SFの世界に「中編小説」の波がやってきた:「読む」を考える(4)

世の中には文字が溢れ、「読む」ためのメディアが溢れている。そんな時代、テクノロジーによってわたしたちのや記事とのつきあい方、そして「読む」という行為はどう変化しつつあるのか。読書週間を機に考える短期連載の第4回は、SFの世界で隆盛しつつある中編小説の魅力について。

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『A Taste of Honey』は、長編だったら重すぎたかもしれない。158ページなら? 完璧だ。PHOTOGRAPH COURTESY OF TOR.COM PUBLISHING/TOMMY ARNOLD

器が小さいのはわかっているが、我慢ならないことがある。誰かが、テレビドラマ「ゲーム・オブ・スローンズ」に夢中であると発言したとしよう。「エクスパンス─巨獣めざめる─」や「オルタード・カーボン」、もしくは「シャナラ・クロニクルズ」「ハンドレッド」「マジシャンズ」でも、何でもいい。

わたしは頷き、現実にはかけてもいない眼鏡を覗き込み(想像のなかでは威嚇するように眼鏡をキラリを光らせ)、そして尋ねる。

「そっか。それで、は読んだ?」

つかの間、混じり気のない罪悪感に襲われる。もちろん、読んでいるわけがない。もちろん、読みたいに決まっている。悔しさを感じているのか、その人のまなじりには、しわが寄る。

厄介なのはここだ。その瞬間、わたしはその人を愛おしく思う。恥じ入る心は美しい。その人にとっては本を読む力があること、つまり原作を読んでいることは理想であり、達成すべき課題なのだ。

さらに不思議なことだが、人々がこのような気持ちを感じるのは、SFかファンタジー作品に対してである。おそらく、原文の神聖さを認識し、そのオタク界隈で、より堂々としていたいのだろう。

スペキュレイティヴ・フィクションを巡る誤解

だが、力を抜いてほしい。すべての人が何もかも読めるわけはないし、スペキュレイティヴ・フィクションには、独特のとっつきづらさがある。

このジャンル自体は、広がりがあるものとして知られている。その点からいうと、『ゲーム・オブ・スローンズ』や『シャナラ・クロニクルズ』といった現代の大長編シリーズは、どうなるものでもない。密度が高く、途方もなく長いという、トールキンが獲得した評判を固めているだけだ。

巻頭に地図、巻末に付属の別冊、1兆以上あるんじゃないかという膨大なページ数のなか、小さな文字は印刷で潰れ、冒険のなかにさらなる冒険の話が……というアレである。

発音できない地名や、複雑な魔法の言葉は、わざわざ暗記カードでも使わない限り、貧弱な記憶力では覚えられそうにない。え? フンムグァーラ? それって人名? それともモノ?

もし、スペキュレイティヴ・フィクションには、そういう入り組んだ百科事典のようなファンタジー大作しかないと思っているなら、あなたが読まないのも無理はない。だが、そうではないのだ。

スペキュレイティヴ・フィクションを知ったばかりの人も、ハリーポッターでもないのに7冊越えのシリーズを読む体力はないという人も、希望をもってほしい。ホビット族が存在する限り、ホビットサイズの物語も存在する。いわゆる「中編」と呼ばれる物語だ。SF、ファンタジーの中編について言えば、ジャンル内で近年で最も勢いがあり、(この狂った現代において)読みやすい選択肢だ。

やってきた「中編」の波

Tor Booksがの「Tor.com」が4年前、「新進気鋭、中堅作家による、最高の中編小説の出版に力を尽くす」という声明を発表した。それを見てかなり多くの人が反応した。

「中編」というのは典型的には100ページ以内(その道の権威によると、17,500〜40,000語らしい)で、飛ぶように売れることはないと思われていた。そもそも本棚に加えてもらえること自体、ほぼないと思われていた。スティーヴン・キングが昔、中編を「アナーキーに支配された文学的バナナ共和国」と呼んでいたことは有名だ。不安定すぎて売りづらいというのである。

この考えはフェアではない。SFというジャンルそのものが、反論の根拠だ。SFには『ステップフォードの妻たち』『変身』『時計じかけのオレンジ』『アイ・アム・レジェンド』など、中編のベストセラー古典が多くある。

ジャンルの原点に近づいたもう少し俗っぽい作品がお好みなら、H・G・ウェルズの『タイム・マシン』は32,548語だし、『ジキル博士とハイド氏』は25,642語だ。ネビュラ賞には60年代から中編小説部門がある。

かといって、キングも間違ってはいなかった。SFとファンタジーの中編は、生まれてからほとんどずっと、月刊誌やアンソロジーのなかにとらわれていた。読むことができたのは一部の読者だけだ(短編も同様だが、短編というちっちゃなベイビーたちは、短編集というかたちで自由になれた)。Tor.com Publishingがやってきて中編小説を解放し、薄い本をあちこちの読者に届けるようになるまでは、少なくともそんな状態だったのだ。

Tor.com Publishingは、カトリックの修道者のように勤勉に、4年間でこれまで約100冊を出版し、毎週新刊を発表しているようだ。サガ・プレスもその波に乗り、2016年にアーシュラ・K・ル=グウィンの中編集を出版した。去年、わたしの地元のインディーズ書店も「ぼくらの愛するSF中編」という棚をつくり、作品を並べ始めた。作品のページ数を減らすことが流行し始めたのだ。

中編ならではの独創性と面白さ

中編という形式は、SFというジャンル自体の評価を高めている。中編という形式は元をたどれば、おとぎ話や道徳劇──つまりファンタジーの原型である。そういった意味では、トールキンによる世界の構築は、ファンタジーというジャンルに元々あったわけではない。トールキンは、そこに元々あった風船を膨らませたのだ。

風船は膨らんで、いまにも弾け飛びそうである。世界を首尾よく構築するため、クリエイターはトランスメディアに関与することが、いままで以上に求められている。スピンオフ、前日譚、そのほかコミックやカードゲームなど、どんどん原作と離れていく多様なタイアップ。当然、消費者は圧倒される。

対照的に、SF中編の喜びというのは、その物語の単独性や破綻した空間、少ないページ数へ無理やり収められている点にある。作者は家系図や地図に耽溺してはいられない。語りを精製せねばならないからだ。主要登場人物は、ひとりかふたり。シンプルな三幕構成の冒険で、しっかりと筋の通ったルールがいる。

ボリュームが限られることは、妥協するということにはならない。多くの場合、文章は短くすることで質が上がる。Torには幅広い作品があるが、わたしのお気に入りは、カイ・アシャンテ・ウィルソン作『A Taste of Honey』──神々のすみかで展開する、素晴らしいロマンスだ。

詩的に書かれた数学、または数学的に書かれた詩のような作品は、長編だったら濃厚すぎて読みづらいだろう。けれど、158ページだったら? 読みやすさは完璧だ。

ローリー・ペニー作『Everything Belongs to the Future』は、非常にシリアスだが、説得力のある物語である。貧しい人が年老いて自然に死ぬ一方で、金持ちが何世紀も生き続ける世界を描いている。

ペニーは少ないページ数のなかで、作家・活動家としての熱意をもって、よく聞くバイオテクノロジーの前提を徹底的に崩してみせる。また、多くの偉大な作家も試みたように、この作品は1回の読書で読み切ることができるようになっているのだ。

スペキュレイティヴ・フィクションには、ほかにも素晴らしい中編がある。ヴィクター・ラヴァル作『The Ballad of Black Tom』。ヒューゴー賞、ネビュラ賞を受賞したショーニン・マグワイア作『不思議の国の少女たち』。この分野を独占しているTor.com以外だと、デル・レイ・ブックスからチャイナ・ミエヴィルの『This Census-Taker』が、出版されている。

中編をつくって流通させるのは、長編よりも費用がかからずに済む。だから出版社は、新しい声や奇妙な物語を出版するリスクをとることができ、実際にリスクをとっている。結果として、ページ面積あたりの創造性は高まり、ジャンルはより豊かに、より奇想天外になった。

価格の高騰が意味すること

何より嬉しいのは、これらの比較的短い作品が、長編への入り口になりうるということだ。ンネディ・オコレイファーの独立した長編大作『Who Fears Death』はHBOでドラマ化が進行中だが、わたしだっていきなりこの作品からは読まない。心構えのできていない読者は、この作品から入ると、読む気力をくじかれてしまうかもしれない。

代わりに、同じ作者の中編三部作『Binti』から入るのがいい。アフロ・フューチャリズムと、オコレイファーのもつ「帰郷」というテーマを味わうことができる。三部作最後の作品は、長編小説ではまともに挑戦できないような離れ業をやり遂げている。

現在、大ヒットしている中編は2つある。そのうちの1つが『Binti』だ。もうひとつは、マーサ・ウェルズ作『Murderbot Diaries』──4部作で、すでに3作が発表されている。どちらの作品も、語り手は主人公だ。

『Binti』の主人公は、人間と宇宙人のハイブリッド。『Murderbot Diaries』の主人公は、人間とロボットのハイブリッド。みんな、半分人間の主人公が好きらしい。

わたしもそんな読者のひとりだが、特有の用語には苦しんでいる。スローネジアン(『ゲーム・オブ・スローンズ』のファン)のようにじわじわと広がっているようだが、中編を表す「novellas」という単語は、ラテン語の「novellae」という単語よりも見かけない。

今年の頭、『Murderbot Diaries』の2作目が発売されると、わたしはたじろいだ。ハードカバー! しかも16.99ドル(約1904円)!

価格の高騰が、この作品の精神に反することは間違いない。中編小説という形式の進化や、新しい領域への前進、創造性はベージ数で抑えきれるものではないということを、価格が表現しているのでなければ。

だが読者はむしろ、こういった売り方のほうが好きらしい。『Binti』も最近、豪華ハードカバー版で再発売された。ウェルズも『Murderbot Diaries』シリーズの長編に取り組んでいるらしい。どちらのシリーズも、いつテレビシリーズ化されてもおかしくない。少なくとも今回は、たぶん、本を先に読みおわっていることだろう。

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