京都国際マンガミュージアム「マンガと戦争展」で思った3つのこと
「マンガと戦争展」ポスターより
2015年6月6日から9月6日まで、京都市・京都国際マンガミュージアムにて、企画展「マンガと戦争展」が開催されています。
過日、ミュージアムを始めて訪れ、展示を見て感じたことから、3点を紹介します。

「マンガと戦争展」について
「マンガと戦争展」には、6つの視点から選ばれた24点のマンガ作品が展示されています。作品の発表年代は、1930年代~現代と、概ね80年間にわたっています。
作品の主対象・思想的背景もさまざまです。
特定の見方を押し付けるような展示にはなっておらず、各々の作品の作者が、どのような背景により、どのようなプロセスにより、その作品を制作して世に問うたのかが示されています。
決して広くない展示スペースは、さらに細かく区切られ、一作品の前には一人か二人程度しか立てないようになっています。
「各個人の心に湧き上がる、それぞれの思いを大切にしたい」
という意図のあらわれかもしれません。
印象に残ったポイントその1:ある特攻隊員の最期
最も印象に残ったのは、ある特攻隊員の以下のようなエピソードです。作品名も作者名も記憶していないのですが。
特攻を命じられたものの、一旦は帰還した青年の実家で、青年の両親が近所の人たちにつるしあげられている。
罵声を浴びせ、時に石を投げる人々の口から
「うちの息子は戦死したのに」
という言葉が漏れる。
その時、両親の頭の上を、特攻機が飛んでいく。その特攻機には再びの出撃をする青年が乗っている。
両親は、もしや息子ではと思い、手を振る。しかし機上の人は反応せず飛び去る。
「違うみたいだ」
という両親に、息子を戦死させられたご近所さんが、また石を投げつける。
そのまま飛び去った青年は、特攻の任務を果たさず、近くの山に激突して死ぬ。
両親に最後の別れを告げようとしていた青年には、両親が近所の人たちに責められているのも見えたからである。
「やるせない思い」としか言い表しようのない気持ちになり、涙が出そうになりました。
そして「なんだか、日本人の愚かさの象徴のような話だなあ」と、情けなくなりました。
「ウチの息子が戦死したんだから、そちらの息子も死ね」
という親の気持ちは、理解できなくもありません。
当時、息子を失った悲しみや怒りをぶつけることが可能だった相手は、まだ息子が戦死していない親くらいだったのでしょう。
しかしそれは現在、ワーキングプアが生活保護利用者を憎む構造と、どこが違うのでしょうか?
印象に残ったポイントその2:「負ける」と思っていたインテリが特攻で死に得た理由
次に印象に残ったのは、小林よしのり氏による下記のエピソードについての作品です。
終戦直前、「もう勝てないだろう」という認識がかなり広まっており、もちろんインテリや大学生の多くはそうだった。しかし、それを認識しつつも、「学鷲」に志願して特攻を行った大学生たちもいた。
作家の山岡荘八は、特攻基地に海軍報道班員として配属され、特攻隊員の底抜けの明るさに「なぜ」と疑問を抱いていた。
山岡は、若いN中尉にその疑問をぶつけた。インテリとして、日本軍の現状をある程度「勝てるわけはない」と知っている「学鷲」の隊員たちが、なぜ特攻に志願して飛び立とうとしているのか、と。
N中尉は、「学鷲」が特攻を志願した人々であり、動揺期は克服していることを話し、さらに
「勝てるとは思っていないが、負けたとしても、講和条件やその後の日本人の運命、さらに民族の誇りにつながる」
と語った。
そして数日後、愛する者達への感動的な遺書を残し、山岡に見送られて特攻に飛び立ち、戦死した。
小林よしのり氏は、さらに、個人の生死を超えた壮大な物語としての大東亜戦争を、未完の物語として称揚しています。
私はそのスタンスには疑問を覚えます。
戦争がそもそも始まっていなければ、負けた後の日本を心配することなく、N中尉は愛する人々とともに人生を全うすることができたかもしれません。
国や民族の壮大な物語?
一つ一つの家族・一人一人の人々の散文的かつ平穏な幸せのほうが、よほど大切だと私は思っています。
そういう人たちとつながり、自分と愛しい者たちの生存と生活を守りながら、社会の一員でありたいとも思います。
個人レベルで全体像をつかむことなど不可能な「国家」、そもそも定義が不明瞭な「民族」といったものの「壮大な物語」の一部に取り込まれ、不本意に、あるいは本意と思い込んで思い込まされて、本当は生きたいのに生きられなくなるのは、絶対に避けたいことです。
しかしながら、その「壮大な物語」を必要とする人がいます。また「壮大な物語」に取り込まれたい人がいます。
小林よしのり氏は、そののニーズに応えています。
私にそれはできません。しかし、その私も、「壮大な物語」を必要とする人々に届く言葉を持つ必要はあるのだと痛感しました。
印象に残ったポイントその3:京都精華大「マンガ学部」の驚き
京都国際マンガミュージアムは、「マンガ学部」を持つ京都精華大と京都市が共同運営しているミュージアムです。
初めて訪れた私は、京都精華大の戦略性と先見性(日本のマンガ業界を含めた出版業界の地盤沈下への先見性も含め)に驚きました。さらには現在までの展開も。
当初から「マンガ」「アニメ」というコンテンツを、社会のありとあらゆる場面に浸透させることが目指されていたのです。そうすれば、商業出版の市場縮小によって、コンテンツ産業が息の音を止められることもなくなるでしょう。
2011年、技術評論社『Software Design』誌で技術面を中心にレポートしたことのある「コミPo!」にも、体験コーナーが設けられていました。「コミPo!」もまた、幅広い人々にマンガ制作という表現手段を届けることを目的の一つとして開発されたアプリケーションです。
正直なところ、私は、京都精華大が「マンガ学部」を設置すると聞いた時、「そこまで追い詰められているのか」と驚きました。
大学の入学者減少を見越した話題作りで延命する作戦かなあ? と。
しかし、そういうふうに世の中を「は?」と驚かせることも織り込み済みの周到な戦略と攻めの運営であったのだと、遅まきながら気づきました。
卒業生の今後については、まだ評価は尚早というところでしょう。しかしながら、どのように京都精華大が「マンガ学部」を構想し、設置して現在に至っているのかは、日本のありとあらゆる大学が参考にしうる何かを含んでいるものと思われます。
「誰か書いてくれないかなあ」と期待しています。大学に長く関心を寄せてきているものの、マンガについて全くの無知に近い私には、まず書けませんので。
印象に残ったポイント おまけ:日本の原爆マンガのほとんどが広島だった
私にとって意外だったのは、
「日本への原爆投下に関するマンガ作品は、ほとんどが広島を題材としており、長崎はほとんどなかった」
という事実でした。
福岡県に20歳までいた私にとっては、直接・間接に聞く原爆の話は圧倒的に長崎の方が多く、小学校の修学旅行でも長崎原爆資料館に行きました。「そういえば、長崎原爆を題材にしたマンガ作品は見たことなかった」と気づいたのは、つい先週「マンガと戦争展」に行ったときです。
インターネットが「あたりまえ」になった現在、地理的条件や年代といった替え難い要素・替えられない要素による影響は、私が小学生~20代だった1970年代や80年代よりは少なくなっていることでしょう。しかし、そういった要素が人間に与える影響は意外に大きく、知恵や知識だけで乗り越えることはなかなか難しそうです。
私は経験論者ではありませんが、やはり経験や体験は大きな役割を果たしているのだと気づいた一瞬でした。

どなたにも、何らかの気づきがある展示会だと思います。
外国の方も多数、来場していました。
行ってみるべきミュージアムと、行ってみるべき展示会展覧会に、お近くの方・機会のある方は、ぜひ!
(……心の片隅で、全国巡回展を期待しつつ)