沖縄のこれまで・辺野古問題・そして未来へ向けて - 沖縄のタクシー運転手さん(74歳)の語りから

普天間基地。沖縄での「基地」の意味を「よそ者」が理解するのは容易ではありません。(写真:ロイター/アフロ)

本記事では、11月に沖縄・宜野湾市で開催された全国公的扶助研究会全国セミナー・沖縄大会の際、ホテルから那覇空港への移動のために乗ったタクシーで運転手さんから伺った話を紹介します。

「沖縄にとっての基地とは、基地問題とは、地域の方々にとって何なんだ?」

という面で、過去に接したどのような書籍・記事・情報よりも参考になったお話でした。

ぜひ、皆さんに読んでいただきたいと思い、若干の背景開設解説とともに記事化することにしました。

なお、運転手さんの語りのメモは、下車してから記憶をもとに記録しました。記憶違いがあるかもしれませんけれども、そこはご容赦を。

1941年の沖縄に生まれ、どう育ったか

そのタクシー運転手さんは、1941年生まれ。終戦時は4歳だったとのことです。

驚きました。60歳前後だろうと思ったのです。50代と言われても疑えない「見た目」でした。

生まれたのは沖縄半島の北側だそうです。地名も聞きましたが、記憶していません。「北」といっても「中の北」くらいの位置だったことは、「この沖縄の島のどのあたりですか?」と聞いて答えていただいたので覚えています。

終戦時に4歳だったのなら、戦時中の記憶もあるかと思いますが、

「戦争のことは全く記憶にないですけど、戦後の苦労はよく覚えてます。小さいときから基地の前で米兵相手にチューインガム売りをしていました」

ということです。日本語もまだおぼつかないはずの幼児が、どうやって?

「手にチューインガムを乗せて差し出し、指で金額を示してお金をもらっていました」

一ついくらだったのか、金額を聞いておくべきでしたが、聞きそびれました。

「金属を拾って売るのも、よくやってました。工事現場の近くのゴミ捨て場でゴミの山に登って電線を拾ってね。銅線は高く売れましたよ」

ちょうど、公的扶助研究会全国セミナーで、米軍が沖縄の戦争孤児のために急造した孤児院の写真を見たばかりでした。そんなにたくさんの孤児が発生するとは思っていなかった米軍は、子ども服を十分に用意していなかったので、男の子たちは全員裸だったり、下半身に着るものがないので座る時は脚を組んで大事なところを隠していたり。もちろん、靴を履いている子は一人もいませんでした。

幼少の運転手さんがゴミの山に登るとき、靴は履いていたのでしょうか?

「裸足でしたよ。いつも裸足でしたから、足の裏が固くなってて、ゴミの山に登っても傷ついたりしなかったんですよ。それから、米軍が捨てた車のバッテリーの中に入っている鉛を取り出して洗って売ると、結構な値段になりました」

当時の鉛蓄電池なら、中に入っている電解液は間違いなく希硫酸だったでしょう。皮膚を痛めたりしなかったかと、あるいは安全な壊し方を教えてくれる誰かがいたのだろうかと気になりましたが、聞きそびれました。どのくらい稼げたのでしょうか?

「一日3ドルくらいは稼げましたよ。1ドル360円の時代でしたから、それで一家が充分に養えました」

しかし、一家を養っているとはいえ、まだ幼い子どもです。

「米兵にはチョコレートをもらうこともありました。とにかく、甘いものに飢えていましたよ」

終戦直後の本土にも、「ギブミーチョコレート」と米兵や米軍車を追いかける子どもは数多くいたようです。

しかし本土では、経済成長とともに目に見える絶対的貧困は姿を消してゆき、昭和40年代に入ると、貧困問題の内容は絶対的貧困から相対的貧困へと変わってゆきました。

コカ・コーラの空き瓶を利用したランプで生活

運転手さんの家族構成は聞きそびれましたが、幼少の運転手さんご自身以外に稼ぎ手はいなかったようです。

1日あたり 3ドル=11801080円 を稼いでいたということですが、稼ぎの少ない日もあるでしょう。平均すれば、一ヶ月2万円程度でしょうか。

ちなみに、昭和30年の大卒初任給が11000円(「明治~平成 値段史」による)。沖縄の食材のうち「輸入」されていたものは、安価ではなかったはず(現在の沖縄でも、遠方から航空便や船便で来る食料品は安価ではありません)。当時の沖縄といえども、住居コストまでカバーするのは難しかったのではないかと思いますが?

「家賃? 家賃はいくらだったかって? 家賃はなかったよ」

えっ?

「家賃を払わなくちゃいけないようなところに住んでいる人は、ほとんどいなかったんですよ。みんな、バラックとか、茅葺きとか」

納得です。でも、毎秋、台風が来るでしょう?

「そうそう。台風で飛ばされるから、また建てるんだよ。小学校もね、茅葺きだった。台風のたびに壊れて、建て直し」

沖縄で上下水道と電力が整備されたのは1950年代以後、遅い地域では1960年代。それも沖縄本島の話ですから、離島ではさらに遅れがあったのかもしれません。

私自身、恥ずかしながら、沖縄の電力網整備・上下水道整備について知ったのは、今年2015年に入ってからです。1963年に福岡市で生まれた私は、未熟児だったので出生直後に保育器のお世話になりました。電力のおかげで生き延びられたわけです。5歳まで暮らしたアパートには、最初から電気も上下水道もありました。

運転手さんのお住まいの照明は、どうでした?

「子どものころの仕事の一つは、ランプづくり。コカコーラの瓶を拾ってきてね、灯油を入れて、毛布の切れ端を中に垂らして、その毛布を灯芯にして火をつけた。もちろん、危ないよ。でもランプのホヤは買えなかった。貧乏な家だったから。ホヤがあるのは中流の家だった。ホヤの買える家が羨ましかったね」

子どもの労働によるフローとはいえ、結構な金額の現金収入があったように思えます。しかし「貧乏」だったわけです。幼少の運転手さんは、いったい何人を養っていたのでしょう? 戦争で亡くなった方の話を積極的にしたそうな感じではなかったので、家族構成は伺いませんでしたが、聞いておくべきでした。

ところで、いつまでランプでした?

「家の照明は、昭和40年代までランプでしたよ」

上下水道は?

「トイレは長いこと汲み取りだったり、川などに流してしまっていたりだったよ」

ちょうど、川の横を通りすぎようとするところでした。

「その川は、いつも濁っていて臭かったよ。川沿いの家が、大小便をそこに流すからね。昭和40年より後になって、下水道が整備されていって、だんだんきれいになったけど」

米兵と米軍に対しては?

沖縄の被占領時代、米兵によって行われた犯罪の数々については、聞くたびに胸が痛みます。運転手さんから見て、どうだったでしょうか?

「基地のアメリカ兵は、いいのも悪いのもいますよ。悪いのは、言ったら悪いけど、米国でも差別されているような。南の方の貧しい地域の黒人とか、インディアン出身とか。そういう人たちが、沖縄に来てヤンチャをしたり悪いことをしたりしてました。でも、上の方の兵士はそんなことはほとんどなかったですよ」

「そもそも格差社会だった米国が、沖縄にも格差をそのまま持ち込んでいた」という図式だったようです。

辺野古問題などの争点については?

辺野古問題など、もはや「日本全国をあげて」という状況になっている争点論点が、沖縄には数多くあります。

勇をふるって、

「遠い本土で、辺野古について、いろいろ言っている人々についてどう思っていますか?」

と質問し、

「辺野古の情報は東京にも、大変よく伝わることは伝わってくるんですけど、同時に『あれはデマだ』という情報も伝わってきたりするので、もう何が何だかよくわからなくて。そもそも土地勘がないところに、そんなふうに情報が来るものですから」

と追加しました。

運転手さんはしばらく沈黙しました。

沈黙していた時間は、実際には10秒程度だったと思いますが、私は内心「ああ、聞いてはいけないことを聞いてしまったか!」と動揺しました。

考え深い表情で、おもむろに再び口を開いた運転手さんは、ゆっくりと噛みしめるような口調で

「白だとか黒だとか、どっちが正しいとか正しくないとかではなくてね。なぜ、どのように今のようになって、今はどういうふうになっているのかを、まず、みんなで知って。これから未来に向けて、どうあることが一番いいのかを、本土の人も含めて、みんなで落ち着いて話し合えれば、一番いいんだと思うんですよ」

と言いました。

激しく同感でした。というより、もしも私が「(たとえば)辺野古問題についてどう思うか」と聞かれるときに、「私もそう答えたかったのよ」という言葉を運転手さんが言って下さったという気持ちでした。

そして、沖縄で大変な思いをしながら生まれ育ち暮らしてきた運転手さんが「本土の人も含めて、みんなで」と言ってくださったことに、心からの感謝を覚えました。

運転手さん、どうぞお元気で。またお世話になりたいです。

そして私はこれから?

平和教育の盛んだった1970年代の福岡で小学校時代を送った私は、

「沖縄の犠牲によって本土の地上戦が避けられたのだ」

という話を、耳にタコが出来るほど聞いて育ちました。

1972年、沖縄の本土復帰の際、西日本新聞の特集の最初のページに掲載されていた沖縄の小学生(確か)の詩に、本土復帰への期待と不安と当惑と、その他さまざまな複雑な心情が現されていたのを覚えています(私は小学3年でしたが、文字と言葉の早いマセガキだったので、既に大人用の新聞を毎日読んでいました)。

子ども心にも、「やっと日本に戻れて、良かったねえ」と手放しで言えるようなことではないのだ、ということは理解できました。

大人になってからも長らく、沖縄に観光で行くことには

「福岡市近郊のように恵まれた地域で育ち、東京で30年以上暮らしている人間が、お気楽に不謹慎に沖縄に遊びにいっていいのか?」

という躊躇がありました。

初めて沖縄を訪れたのは、2010年初夏、図書館業界の勉強会でのことでした(図書館は貧困問題と科学コミュニケーションのキーだという意識があり、2007年以後、機会があれば足を突っ込んできています)。そして「なぜ、今まで来なかったのか」と後悔しました。

そこに行かなくては分からないことが、本当にたくさんあります。たとえば、多くの建物に備えられた貯水タンク。台風や大雨も来る沖縄は、大きな川がなく、容易に渇水になるのです。それまで何度も写真で見てきたはずなのに、気にも留めていませんでした。

早く再訪したいと思っていましたが、2回目の沖縄行きは2013年冬。石垣島と竹富島にも行きました。

2015年3月以後は、開設前から注目してきた恩納村文化情報センター(2015年4月開所)のその後を「定点観測」すべく、「できれば季節の変わり目ごとに一回、少なくとも半年に一回」の訪問を心がけています。その後、2015年8月、11月と訪問しています。その目的のためだけに沖縄まで行くことは無理なので、もちろん、ついでに数多くの取材や調査など同時に行っています。

2015年8月の沖縄行きからは、事情と時間と財布が許す限り、遊ぶことも心がけるようになりました。沖縄まで行って、「観光」という沖縄の重要な産業に接することなく帰るということは、「沖縄の非常に重要な一面を見落としたままでいる」ということでもあります。

「楽しい」「気持ちいい」「美味しい」と喜びながらも、本当に心底から「楽しい」「気持ちいい」「美味しい」という気持ちにはなれないのが、私にとっての沖縄でもあります。

しかし私は悩みながら、遠からぬ将来、また沖縄に行くでしょう。

沖縄は、遠くて容易に行けない場所ではあります。

車椅子利用の私の場合、フライトの前後にそれぞれ1時間程度が余分に必要なので、なおさらです。

沖縄にはまだ車椅子で乗れるバスが少ないので、タクシーの利用頻度も増えます(私は自動車の運転免許を持っていません)。わが零細事務所の取材経費としては、沖縄行きは、かなりイタく厳しい出費でもあります。

しかし遅ればせながら、とにかく沖縄に行き、見て、話し、接し、もちろん取材することを、今後も心がけようと思っています。