カフェインを日常的に過剰摂取していた二十代男性が、カフェイン中毒で亡くなったことが判明しました。
薬でも毒でもある身近なもろもろと、私たちは日常、どう付き合えばよいのでしょうか?
本件の報道記事から
カフェイン常用による中毒死(国内初か?)
第一報は共同通信のようです。
共同通信が配信した記事を使用してではありますが、毎日新聞にやや詳細が報じられています。
共同通信が配信した元記事を見てみたいものです。たぶん、現在分かる限りの詳細・背景などが書き込んであるはずなので。
厚労省が把握した国内初の例であるようです。
自殺目的ではなかったらしい
カフェイン錠は入手が容易、一度に致死量を購入することに対して全く規制がなく、しかも安価。というわけで自殺目的での使用がけっこう多いです。今回の20代男性はどうだったのでしょうか?
亡くなるまでの経緯は? なぜそんなことを?
一部再掲になりますが、毎日新聞記事から。
「夕方まで起きて」いた、という記述の「夕方」が何時頃を指すのかわかりません。九州は日没時刻が遅いので、夏だと19時くらいでも「夕方」という感覚になります。給料に深夜割り増しがつくのは22:00-5:00ですから、その時間帯を含む勤務だったのでしょう。
亡くなった20代男性にどういう背景があったのかは全く存じ上げません。
もしかすると
「時間帯を選んで効率的に稼ぎ、自分の将来につながる何かをするための時間を確保する」
という目的のための夜勤であり、起きて活動できる時間を長くして活動性を高めるためのカフェイン飲料であり、睡眠時間を短くするためのアルコールだったのかもしれません。
または、家族を養わなくてはならない立場にあって、しかし自分の人生も諦めたくなかった、ということなのかもしれません。
状況は報道されている以上にはわかりませんが、男性のご冥福を心より祈ります。
どうすれば防げるのか?
「ヤバい」と感じて見直すポイントは?
毎日新聞記事の
「死亡する約1年前から体調不良を訴え、吐いて寝込むことを数回繰り返した。カフェイン中毒症状とみられ、死亡当日も帰宅後に吐いて寝込んでいた」
を見る限り、家族の目から見ても、理由がなんであれ身体を壊していたことは間違いなかったようです。
その時点で「病院に行く」という選択がなされていれば? とは思います。しかし同時に、その時点で病院に行くと、通常の血液検査では、何か異常が発見されることはなかった可能性が高いかと思われます。まさかカフェイン濃度の検査などしないでしょうし。たいていは、胃薬が出て(しかし効果なく)終わるか、簡単な聞き取りがあって「精神的なものかも」と言われて心療内科受診を勧められるか、でしょう。そこで消化管の検査まで踏み込む可能性は……今の医療事情を考えると、極めて薄いでしょうね。自分が「必要なのではないか?」と思う根拠あっての血液検査のお願いであっても、医師から「不要な検査を欲しがっている」と見られないように神経を使ったり、あるいは医師の対応を見て、自分が「必要なのではないか?」と考えている根拠を話すことを最初から諦めるとか、という感じですから。消化器の不調を訴えている患者に「じゃ、来週、胃カメラを」とはならないでしょう。
もしも「吐血して救急搬送された」ということであれば、胃を含めて消化器の検査が行われ、そこで何らかの異常が判明し、場合によっては入院中にカフェインの禁断症状とみられる症状が現れ、治療につながる可能性があったかもしれません。しかし、その段階はなく、男性はいきなり亡くなってしまったわけです。
嘔吐を繰り返しているだけでも、充分にヤバかったと思います。食道にもダメージが及び、食欲減退や食事の質の低下までもたらされていた可能性があります。より詳細が発表・報道されることを望みます。
自分で気づき、自衛するしかない
今の医療事情では、病院に行ったからといって、問題が解決に向かったかどうかは微妙です。
それに、大人の男性に対して病院に行くことを強く求めるのは、家族といえども容易ではないでしょう。
とはいえ、「誰がどう見ても治療が必要」という段階に達した時には、大きすぎるダメージを負っていたり、既に死んでしまっていたりするわけです。
となれば、自衛するしかありません。「かなりヤバいかも」という自覚があるくらいでは、よほどの幸運に恵まれない限り、病院に行っても意味ないわけですから。
男性の命を奪った「ヤバい」状況は、カフェインの過剰摂取だけではありません。夜勤やライフスタイルも含め、「ヤバい」と感じた段階で(あるいは周囲が気付いた段階で)、見直しを行い、「やめられるものからやめる」「減らせるものから減らす」「増やすべきもの(睡眠時間)は増やす」といった対応が取られていれば、結果は全く異なるものになったでしょう。
カフェインもアルコールも多くは必要としないライフスタイルになれば、身体的依存が形成されていない限り、それらの量は自動的に減ったはずです。
もちろん知識はあったほうが良い
そもそも、カフェインはどの程度「毒」なのでしょうか。
カフェイン中毒に至る摂取量(慢性・急性・致死量)が体重別にまとめられており、さらに日常的に摂取する可能性のある飲料・薬剤に含まれるカフェイン量がまとめられているページがありましたので、紹介します。
アマニタムスカリア:カフェイン過剰摂取の危険ライン知っていますか?体重別危険ラインまとめ
出典が示されていないところは「玉にキズ」ですが、注意すべき症状についても記載があります。
同様の「ここだけ見れば、カフェインのヤバさと良いつきあい方がわかる」内容のページを、専門家が作成していただければと思います。
ただ、ありとあらゆる身近な何かについて、知識がアクセス手段とともに提供されるとは限りません。
単体では大丈夫でも組み合わせでヤバい、逆に組み合わせで安全、ということもあります。
知識は必要です。少なくとも、ないよりはあったほうが良いのは確かです。しかし、ありうる可能性全部を「知識」で網羅するのは不可能です。
「いいことばっかり」はない、というバランス感覚
水がなければ人間は4-5日しか生きられません。しかし人間は水の飲み過ぎで「水中毒」になることがあります(Wikipedia:水中毒)。
自分の周囲にあるもの、食べたり飲んだりするものに対する知識とともに、必要なもの、役に立つものはすべて、量や使いみちによっては有害でもあるというバランス感覚が求められるところです。
とりあえずの自衛手段としては?
ヤバかったら立ち止まる(できれば引き返す)。
立ち止まったり引き返したりしながらでいいから「ヤバい」かもしれない対象への知識にアクセスする。
ふだんから「いいことばっかり」はありえないと考えておく。
……結局このような、当たり前といえば当たり前すぎる「センス」の部分が大事、ということになってしまいます。
わが身を守る「センス」を養い磨くための義務教育、特に理科教育の充実を
では、このような「センス」の最低ラインを誰に対しても保障するために、何ができるでしょうか?
「最低ライン」を「誰に対しても」ならば、義務教育(相当)の場で行う必要があります。
小学校・中学校の理科は、知識を学ぶこと・考え方を学ぶこと・実験や観察を行うことも含め、それから先の人生を送るにあたり、自分の身を守るためのこのような「センス」を養うこと・磨くことに、本来なら大いに役立てることが可能なものです。
誰もが「ノーベル賞を取りたい」と考える必要はないし、科学者になる必要もないし、理科や数学を必要とする高校受験や大学受験をする必要もありません。
でも、生きること・生きるために自分の身を守ることは、どこでどのようなライフスタイルを送るにしても必要なものです。
理科も含めて、学ぶこと・知ること・考えることには、どなたにとっても、基本的に「自分・自分の生活・自分の人生をより良いものにする」意義があります。
とりあえず、小学校から高校までで学ぶ理科の知識は、けっこう役に立ちます。知って3時間後に忘れたとしても、考え方やセンスの部分には影響を及ぼします。
誰もが接する機会を保障されている義務教育が、理科も含め、より充実した内容となることを望みます。
迂遠ではありますが、知識やセンスによって避けられたはずの不幸ななりゆきを、少しでも「自分で」避けられる人々が増えていくことは、個々の不幸な事件が起こってからの後手後手の対策の積み重ねより、はるかに役に立つでしょう。