2014年7月、ジュネーブの国連本部で胃のよじれる思いをした件

国際平和を求めて設立された国連。数多くの問題を抱えていますが現在も重要な存在。(写真:アフロ)

パリ同時テロで、世界に向ける関心のあり方を考えなおす日本人が増えています。

私が考えを改める重要な転機となったのは、2014年7月、国連人権委員会に参加していたときの出来事でした。

海外といえば「欧米」だった自分

私はそれほど海外体験が豊富というわけではありません。30代まで、海外旅行にはほとんど興味がありませんでした。

私が初めて海外に出たのは2002年、行き先はフランスでした。その年、高校生の時から好きだったオペラの初演100周年記念公演が、100年後のその日・同じ場所で開催されたからです。

その後も、それほど数多くの海外経験を持っているわけではありません。海外渡航歴は15回足らず、海外にいた日数は通算して2ヶ月程度です。

行き先も、極めて偏っています。日数で北米60%、西ヨーロッパ25%、南米(といってもブエノスアイレスだけ)10%、中国・韓国合わせて5%。

「アジアデビュー」は昨年、2014年の中国・北京でした。アジアを軽視しているつもりはなかったのですが、「近いからいつでも行ける」と思っていたら行かないままだった、という感じです。西ヨーロッパや北米ほど「どうしても行かなくちゃ」とは思わなかったわけですから、やはりどこかに軽視があったのかもしれません。

ガザ空爆の真っ最中、ジュネーブの国連本部に

私の想像力や関心の方向性が若干なりとも変わったのは、2014年7月、国連・自由権規約委員会の日本審査に日本のNGO団の一員として参加していて、なんとも身のよじられるような経験をしたことからでした。

私たちのグループは、障害者に対する強制収容・強制医療・虐待に関する訴えを行うために行きました。

人間に対して強制的に、あるいは騙して本人の望まない行為をすることは、人権侵害です。

障害者に対する人権侵害として、介護の都合によって不妊・断種手術を行った例が数多くあります。ドキュメンタリー映画「ここにおるんじゃけぇ」の主人公・(故)佐々木千津子さんもそのお一人です。グループの一員は、佐々木さんの写真パネルや映画についての資料を持って来ていました。佐々木千津子さんの受けられた不妊手術について詳しく知りたい方は、児玉真美さんのブログもご参照ください。

Ashley事件から生命倫理を考える:佐々木千津子さんの強制不妊手術

精神科病院での虐待に関する写真も、パネルや資料として持って行きました。今年7月にやっと問題とされて報道された千葉県の事件のものです。

私たちは連日、国連本部や人権委員会(本部とは別の建物)に通い、人権委員の前で、あるいはブリーフィングの場で、グループで、一人で、説明を続けていました。

ちょうど、パレスチナでガザ空爆が行われていた時期でした。

突然の「写真は持ち込んじゃダメ!」

ところがある日、昨日と同じメンバーで、昨日と同じ荷物を持って受付を通過しようとし、昨日と同じように荷物チェックを受けたところ、パネルと資料を「写真が入っているから」という理由で全部取り上げられてしまったのです。帰りがけには返してくれましたけど。

他の日本人グループも同様で、

「何があったのかなあ?」

「残酷な殺され方をした子どもの遺体の写真を持ってきて配った人が、誰かいたんじゃないの?」

という会話をしました。

そこは国連です。

「ガザ空爆を止めさせてほしい、ガザで何が起こっているかを知ってほしい」

という目的のもと、意思決定に力を及ぼしうる人に対して、街の惨状や悲惨な殺され方をした人々の写真を見せたいという意向を持った人が来ることも、当然のこととして考えられます。

もちろん私たちも、

「日本の障害者はまっとうに人として扱われて平和に障害を全うする権利があるけど、ガザの人々はそうじゃない」

などとは、全く考えていませんでした。しかし同時に、

「イスラエルのガザ空爆に対して、国連は今度も有効な介入は何もできないんだろうなあ、はぁ」

とという思いもありました。

でも私たちの前には、イスラエル出身の方も含め、国連の人権委員がいました。

私たちがそこにいるのは、日本の障害者が、現在どういう状況にあるかを知っていただくためです。

さらに、今後は酷い扱いを受けず、人として尊厳を持って生き続けられるようにするために、日本に何が足りないかを知っていただくためです。

その上で、最終的に日本に対して何を要請するかは、人権委員の方々が決めることです。

とりあえず私たちは、限られた時間の中で、理解していただくことにベストを尽くすしかありません。ガザの状況に関心があっても、その話はしていられませんでした。

活動の合間にニュースやSNSをチェックし、引き裂かれる思いに

その時、ガザにはジャーナリストの田中龍作さんが滞在していらっしゃいました。国連のその時の日本審査の全スケジュールが終了する3日ほど前に、志葉玲さんもガザに行き、田中龍作さんと一緒に活動していらっしゃいました。私は、田中龍作さんとは既に面識がありました。その時点では志葉玲さんに会ったことはありませんでしたが、数ヶ月後、イベントで初対面となり互いに挨拶をしました。その時のガザには、知り合いと、知り合いの知り合いがいたわけです。

SNSのフレンドには、ガザ情勢に深い関心を寄せている方々が何人もいました。彼ら彼女らは、国連が爆撃を止めさせるための行動を何もしていないことに怒り、その間にも爆撃が続き街が破壊され死者・負傷者が増えていることを嘆き悲しんでいました。

私は毎朝毎晩、田中さんと志葉さんのご無事を確認してはホッと一息つき、「今晩も(明朝も)どうぞご無事で」と祈っていました。祈りながら、

「米国籍・イスラエル国籍の人々多数を含む国連関係者に説明して理解を求めて回っている自分って、何なんだろう?」

と思いました。国連がガザに対する攻撃を止めさせる行動を取ってこなかったのは、その当事者であるイスラエルと、指示する米国が反対しつづけてきたからです。

SNSフレンドたちの何人かは、その間も、ガザの犠牲を悲しみ「国連は何のためにあるんだ」と怒っています。

「その国連での活動のために来ている自分は、何なんだろう?」

と、やはり思いました。

胃のよじれそうな思いがしました。

でも、午前5時には起き、日本への電話連絡や電話インタビューを行い、原稿を軽くまとめたりしていた私は、午前7時にはお腹ペコペコでした。ホテルの食堂で、コーヒー・パン・チーズ・果物を食べると、やはり美味しいものは美味しいのです。

国連の食堂で、外食税のかからないランチ(といっても最低で日本円換算1200円程度←食材がそもそも高価)を食べれば、やはり美味しいのです。

夕方までの活動を終え、日本からの仲間で、あるいはジュネーブにいる障害者の国際組織の仲間と一緒に飲食すれば、やはり美味しいし楽しい。

さまざまな矛盾に引き裂かれそうな思いになりながら、喜んだり悲しんだり、楽しんだり怒ったりできることは、比較的安全な環境にいられる者だからこその特権です。

思い悩めること、選べることは、先進国に生きる人々の特権

私が「矛盾に引き裂かれる思い」という特権を持てたのは、高度成長期の日本の中産階級家庭に生まれ、世の中全体に余裕のある状況で育ち、それらの時期と場所の恩恵を引きずったまま、現在も日本で暮らしているからです。まったく、偶然の産物です。私自身の努力や選択の影響は、方向性や結果を少しだけ変えた程度でしょう。

「胃がよじれそうになる」と言える立ち位置にいられることの特権性。

「そうはいっても目の前のビールもチーズも美味しいし」と言える特権性。

「やるせないけど、仕事あるし!」と言ってパソコンに向かうことのできる特権性。

多重の特権性をイヤというほど突きつけられながらジュネーブで過ごしていた約1週間でした。

そのうちに、ハタと気付いたのです。

思い悩むことができるから、選ぶことができるから、胃がよじれるのです。

胃をよじらせ、やるせなさに溜息をつくことこそ、先進国にいる人間の責務なのだろうと。

思い悩み、知り、選び、「先進国税」を支払おう

先進国にいるからといって、「我が身を守りたい」「我が家族、我が仲間を守りたい」「より豊かに暮らしたい」という欲求を持たずにいられるわけではありません。

先進国に生まれ育ち、これからも過ごすことを余儀なくされるからこそ生まれる切実なニーズもあります。そのニーズは、生き死にに直接関わらないまでも、生活の質には関わります。戦場となっている国の人々の暮らしに比べて、どちらが軽い・重いと簡単に言えるものではないでしょう。

悩むヒマ・選ぶ余裕を自分自身のために使ってはいけないという法律はありません。他人のために個人が過剰に悩まずに済むために、本来なら徴税や分配があるはずです。国単位でも世界でも徴税と分配が機能していれば、私たちは他人のために悩まなくていいはずです。

「国が悪い、国連などの国際組織が悪い、あたしゃ関係ないよ」

というのも、一つの態度でしょう。

どういった判断をし、どういった態度で行動するのかを含め、日本にいる人々には、実に数多くの悩みの種と選択肢があります。

たとえば2015年11月のパリ同時テロとその後について、情報が多く馴染み深さを感じる人の多いフランスに思いを馳せるのか? 

それとも、情報が少なく馴染みも薄い人の多いシリアに思いを馳せるのか? 

両方に思いを馳せるのか? その場合、どういうバランスで何を根拠に思いを馳せるのか?

その時、地中海を渡ろうとしている難民たちは忘れていてもいいのか?

さらに言えば。

お金がないからといって、ファストファッションに手を伸ばしていいのか? 

発売されたばかりで高性能で、なのに安価なタブレットを購入していいのか? 旧型のiPadだって、簡単に買えるほどお金持ちじゃないけど?

異様に安い商品の背後には、ほとんど間違いなく、ブラック労働など「ブラック」な何かがあると分かっているのに?

知るべきことは多く、知れば知るほど悩みは深まります。

余計なことは知らされないように、見ないように生きることも、一つの選択肢。

でも、知って、見て、思い、悩み、その末に何かを一つ一つ選ぶという形で、先進国の人間は、間接的に「先進国税」を払うことになるのでは?

2014年7月のジュネーブでの経験から、私はそういうふうに考えるようになりました。

これからも、なるべく知り、なるべく見られるものは見て、思い悩み、選び、そのことで間接的な「先進国税」を払うつもりです。