活費以下の収入で生活している人に対しては、生活保護基準で定められた収入まで補填する」というのが生活保護制度です。

生活保護のもとでの生活の「上限」であり、これ以下の生活があってはならないという意味での「下限」でもあるという生活保護基準の二重の意味については、拙記事

生活保護のリアル~私たちの明日は?:高1女子に奨学金を返還させた福島市の非情

生活保護のリアル~私たちの明日は?:生活保護世帯の高校生は夢を持ってはいけないのか

でも触れましたので、ご参照ください。

これらの記事は、生活保護世帯の高校生の高校生活・大学進学を題材としていますが、生活保護世帯の子どもの(家族とともに生活保護を受けながらの)高校進学が可能になったのは1970年、公立高校の学費が生活保護で一応賄われるようになったのは2005年です。「一応」というのは、修学に必要な費用の全部ではなく概ね60%程度だからです。1970年の高校進学率は約73%、2005年は約98%。一般の「ふつう」や「当たり前」が、生活保護世帯の子どもたちには未だ「ふつう」でも「当たり前」でもないことは、「生活保護でも、学費を一応出してもらって高校に行けるようになったのは2005年」ということからも明らかかと思われます。ちなみに現在も、家族とともに(あるいは単身で)生活保護を受けながら大学昼間部へ進学することは認められていません。

「ギャンブルの話なのに、なぜ高校進学という話を持ちだして、論点をすり変えるのか?」

というご意見はあるでしょうね。でも、「誰でも必要と認めるとは限らないゼイタク」という意味では、1950~70年の高校進学も、現在の大学進学も、ギャンブルも同じです。

生活保護のもとで人間らしく生きる権利・暮らす権利・学ぶ権利・ブラック労働ではない形で働く権利を求めた行政訴訟は、制度発足直後の1950年から現在まで数多くあり、事例・データ・検討・判例などの蓄積もあります。

「ギャンブルする権利」を正面から掲げての行政訴訟は、今のところありませんが、

「ゼイタクか? ないと生きていけない必需品か? その間のグレーゾーンだけど『あってもいい』のか?」

という判断と、1970年の高校進学率でもあった「約70%」は、過去、「生活保護利用者に許されるかどうか」と大いに関係してきました。

「生活保護で○○」について考えるとき、少なくとも、これらの経緯は念頭に置いておくべきです。

今回、別府市でパチンコ屋や競輪場にいたために生活保護停止となった方のどなたかが、「ギャンブルなぜ悪い」と審査請求や行政訴訟を起こして下さったら、と、かなり本気で思っています。不利益処分を受けた本人でなくては出来ませんから。

生活保護基準は「ギャンブル費」を想定しているか?

では、「健康で文化的な最低限度の生活」を保障する金額である生活保護基準を定めるとき、パチンコなどのギャンブル、酒やタバコに一定の支出を行うことは想定されているでしょうか? もちろん「否」です。直接に

「いくら最低生活ったって、パチンコに○円、酒に○円、タバコに○円くらいは必要では?」

という検討がされたことはありません。

しかし「健康で文化的」は、

「孤立したり限度を超えた我慢はしておらず、使えるお金が少ないなりに楽しく毎日を過ごせており、精神的に健康」

「世の中の人と同じように、世の中にある数多くの『文化』を楽しむことができ、自分の愛好する世界で何が起こっているかを知り、同じ趣味の人と情報を共有して会話することができる」

といったこと、人間関係や社会生活での「健康」「文化」を当然のこととして含んでいます。

そこにパチンコ・競馬・競輪・競艇・飲酒・タバコなど、遊興や嗜好品が含まれうることは、地域性やご本人の文化圏によっては当然ありえます。一律に「生活保護なんだから○○はダメ」ということにすると、その人がそれまで育んできた人間関係や社会とのつながりまで破壊する可能性もあるでしょう。

このようなことを総合的に考えると、

「生活保護基準はギャンブルを想定していないけれど、だから『生活保護でギャンブルはダメ』というわけでもない」

となります。

とりあえず、厚労省通達等がギャンブルを名指しで明確に禁止したことはありませんし、生活保護法にもそのような禁止規定はありません。

生活保護費の用途は自由、選べることが「自立の助長」

さらに2005年、「生活保護費の用途は自由」とする判例が確立されています。

生活保護世帯の子どもの高校進学のために貯蓄(学資保険)をしたことの是非をめぐる訴訟(中嶋学資保険訴訟)の判例です。

この訴訟については、過去にY!ニュースの拙記事

「自分たちの税金を、生活保護利用者の酒やギャンブルに使われたくない」は何が問題なのか

でも触れていますので、ここでは高裁判決(最高裁も支持)から関連部分を抜粋しておきます。

すべて国民は、憲法一三条により、幸福追求の権利に由来するものとして、自己決定権を保障されているが、生活保護受給者といえども例外ではなく、どのような生活を送るかは個人の自由にゆだねられている。

(略)

憲法二五条の具体化としての生活保護法は、すべての国民に対し、最低限度の生活を保障すると共に、その自立の助長をその目的として掲げている(法一条)が、自立助長すなわち被保護者の自主独立の内在的可能性の助長育成が図られることによって最低限度の生活保障も実質化されるものであって、両者は、人間の尊厳の原理に根ざす憲法二五条の生存権保障の理念の実現を図るという目的との関連の中で統一的に理解されるべきものである。したがって、最低限度の生活を保障するものとして支給される保護費について、これをどのように使用するかは、支給の趣旨目的に反するものでない限り、原則として、受給権者の自由にゆだねられているというべき

出典:中嶋訴訟高裁判決 - 国立社会保障・人口問題研究所

ここで、後段の「支給の趣旨目的に反するものでない限り」によって「ギャンブルと高校進学は違う」主張することも、まあ、可能でしょうね。

でも前段では、「自立の助長」が

自立助長=被保護者の自主独立の内在的可能性の助長育成

と定義されたうえ、その「自主独立の内在的可能性の助長育成」が保護費そのものと「(保護費の用途は)原則として、受給権者の自由にゆだねられている」ことによって複合的に担保されている構造が示されています。

今月は保護費受け取ったとたんにパチンコ店に飛んでいき、月の残り大半をカツカツで過ごした人は、翌月も同じことをするかもしれません。でも、翌月は「こんな生活イヤだ、やめよう」と思い、パチンコほどお金のかからない過去の趣味を思い出すかもしれません。翌々月は、かつて好きだった魚釣りを再開するために、保護費を持って釣具屋で道具を物色し、少しずつ道具を揃えていきながら復帰する計画を立てるかもしれません。その翌月、やはりパチンコに行ってスッテンテンになるのかもしれませんけど、そういった自らの試行錯誤の繰り返しによって「ありたい姿」「やりたいこと」に少しずつ近づいていくことの繰り返しほど、その人の尊厳につながるものはないでしょう。

どこでも、トラブル・失業・病気・障害などの末に貧困に陥った人の「エンパワメント」は重要な問題です。そして日本以外の多くの場所で数多く聞かれるのは

「その人自身に選んでもらうことは、その人が自分の尊厳を再認識して高めることにつながる」

という言葉です(参考:拙記事「格差大国・米国でも、これだけの困窮者支援がある」)。

「ギャンブルはダメ」と一方的に上目線で押し付けても、反発を食うだけでしょう。そもそも相手を人間だと思っていたら、いい大人に「○○は禁止」と一方的に言えるわけはありませんし。

ギャンブルより魅力的な選択肢を数多く並べること、ギャンブル依存症ならば回復のために治療を受けるという選択肢もあると知らせること、いずれにしても「選ぶのはあなただ、あなたには選ぶことができるんだ」と粘り強く伝え続けることが、遠回りに見えて近道であるように私には見えます。

「ゼイタクか、生活に必要か」の判断基準は「70%」

それにしても生活保護が公的扶助である以上は、いくら「選ぶのは自由」といっても、実質的に選ぶことのできる上限は発生します。たとえば、東京23区内での単身者に対する生活保護での家賃の上限額は53700円。「六本木のタワーマンションの高層階、それも2DK以上の間取りの部屋に住みたい」といっても無理です。

「総額が生活保護基準の範囲でしかありえないところで、既に上限が設けられているわけなので、それ以上に何らかの制限を設ける必要はないのでは?」

というのが私の考えです。

日本では長年、耐久消費財に対しては「一般世帯の70%が持っている」が「生活保護でも持っていていい、売って現金に換え、受け取る生活保護費を減らす必要はない」の基準とされてきました。冷蔵庫も洗濯機も掃除機もTVも。1970年の高校進学についても、この「70%」が準用された形です。

「生活保護で○○」は、○○の人口で考えていいのか?

生活保護を利用している場合、自動車は保有・運転とも禁止されます。自動車がなくてはならない状況であり、なおかつ保有している自動車がベンツだったり大型レジャービークルだったりしない場合には、自動車の保有が認められる場合もありますが、極めて限定的です。

そもそも生活保護制度が現在の形になった1950年、「自家用車」はまぎれもないゼイタク品だったわけなので、生活保護世帯が持つことは最初から考えられなかったのでしょう。しかし現在、自動車なしで日常生活が成り立つのは、都市部の例外的な地域での話。地方では「生活保護を取るか、生活保護を諦めて車を取るか」が深刻な問題です。「子どもが夜中に急病になっても、病院に連れて行く足がない」「買い物できない」「就職しようにも、バスや自転車で通勤できるところから探すしかなく、最初から少ない選択肢がさらに少なくなる」といったことになるわけですから。

地方では「一家に2台」「一家に3台」が珍しくなくなっており、自動車の保有率が100%を超えている地域もあります。大都市圏を含めた全国平均でも、自動車の保有率は70%を超えています。このことを考えれば、

「そろそろ、生活保護での自動車の保有について、条件を緩和していいんじゃないか?」

という議論も出てきておかしくないところですが、政府がそういう検討を開始したという話は聞いていません。冷蔵庫や洗濯機同様の生活必需品である場合もある自動車については、保有を認める検討を早く始めてほしいと願います。

では、ギャンブルはどうでしょうか?

日本の人口に占めるギャンブル愛好者の比率は分かりませんが、「70%より上」ということはないでしょうね。パチンコだけだと1000万人程度だそうですから(出典)。

でも、そもそもが本人の好みで選ぶ娯楽。

比率で考えれば、

「小中学校で習うリコーダーを、大人になっても吹いている人口」

「平日早朝、NHKFMで無料で聴ける古楽を愛好している人口」

は、まぎれもなくマイノリティです。でも、そうした人が生活保護を利用しているからといって、「樹脂製だけどちょっといい、1本3000円のリコーダー」「音質に大きな不満を抱えないための、FMラジオの外付けスピーカー4000円」といったものへの支出は、パチンコほどには非難されないでしょう。たとえ日本のパチンコ人口が8000万人だったとしても、それは「生活保護でパチンコ」の是非とは関係のない話です。

ギャンブルは悪く、書籍ならいいのか?

最後に問題になるのは、

「生活保護で○○はいけない、△△ならいい」

という判断を、誰がどのように下せるのか? ということです。

私が5歳まで住んでいた家の近くには、競艇場がありました。レースのある日は「オケラ街道」。暗い表情で不機嫌を撒き散らしながらオヤジたちが歩き去った後には、外れ券が残されました。オヤジの一部は飲んだくれて憤懣をぶちまけていました。そんな風景を見ながら育った私は、ギャンブルに好意的な関心を全く持てなくなりました。パチンコも公営ギャンブルもカジノも興味ありませんし、その場に入ったこともプレイしたこともありません。今すぐ世の中から消えても、私自身は全く困りません。全く無縁に生きてきましたから。

では、図書館なら良いのでしょうか? 生活保護を利用する以前から長年一緒に暮らしている猫と、これからも一緒に暮らし続けるのは良いのでしょうか? 金魚を飼って泳ぐ姿に心和ませて良いのでしょうか? 花を買ってきたり河原で摘んできたりして、コップに活けて飾るのは良いのでしょうか? たまには映画に行っても良いものでしょうか? 往復とネカフェ宿泊に5000円くらいかけて小旅行を楽しんでも良いものでしょうか? 客単価2000円程度の焼き鳥屋で一杯やっても良いものでしょうか?

図書館・猫・金魚・花・映画・小旅行・焼き鳥屋で一杯、どれも私が一度ならず、生活保護利用者たちから

「ケースワーカーに、『そんな暇があったら××しろ』『そんな金があったら××を買え』『いいご身分ねえ』『ゼイタクだ、処分しろ』と言われた」

という話を聞いた対象です。お金はもちろん生活保護費の中でのやりくりで捻出。図書館・映画・小旅行は、就職活動や家族のケアもしつつ、「なけなし」の時間からやっと捻出した自分時間であったりします。でも「そんな金があったら」「そんな暇があったら」と言われ、「生活保護のくせに」「いいご身分ねえ」「ゼイタク」と言われるのです。

相手はケースワーカーではなく、近隣の人や知人である場合もあります。障害者の場合にはヘルパーである場合もあります。そういった皮肉や口撃の末に、精神を病んだり引きこもったりした例も少なくありません。そうなると「就労していた人が再び就労する」という成り行きは、さらに期待できなくなります。百害あって一利なし。

なお、生活保護受給者を含む貧困層が、さらに図書館などでの知へのアクセスから遠ざけられる問題については、

マガジン航:貧困から図書館について考える(伊達文さん)

もご参照ください。図書館のスペシャリストである神代浩さんとともに、熱く語らせていただいたイベントのレポートです。

あなたは自分の「貧しくとも人間らしい生活」に何が必要ですか?

生活困窮に陥っても、生活保護を利用することになっても、自分が自分でなくなるわけではありません。

それまでの人生や経験をもったまま一人の人間でありつづけているはずです。

もちろん、お金は充分にはありません。

だからこそ「自分が自分でありつづける」ことの意味が、さらに大きくなるのです。

私は障害をきっかけに、福祉事務所で生活保護の申請を勧められるほどの困窮状態に陥ったことがあります。結局、生活保護は利用せずに乗り切れてしまって現在に至っていますが、この時の経験から、

「困難にあればあるほど、貧しければ貧しいほど、『自分にとって大切なもの』の自分にとっての価値は大きくなる」

と、私は確信しています。

もしかすると、困窮と混乱の末、本当はそんなに大切だと思っていないはずの何かにしがみついている場合もあるかもしれません。

でも、それを他人が責めるのはどうかと思います。

ご自分にとって「最低限度だけど健康で文化的な生活」を、生活保護費の範囲で実現するとしたら、生活をどのように組み立てますか?

何をどこまで譲りますか? 何をどこまで守りますか?

思考を巡らせ、判断して結果からフィードバックを受ける自由まで奪われたら、生きる気力を持ち続けられますか?

あなたに出来ないならば、より条件の悪い他の方、たとえば生活保護を利用している方には、さらに難しいはずです。

自分に出来ないことを、他人に強制する理由はありません。

「生活保護でギャンブル」の是非という不毛な議論には、正直なところ、付き合いたくありません。

より本質的な問題は、「生活保護でギャンブル」を安易に話題にする側にあるからです。